間取りが合わない〜英語教師が洋館で見つけた、存在しない三階と直してはいけない答え〜
『因数が足りない』に続く県立潮浜高校シリーズ第2弾。
今度は、存在しない三階のある廃洋館へ。
■第一章 黒鷺館の噂■
梅雨入りの発表があった日の夕方、県立潮浜高校の職員室は、湿った紙の匂いがした。
窓の外では、小雨が運動場を薄く濡らしていた。グラウンドの白線はほとんど消え、サッカーゴールだけが灰色の景色の中に立っている。
英語教師の金森沙耶は、採点済みの小テストを揃え、赤ペンのキャップを閉めた。
日本の学生は、やはり文法問題に弱い。
隣の席で物理教師の元木雅人が、マグカップを持ち上げたまま眉をひそめた。
「黒鷺館?」
先ほど、職員室へ戻ってきた黒岩楽が、スマートフォンを片手に椅子を寄せてきた。
「正式には旧植田邸、と呼ぶそうです。潮浜の山奥にある古い洋館です」
「洋館ですか」
洋館、という言葉に金森は顔を上げ、話題に入った。
「それって要は……出るんですか?」
「さぁ。ただ、出る、と言う奴は出ました」
「どういう意味です」
元木が、マグカップを机に置いた。
黒岩はスマートフォンの画面を指で弾いた。
「心霊スポット系の配信者っているでしょう。黒猫モルグって奴。そいつが黒鷺館を“本当に出る廃洋館”として紹介したんです」
「ネーミングセンスからして信用度が低いですね」
元木が呆れた口調で言った。
「でも見てる生徒は多い。で、黒猫モルグ本人が、その配信を最後に消息不明」
金森の手が止まった。
「本当ですか」
「さらに、私立潮浜学院の生徒二人が肝試しに行って、そのまま戻ってない」
職員室の湿度が、一段下がったように感じた。
黒岩は声を落とした。
「警察も動いてますが、ネットはもう完全にお祭り騒ぎです。黒鷺館、ガチ。入ったら帰れない。そういう見出しが並んでます」
「入らなければ済む話でしょう」
元木が言った。
「高校生にその理屈が通れば、生活指導は存在しません」
金森は、揃えた答案を机の端に置いた。
「うちの生徒が被害に遭わないためにも、一度、確認しておいた方がいいでしょう」
「金森先生、確認って、何をですか」
元木が顔をしかめた。
「立入禁止の状況とか、周辺の危険箇所とか。注意喚起するにも、具体的に言えた方がいいじゃないですか」
「それは警察案件では」
「警察案件なのは分かっています。でも、生徒はそこを面白がって行くんですよ。現に他校の生徒が二名消えています」
黒岩が、金森の言葉に深刻な顔でうなずいた。
「そうなんですよ」
「でも、そんな物好き、わが校に居ますかね」
元木が言うと、黒岩は迷わず答えた。
「居ます。相沢くんとか相沢くん、あと相沢くんとか」
これには金森も元木も黙った。
少し離れた席で、真壁透が黒い方眼ノートを閉じ、ゆっくり顔を上げた。
「確かにそれは危険ですね。行きましょう」
「即決ですか」
「相沢くんには、前科があります」
「前科って表現はどうなんですか」
金森が言った。
「では、観測実績」
「もっと悪くなった気がしますけど」
真壁は立ち上がった。
動作は滑らかだったが、金森はその前に一瞬だけ間があることを知っている。
椅子を引き、右足に体重を乗せ、膝の角度を確かめてから、真壁は立つ。
昨年秋に起きた一連の事故のあと、真壁の体にはまだプレートやボルトが多数残っている。
本人は平然としているが、階段の上り下りや急な方向転換では、計算するように体を動かす。
黒岩が真壁を見た。
「早く人間になりたい!」
「妖怪扱いはやめてください」
金森は、少し心配になって真壁の足元を見た。
「真壁先生、人間に戻れるのはいつ頃なんですか」
「金森先生まで」
「いえ、プレートとかボルトの話です」
「ああ、あと一年は掛かりますかね」
元木が真顔でうなずいた。
「先は長そうですねぇ、サイボーグ生活」
「わが校の職員室は倫理基準が低すぎますね」
