愛
——鯛やヒラメの舞い踊り。
目の前の光景は、まさにその通り。
振舞われた刺身を摘みながら、それに見惚れていた。
遥か上空から僅かに指している光が、魚の鱗を反射してキラキラと輝いている。
どうしてここにきたんだっけ?
私はここまでの記憶を思い出していた。
***
【ようこそ! 人魚の里へ!】
人魚のイラスト部分が錆びて判別し辛くなっている看板を、バスの窓から流し見た。
なんでも10年ほど前人魚を見たとか見ないとかで、世間の注目を集め、それで町おこしをしたらしい。
不老不死になれるやら、怪我の治りが早くなるやら、眉唾の都市伝説染みた事も囁かれていたようだ。
しかし、結果は見た通り。
噂が鎮まり、新しい情報がなければ熱は冷める。
どうしてそんな寂れた街に来たかと言うと、隠れスポットとして、美味しい海鮮丼が食べられると言う話を小耳に挟んだから。
温泉も近くにあるらしい。
美味しいご飯と気持ちのいい温泉に浸かる……。
ここ最近休めていなかった自分へのご褒美だ。
***
それから私は、せっかくだから近くの観光地……とは言っても、例の人魚が目撃されたらしい海岸に降りて、しばらく歩いて。
いい頃合いだから、噂のお店に向かう為、石階段へ歩き始めた……と言うところまでは覚えている。
辺りを見渡す。
横には美しい黒髪の、綺麗な着物を着た女性。
自分以外の客はいない。
目の前には、あれよあれよという間に振舞われた魚料理の数々。ちなみに、とても美味しかった。
顔を上げれば、魚がガラスという境なしに踊り泳いでいる。
——竜宮城。
まさにその一言で説明ができた。
亀を助けてもいない私が、一体いつから浦島太郎になったかは謎だったが。
***
「楽しまれていますか?」
女性が酒器を片手に、私の横へ近寄ってきた。
それを「これから風呂に行く予定なので。」と丁重に断わらせていただく。
「とても楽しませていただいてますが……ええっと。私はいつこちらへ来たか、覚えていなくって」
いい歳なのに迷子のようなことを言っている。
実に自分が情けない。
一応、先ほどスマホを確認したが、うんともすんとも反応がなくなっていた。
故障かもしれない可能性にショックを受けていたが、美味しい料理でなんとか自我を保っている。
女性は、酒を下げながら「残念。」と綺麗に笑うと、身を乗り出した。
耳打ちするように、白魚の手を口に添えて。
「……竜宮城はご存知?」
クスクス妖艶な笑みを浮かべて、私を見つめた。
「もちろん、浦島太郎は有名ですから」
「わたくし、あのお話大好きなの」
酒の代わりに、お茶をコップに注ぎながら女性は言った。
(……コンカフェ的な感じなんだろうか?)
お礼を言いながら、コップのお茶に口をつける。
少し磯っぽい香りがした。
「竜宮城をモチーフにされたんですね」
「そうなのよ! お客様には浦島太郎みたいに楽しんで頂きたくって!」
女性は嬉しそうに笑った。
「……この辺り、昔は賑わっていたけれど寂れてしまったでしょう?」
少しだけ寂しそうに笑う。
そして、困ったような表情をして私を上目遣いで見つめた。
「久しぶりに観光のお客様がいたから、少し強引に客引きしてしまったの。覚えていないかしら」
そうは言われても、やはりここに来た記憶はなかった。
私は曖昧に笑うことしかできない。
「……それにしても本当に竜宮城みたいですね。魚も本物みたいだ」
はぐらかすように、自由自在に踊り泳いでいる魚に目を向けた。
周りに投影機も、スクリーンもない。
今流行りのプロジェクションマッピングというわけではなさそうだ。
「すごいでしょ? お人形遊びみたいなものだけれど」
(お人形……?紐で釣っているのかな)
彼女の答えに、私は思わず首を傾げた。
***
「こんなに良くしていただくと、お代が少し怖いかもな」
私のぼやきに、女性は桜色の口に微笑を浮かべる。
「お代は、もう頂いていますわ」
「え?」
思わず声が出た。どういう事なのだろうか?
覚えていないうちに払ったのかと、財布を取り出すも、所持金は一切減っていない。
私の様子に女性は笑った。
「わたくしたち、お金はいただいておりませんの」
どういう意味か、さっぱりわからない。
「じゃあ、頂いたって……何を?」
思わず生唾を呑む。
焦りと一緒に、急に息苦しさと違和感を覚えた。
ここはこんなに湿っぽかったか?
肌に触れる空気の温度が、僅かに生ぬるく感じた。
「お魚、美味しかったですか?」
「え? えぇ……」
急な話題変更に、思わず素直に答えてしまった。
女性は「それは良かった。」と目を細める。
「……物語は本当に素敵。自分が置かれた状況に、その物語を想起させてくれるから」
「あの……?」
戸惑う私の声も気にせず、女性は続ける。
「あのお魚は、最近わたくしに絡めとられた人魚でしたの」
女性は私の顔に手を添える。うっとりと笑って。
その指先に温度はなく、微かに感じたねっとりとした感触に、ぞわりと鳥肌が立った。
「……その意味、お分かりになって?」
優しく、甘い声色。
「わたくしたちは少食ですから、あなただけで十分」
「ど、ど、どういう意味ですか?」
痺れた舌から、ようやく声が出た。
恐怖と嫌な予感で逃げ出したいが、体は全く動けない。
女性は顔を寄せた。
「あなたは捕食者ではなかった」
耳元で囁く、彼女の長いまつ毛が、微かに肌に触れる。
心臓の鼓動が早くなった。
「ご安心なさって? 浦島太郎のようにはなりません」
いつの間にか背中から触手が這い寄っていた。
ぬるりぬるりと、腹を、腕を、足に絡んでいく。
叫ぼうと口を開ける。
しかし口からは、声ではなく気泡が漏れた。
徐々に夢から覚めるように、景色が変わっていく。
泳ぐ魚の後ろに、わさわさと揺蕩う触手が覗いた。
恐怖で絡まれた足を動かす。
スニーカーの隙間から漏れた泡が、上へ上る。
必死にその泡へ手を伸ばした。
掴めない。
引き込まれる。
泡は見えないところまで行ってしまった。
「わたくしは……わたくしたちはずっと生きていますから。あなたを一人にはさせません」
彼女はうっそりと笑った。
「あなたは……物語の主人公ではなかっただけですから」




