第04話:あかい傷あと(下)
少し遅くまで訓練のあった日は、午後は部屋でフリータイムになる。南一班では、鶸が床に寝そべって図鑑の写しを読んでいる。
深緋は、机で任務記録の再提出分を書いていた。時々「うーん」と唸っている。難しいのだろう。
月草はベッドの上に座り、膝を抱えて顎を乗せたままぼんやりしている。
膝のあいだに顔を半分埋めた。
目の奥が、じんわり熱かった。涙ではなかった。涙の手前の、まだ何にもなっていない熱がずっとそこに居座っているみたいだ。
(また、やったらどうしよう)
訓練のとき、手のひらが汗ばんだ感覚を思い出した。
手のひらから出ようとする魔法を、月草は止めたんじゃなかった。止まってしまった。自分で止められないかもしれない、と思った瞬間に、何も出なくなった。
でも、いつも止まってくれるとは限らない。
「ツキ、こっちおいでー」
鶸が床から手招きする。
「……いい」
「えー」
鶸はまた図鑑に戻った。ぱらり、とページをめくる音。
一方で机にかじりついていた深緋は、ふかいため息をついた。
「あー……わかんなくなっちゃった」
「コキア、まだ終わんないの?」
「終わんない……」
深緋が机に突っ伏して、うーんと立ち上がる。ポットのお湯を沸かし始める。
「ちょっと気分転換しよ」
「ボクはお砂糖多くしてー」
「はいはい」
「まだ訓練着のままじゃん、コキア」
「ねー……」
お湯が沸く間に、深緋はぽいぽいと部屋着を出して着替え始めた。深緋の左肩の少し下から腕の外側にかけて、まだ赤黒い傷跡が走っていた。縫った跡が、きれいに横に並んでいる。
月草は息をのんだ。
深緋は隠すでもなく、見せるわけでもなく、ただ着替えただけだった。部屋着のシャツを被って、そのまま手を洗い、お茶の支度をしている。
ただ、月草はその傷跡を見ると、胸の奥がざわざわした。
「ツキ、今日ずっと元気ないねえ」
「……うん」
「おなか痛い?」
「ちがう」
「ねむい?」
「ちがう」
「んー、じゃあ、なんかある?」
「……ない」
「ふうん」
お湯が沸くまで、部屋は少し静かだった。ポコポコという音だけがしている。
鶸が図鑑をめくりながら、
「ねーコキア、この鳥すごくない?真っ赤」
と言った。
「どれ?」
深緋が後ろから覗き込む。
月草は、その動きを見ただけで、またさっきの傷が頭に浮かんでしまった。
あの傷は、いつできたんだろう。任務だろうか。痛かっただろうか。
深緋は、普通に笑っていた。
「ヒワ、それ鳥じゃなくて魔獣」
「えっ」
「書いてあるよ」
「うわほんとだ。『沿岸部に生息する魔獣』だって。うわー」
鶸が笑っている。
深緋も我慢できずに笑った。
月草は、なんとなく、自分の左手を握った。
*
お茶を飲み終わるころには、外はもう暗くなっていた。鶸は途中で毛布へ沈み込み、そのまま寝かけて、深緋に「ヒワ、ちゃんとハミガキして」と引っ張り起こされていた。
「ねむいー」
「だめ」
「コキアはきびしいー」
「はいはい」
鶸は手早く、というよりぞんざいにハミガキを終えてそそくさとベッドへ戻った。月草は残って一人で洗面所で歯を磨いた。鏡の中の自分の顔を見る。でも、さっき見た傷跡が、まだ頭の奥に残っていた。赤黒かった。深緋のきれいな赤い髪より、どす黒い色で縫った跡が横にきれいに並んでいた。
あんな傷、痛そうだ、と思った。それなのに深緋は、普通にお茶を淹れていた。
月草は歯ブラシを動かしながら、ぼんやり考えていた。
「ツキー、まだー?」
鶸の声が飛んできた。
「……いま行く」
部屋へ戻ると、深緋がベッドを整えていた。鶸はもう半分寝ている。
「おやすみ」
「おやすみー……」
「……おやすみなさい」
照明が落ちる。常夜灯だけが、ぼんやり部屋の端を照らしていた。
月草は毛布を鼻のあたりまで引き上げた。眠いはずなのに、なかなか寝つけない。深緋の傷を思い出す。訓練の光を思い出す。夢の中で、誰かが吹き飛んだ。
胸の奥が、落ち着かなかった。
それでもいつの間にか、眠っていた。
*
暗かった。何も見えない。でも何かが近づいてくる気がした。怖くて息が苦しい。指先が熱かった。止めようとしているのに、勝手に熱が流れていく。
光った。
白い光だった。すぐ近くだった。
透明な壁が見えた。藍色の髪の誰かが立っていた。その次の瞬間、その隣にいた人が吹き飛んだ。音があとから耳の奥へ突っ込んできた。
赤かった。
誰かが何か叫んでいた気がする。自分の声だったかもしれない。
「――ツキ」
肩に、そっと手が触れた。ビクッと体が跳ね上がる。
「ツキ、大丈夫?」
月草は、はっと目を開けた。息が苦しい。汗をかいていた。
暗い部屋の中で、深緋がベッドの横に座っていた。常夜灯のオレンジ色が、深緋の髪をぼんやり照らしている。
「……コキア?」
「ごめんね、起こした。ヒワから聞いて、ちょっと心配してたんだ」
月草は、ぼんやり深緋を見上げた。眠気と、怖かった夢の続きを、まだ身体が引きずっていた。
「……心配……?」
「うん。ちょっとだけね」
深緋はベッドの端へ軽く腰掛けた。
「怖い夢みた?」
月草は、すぐに答えられなかった。怖かった。でも、何が怖かったのか、まだうまく言えない。
しばらく黙っていると、深緋が静かに言った。
「大丈夫だよ」
その声を聞いた瞬間、夢の中で吹き飛んだ誰かの姿が、急にはっきりした。
左肩。
赤黒く染まった服の袖。
透明な壁。
赤い髪。
深緋だった。
月草は息が止まった。
(了)
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