真壁はそう言って、自分の机の上に置いてあった黒い方眼ノートを鞄に入れた。
「ただ、私は速く走れませんよ」
「ダッシュしなきゃいけないような事態にはしません」
金森が断言すると、元木が小さく咳払いした。
「金森先生、念のため確認しますが、我々は心霊調査に行くわけではありません」
「もちろんです」
「危険箇所の確認と、生徒への注意喚起材料の収集です」
「そのつもりです」
「ならば、私も行きます」
元木は言った。
「非科学的な噂ほど、科学的な否定が必要ですから」
黒岩がにやりと笑った。
「やはり頼もしいですねえ、元木先生」
「ただし、幽霊が出ても私は担当外です」
「じゃ誰の担当なんですか」
金森が聞いた。
黒岩は、少し考えたあと真壁を指さした。
「前回、異世界担当だった人」
「心霊現象は私の専門分野ではありません」
「でも、変な目には遭ってるでしょう」
「変な目に遭っただけで、専門家にされては困ります」
真壁は眼鏡を押し上げた。
「ただ、黒鷺館という名称は、少し気になります」
「知ってるんですか」
金森が聞いた。
「聞き覚えがある、その程度です」
黒岩は、スマートフォンで管理会社の番号を調べ始めた。
「旧植田邸の管理会社、ここだな。潮浜総合管理」
「今から電話するんですか」
「する。こっちも学校ですからね。生徒が勝手に入り込む前に周辺確認したいと言えば、話くらいは聞いてくれるでしょう」
黒岩は窓際に移動し、電話を掛けた。
小雨がガラスを細かく叩いていた。
金森は、その音を聞きながら、黒鷺館という名前を頭の中で繰り返した。
黒い鷺。
白い鳥のはずのものが、黒い。
それだけで少し、胸の奥が冷えた。
数分後、黒岩が戻ってきた。
「明日なら、担当が現地を案内できるそうです」
「急ですね」
「土曜の午後。担当者は牧村怜司さん。旧植田邸は今も管理物件で、外周と玄関周りまでは確認できるらしいですよ」
「中には入れないんですか」
金森が聞いた。
「必要なら、状態確認として一部は見せられるそうです。向こうも勝手に入られるよりは学校関係者に見せた方が良いと思ったんでしょう」
元木は腕を組んだ。
「では、明日午後。現地確認ということで」
「私は学校に残りますから、何かあったら連絡してください」
黒岩が言った。
「何かある前提で言わないでください」
金森はそう言ったが、黒岩は笑わなかった。
小雨が、窓ガラスを細かく叩いていた。
金森は机の端に置いた答案へ目を落とした。
赤い丸とバツの並ぶ紙面に、黒鷺館という名前だけが、まだ採点されていない誤答のように残っていた。
■第二章 黒い館の女■
翌日の午後、雨は上がっていた。
梅雨の晴れ間の白い光が、山道の濡れた葉を照らしている。
道路脇の側溝には、昨夜の雨水が細く流れていた。
金森、真壁、元木の三人は、旧植田邸へ向かう坂道を上がった。
坂の先に、古い石造りの門柱が見えた。
門柱の右側には、かつて表札だったものが残っていた。
緑青の浮いた金属板に、文字の溝だけが黒く沈んでいる。
門の前に立っていたスーツ姿の男が、白い手袋の指先で表面の土埃を軽く払った。
〈植田〉
金森は、その二文字を読んだ。
家の名前というより、そこに残された名字の骨のように見えた。
「潮浜総合管理の牧村怜司です」
男は三人に向かって、深く頭を下げた。
差し出された名刺の紙は白かった。
「旧植田邸は、現在も管理物件として扱われています」
牧村は門の脇を示した。
そこには比較的新しい白い管理プレートが取り付けられていた。
山の湿気でアクリル板は曇り、端の方には細かなひびが入っている。
管理物件:旧植田邸
無断立入禁止
潮浜総合管理
黒い文字は事務的で、屋敷そのものよりも新しかった。
元木がプレートを見てうなずいた。
「少なくとも、管理責任の所在ははっきりしていますね」
「はい。ですが、近年は外周確認が中心です。建物内部は老朽化が進んでおりますので、通常は立ち入りをお断りしています」
「本日は、どこまで確認できるんですか」
金森が聞いた。
「外周と玄関周り、それから内部の一部です。生徒さんへの注意喚起資料として、危険箇所を確認されたいとうかがっております」
「決して心霊調査ではありません」
元木が言った。
「承知しております」
牧村の声は名刺の紙と同じくらい白く、平らだった。
門柱の左側に別の文字があった。
看板ではなく、誰かが黒いスプレーで石に直接吹き付けたものだった。
〈黒鷺館〉
その文字だけが、他のものと違っていた。
管理される名前でも、残された名字でもない。後から貼り付いた噂の名前だった。
「落書きですか」
金森が言うと、牧村は一度だけ視線を向けた。
「ええ。肝試しで侵入した方々によるものと思われます」
「消さないんですか」
「消しても、また書かれますので」
牧村はそう言って、門の鍵を開けた。
鉄の門は、湿った音を立てて内側へ動いた。
門をくぐると、石畳に西日が斜めに差していた。
金森の影が伸びた。元木の影も、真壁の影も、濡れた石の上に長く落ちている。
真壁は、何も言わずに牧村の足元を見ていた。
旧植田邸は、門の奥に建っていた。
聞いていた通りの古い洋館だった。
壁は黒ずみ、屋根は湿った光を吸っている。
正面から見れば、二階建てに見えた。
けれど金森は、屋根のすぐ下に細長い窓を見た気がした。
「あれは?」
金森が言いかけると、牧村が静かに言った。
「旧植田邸は、二階建てとして管理されています」
その日本語は丁寧だった。
けれど、金森にはどこか引っかかった。
『管理されています』
その表現は、採点し終えた答案の誤答のように、金森の中で引っかかった。
牧村は玄関前に立ち、古い鍵を差し込んだ。
鍵が回る音は、思ったよりも大きかった。
重い扉が、ゆっくりと内側へ開いた。
外は蒸し暑かった。
だが玄関を一歩入ると、汗が首の後ろで冷えた。
湿った木と古い布の匂いが、屋敷の奥から流れてきた。
「こちらへ」
牧村は先に立って、三人を中へ招いた。
玄関を越えた途端、牧村は当然のように扉の脇へ退いた。
さっきまで前を歩いていた管理会社の担当者が、そこでは客を迎える側の位置に立っていた。
金森が薄い上着に手を掛けると、牧村は両手を差し出した。
「お預かりいたします」
「いえ、大丈夫です」
金森は上着を脱がなかった。
言葉は丁寧だった。
けれど、さっきまでの会社員の口調ではない。
まるで、役を与えられた人間の声だった。
玄関から廊下へ進むと、湿った床板が低く鳴った。
金森の靴の下で軋み、元木が一歩進むと、また鳴った。
真壁は少し重心をずらし、右足を確かめるように進んだ。音は、他の二人とわずかに違った。
牧村の足元だけは、鳴らなかった。
「古い建物ですから、床にはご注意ください」
牧村が言った。
元木が、床板の継ぎ目を見た。
「湿気で反ってますね。梅雨時は危険です」
「危険は、避けられるために知らされるものです」
牧村の返事に、金森は顔を上げた。
また意味は分かる。
けれど、日本語としてはどこか曲がっている。
「こちらにお住まいの方は、いないんですよね」
金森は聞いた。
「はい、おられません」
「では現在、ここは完全な空き家なんですね」
「そのように管理されています」
牧村は少しだけ間を置いた。
「奥様は、応接室でお待ちです」
金森は足を止めた。
元木も顔を上げた。
「今、住んでいる方はいないと言いましたよね」
「はい」
「では、奥様というのは」
「奥様です」
牧村はそれ以上、説明しなかった。
応接室の扉の前で、牧村は誰もいない廊下へ一礼した。
金森が目を向けた時、廊下には誰もいなかった。
扉が開いた。
カーテンは重く、壁には暗い色彩の風景画が掛かっていた。
西日は窓から斜めに入り、テーブルの上だけを白く照らしている。
部屋の隅だけが、光を受けていなかった。
そこに、黒い服の女が立っていた。
いつからいたのか分からなかった。
長い黒衣。白い手。整いすぎた顔。
年齢は分からない。
だが、その美しさには人の体温がなかった。
「お客様方は、ここへ迎えられました」
女は静かに言った。
金森は、背中の奥が冷えるのを感じた。
「……生気を感じませんね」
「金森先生」
元木が低い声でたしなめた。
「初対面の方に向かって失礼ですよ」
「すみません。でも」
金森は女から目を離せなかった。
真壁は女ではなく、床と窓の位置を見ていた。
「金森先生は、言葉を教えられる方ですね」
女が言った。
金森は息を止めた。
「なぜ、それを」
「知らされるべきことは、知らされています」
女は金森を見たまま、ほとんど表情を変えなかった。
「この館は、望まれるだけ確かめられてよろしいのです。ただし、迷われた方は見つけられるべきです」
金森は赤ペンを持っていない右手を握った。
直したい。
そう思ってしまった。
牧村が応接室の扉を開けた。
「侵入者の痕跡が確認されたのは、書斎付近です」
「侵入者というのは、黒猫モルグですか」
金森が聞いた。
「そう呼ばれている方かどうかは、こちらでは確認できておりません」
牧村は廊下の奥を示した。
「前回の巡回時、書斎付近に荒らされた形跡がありました。生徒さんが入りそうな動線としても、玄関から書斎までをご確認いただくのがよろしいかと」
「なるほど。危険箇所の確認としては妥当ですね」
元木が言った。
「妥当かどうかは、まだ分かりません」
真壁が言った。
「どういう意味ですか」
金森が聞いた。
真壁は黒い方眼ノートを取り出した。
「廊下が外観と合っていません」
廊下は外から見たより長かった。
元木は歩数を数え始めた。
真壁は廊下の幅と窓の位置を書き込んでいる。
金森は壁に掛かった部屋札を見た。
〈読まれるための部屋〉
「何ですか、これ」
「書斎の古い呼称ですかね」
元木が言った。
「呼称というより、これでは外国語の直訳です」
金森は小さく言った。
牧村は書斎の扉を開けると、廊下側へ身を引いた。
「私は、こちらで控えておりますので」
その言い方も、もう管理会社の担当者のものではなかった。
書斎は、外の明るさから切り離されていた。
壁一面の本棚には、革表紙の洋書と和綴じの古い冊子が詰め込まれている。
窓際の大きな机には、黒ずんだインク壺と、羽根ペンに似た古いペンが置かれていた。
本の匂いというより、湿った紙が長い時間を吸った匂いだった。
棚の奥に、黒い布表紙の本があった。
『黒い館の女』
背表紙の題名だけが、かすれた金文字で残っている。
真壁はそれを手に取り、表紙を開いた。
奥付はなく、代わりに手書きで名前がある。
植田静馬。
「この本、知ってるんですか」
真壁の手つきを見て、金森が聞いた。
「詳しくは。ただ、原題らしきものを古い目録で見たことがあります」
「日本語訳は出ているんですか」
「正式な邦訳は、存在しないはずです」
真壁はページをめくった。
「恐らくこれは私家版です。少なくとも、一般流通している本ではありません」
その時、元木が棚の下を指さした。
「真壁先生、金森先生、これを見てください」
床に小型のライトが割れて落ちていた。
黒いマイク。折れた三脚。泥の付いたスマートフォン。
その横に、配信用の小型カメラが転がっていた。
カメラは割れたモバイルバッテリーに繋がったままだった。
「触らない方がいいですね」
元木が言った。
金森が身を屈めた時、小型カメラの液晶画面が勝手に明るくなった。
残量表示は1%だった。
動画ファイルが一つだけ開いている。
画面の中で、若い男の声がした。
『どうも、黒猫モルグです。今回はガチで出る廃洋館、黒鷺館に来ております』
画面の中で男が笑っていた。
その背後の廊下に、黒い服の女が立っていた。
金森は息を止めた。
次の瞬間、映像は乱れ、暗くなった。
金森は牧村に声を掛けようとして、扉の方を見た。
廊下には誰もいなかった。
さっきまでそこにいたはずの牧村の姿はなかった。
映像が消えると同時に、どこかから子供の歌が聞こえた。
日本語の歌だった。
けれど、息継ぎの場所がおかしい。
金森は学生時代、合唱部だった。
だから余計に分かった。
言葉が旋律に乗っていない。
まるで日本語を、別の言語の順番で歌っているかのようだった。
「この歌、変です」
「歌詞がですか」
元木が聞いた。
「歌詞もですが、息継ぎの場所が日本語じゃありません」
廊下の奥に、子供の影が見えた。
金森は反射的に歩き出した。
「金森先生!」
真壁が呼んだ。
「待ってください。廊下が先ほどより伸びています。明らかに状況が異常です」
「それも異常ですけど、子供がいるんです!」
子供の影は、廊下の突き当たりで消えた。
そこには、さっきまでなかった短い階段があった。
金森は足を止めた。
二階建てとして管理されているはずの屋敷で、階段は上へと続いていた。
■第三章 存在しない三階■
階段は、廊下の突き当たりに口を開けていた。
金森は手すりに触れた。
木は冷たかった。
外の湿気ではなく、ずっと日の当たらない場所に置かれていたような冷たさだった。
「この階段は外観上、存在しないはずです」
真壁が言った。
「その表現がもう嫌なんですが」
元木はそう言いながら、階段の上を見た。
子供の歌は、階段の上から聞こえていた。
近いのか遠いのか分からない。
金森は一段目に足を掛けた。
「行きます」
「金森先生」
「子供がいます」
それだけ言って、金森は階段を上がった。
段数は少なかった。
けれど、上がり切った先は二階ではなかった。
廊下は低く、長く、暗かった。
窓の位置が高すぎる。
天井は屋根裏のように迫り、壁には黒ずんだ布のような壁紙が貼られていた。
金森には、三階全体が一枚の黒い服の内側に思えた。
どこかで衣擦れの音がした。
姿は見えない。
けれど、この階の空気そのものが、あの黒い服の女を待っている。
真壁は黒い方眼ノートを開き、すぐに閉じた。
「合いませんね」
「何がですか」
元木が聞いた。
「この階の存在です。外観にも、二階までの廊下にも合いません」
三階の廊下には、いくつもの扉が並んでいた。
それぞれ古い札が掛かっている。
〈帰られるべき客室〉
〈見つけられる子供の部屋〉
〈母であることを待つ室〉
金森は最後の札を見て、胸の奥が冷えた。
直訳というより、命令文だった。
最初の扉の向こうで、誰かがすすり泣いていた。
金森は扉を開けた。
部屋の隅に、制服姿の生徒が二人いた。
一人は床に座り込み、もう一人は壁際で立ったまま、目だけを動かしている。
潮浜学院の制服だった。
部屋にはベッドが二つあり、シーツは古いホテルのように整えられていた。
けれど、その上には埃がなかった。
枕元には水差しと空のグラスが置かれ、誰かが客を泊めるために、今しがた支度を終えたようだった。
「先生です。県立潮浜高校の金森です」
金森は声を抑えて言った。
「あなたたち、帰りますよ」
座り込んでいた生徒が顔を上げた。
「帰られるべき客です」
「違います」
金森は即座に言った。
「あなたたちは客ではありません。生徒です」
もう一人が、小さな声で言った。
「見つけられるために、ここにいます」
「それも違います」
金森は二人の腕を取った。
「見つけられたから、帰るんです。ここにいる理由まで、屋敷に決めさせてはいけません」
廊下で、子供の歌が止まった。
同時に、部屋の壁紙の染みがすっと薄くなった。
歪んでいた額縁が、音もなく正しい角度に戻る。
床に落ちていた花瓶の欠片が、古い傷口がふさがるように寄り集まった。
屋敷が、誰かを迎える準備を始めていた。
廊下に白い服の少女が立っていた。
十歳くらいに見えた。
髪は肩のあたりで切り揃えられ、顔色は紙のように淡い。
その後ろに、応接室で見た黒衣の女が立っていた。
黒い服は、廊下の暗さよりも暗かった。
女がそこに立つと、三階のすべての扉が、わずかにこちらを向いた気がした。
「迷われた方々は、見つけられる時を終えました」
女は言った。
「では、この二人は連れて帰ります」
金森が言うと、女はゆっくり首を傾けた。
「帰られるべき客は、帰されなければなりません」
女の言葉に合わせるように、廊下の奥で扉がひとつ開いた。
その向こうに、玄関ではなく、また別の客室が見えた。
「出口ではありません」
金森は言った。
「別の客室に移されるだけです」
女は答えなかった。
代わりに、白い子供の肩へ手を置いた。
「澪」
その名だけが、普通の日本語に聞こえた。
子供は金森を見た。
けれどすぐに、黒衣の女の服の裾を掴んだ。
その手には迷いがなかった。
助けを求める手ではなかった。
誰に抱かれているかを、もう決めている子供の手だった。
「この子は、外へ返されるべきものです」
黒衣の女が言った。
「けれど、外の世界は、この子を抱く腕を持ちません」
廊下の壁紙から、黒い染みが引いていく。
古びた燭台に、火のない明かりがともった。
閉じていた扉の札が、まっすぐに直る。
〈母であることを待つ室〉
その札だけが、金森の方を向いていた。
「母であることは、途切れずに続けられなければなりません」
女は金森を見た。
「金森先生は、言葉を授ける方です。子供は、名を呼ばれることで、外へ連れ出されます」
「私に、この子の母親になれと言っているんですか」
「母であることは、あなたによって続けられます」
金森は澪を見た。
澪は黒い裾を握ったまま、少しも離れようとしない。
「私は、この子のお母さんにはなれません」
金森は言った。
女の表情が、初めてわずかに動いた。
その瞬間、廊下が軋んだ。
さっきまで整いかけていた壁紙が、古い水を吸ったように黒ずんでいく。
天井から雨染みが広がり、燭台の光がひとつずつ消えた。
床板の隙間から、冷たい風が吹き上がる。
屋敷が、急速に古びていった。
「あなたによっては、続けられませんか」
「続けられません」
金森は首を振った。
壁紙が裂け、下からさらに古い壁紙が現れた。
その下にも、また別の壁紙があった。
屋敷が、時間を逆に腐らせているようだった。
黒衣の女は金森を見つめた。
「では、この子は、誰を母と呼ぶことを許されますか」
金森は答えられず、澪を見た。
澪の小さな手は、黒衣の裾を掴んでいた。
離すまいとしているのではない。
そこにいる、と決めている手だった。
金森は、ゆっくり息を吐いた。
「もう、呼んでいます」
黒衣の女の目が、澪へ落ちた。
澪は何も言わず、さらに強く黒い裾を握った。
廊下の腐食が止まった。
剥がれかけていた壁紙の一部だけが戻り、燭台の明かりがひとつだけともる。
澪の周りだけ、屋敷が静かになった。
「私は、この子を連れて帰りません」
金森は言った。
「でも、この二人は帰します」
黒衣の女は、しばらく金森を見ていた。
やがて、白い手を澪の肩から離した。
澪はまだ、黒い服の裾を掴んでいる。
「帰られる方々は、帰されてよろしいのです」
女は言った。
それは命令ではなく、ようやく許可に聞こえた。
廊下の奥で、何かが軋んだ。
床板の継ぎ目が少しずつずれていく。
真壁が方眼ノートを鞄に入れた。
「長居は危険です。戻りましょう」
「戻れるんですか」
元木が聞いた。
「戻るしかありません」
金森は座り込んでいた生徒の腕を掴んだ。
「サイボーグ真壁先生、走れますか」
「走るようには設計されていません」
「設計って言いますか、自分で」
「現状の仕様です」
「仕様じゃありません」
元木が廊下の先を見た。
「議論はあとです。物理的に急いだ方がいい」
上がってきたはずの階段は、廊下の奥から消えていた。
代わりに、いくつもの扉が開いたり閉じたりしている。
真壁が壁と窓の位置を見た。
「右です」
「そっちは行き止まりですよ」
「今は違います」
金森は生徒二人を引っ張った。
元木が倒れてきた椅子を蹴り戻し、閉まりかけた扉を肩で押さえた。
「非科学的にもほどがありますね」
「感想は後でお願いします!」
金森は叫んだ。
廊下の暗がりに、人影が立っていた。
牧村だった。
いつの間に戻ったのか分からなかった。
足音はなかった。
「お客様のお帰り口は、こちらでございます」
牧村は、深く頭を下げた。
その姿はもう、管理会社の担当者ではなく、この館の執事だった。
牧村が示した廊下を、金森たちは進んだ。
空気が変わった。
湿った紙の匂いが薄れ、玄関の冷えた木の匂いが戻ってくる。
元木が、牧村の背中を見た。
「信用していいんでしょうか」
「他に出口は」
「ありません」
真壁が答えた。
「では、物理的に信用しましょう」
「物理の使い方、合っていますか」
金森が言った。
「今は合っていることにします」
元木は答えた。
重い扉の前で、牧村が立ち止まった。
扉は、内側から開いていた。
外の夕方の光が、敷居のところで止まっている。
「お気を付けて」
牧村は扉の内側に立ち、片手で扉を押さえていた。
金森は二人の生徒を外へ押し出した。
元木が続き、真壁が少し遅れて敷居を越えた。
金森は最後に振り返った。
牧村の奥に、黒衣の女が立っていた。
その隣で、澪が黒い服の裾を掴んでいる。
黒衣の女は、初めて少しだけ優しい顔をしていた。
澪が、金森に向かって小さく手を振った。
ありがとう、と言ったようにも見えた。
さようなら、と言ったようにも見えた。
「申し訳ございませんが、奥様は、お見送りには出られません」
牧村は静かに言った。
金森は何も答えず、小さく頭を下げた。
扉が閉まった。
金森は玄関前の石畳に立っていた。
夕方の風が、濡れた木々の匂いを運んでいる。
振り返ると、屋根の下に見えたはずの細長い窓は、どこにもなかった。
■第四章 間取りが合わない■
市立病院の待合室は、白く明るかった。
蛍光灯の下では、黒鷺館の中で見たものが、少しずつ夢のように遠ざかっていく。
けれど、救急車に乗る前に振り返った屋敷の姿だけは、金森の目の奥から消えなかった。
屋根の下に見えたはずの細長い窓は、どこにもなかった。
屋敷は、最初から二階建てだったような顔をしていた。
潮浜学院の生徒二人は、処置室へ運ばれていた。
大きな怪我はないらしい。
ただ、二人とも足に力が入らず、救急隊員に支えられていた。
処置室へ入る直前、座り込んでいた方の生徒が、金森の袖を弱く掴んだ。
「客じゃ、ないです」
金森はしゃがんで、その目を見た。
「そうです。あなたは生徒です」
生徒は小さくうなずいた。
処置室の扉が閉まった。
金森たちは、その音を聞いてから、待合室の長椅子に腰を下ろした。
真壁は黒い方眼ノートを膝に置いている。
元木は紙コップのコーヒーを持ったまま、一口も飲んでいなかった。
黒岩は自動販売機の前から戻ってきた。
「いやあ、連絡が取れなくなったので、嫌な予感がしたんです」
「黒岩先生の嫌な予感、今回は当たりましたね」
金森が言った。
「学校に残ります、と言った手前、何もせず待っているのも嫌で。警察と救急に連絡しました」
「助かりました」
元木が言った。
「間に合って良かったです」
黒岩は紙コップを持ったまま、三人を順に見た。
「で、牧村さんは?」
金森は答えられなかった。
元木も黙った。
真壁だけが、方眼ノートの端を指で押さえていた。
「屋敷の……中です」
金森は、ようやくそう言った。
「警察には、現場で確認できた要救助者は潮浜学院の二人だけだと伝えました」
真壁が静かに言った。
「事実としては、それ以上の確認ができませんでしたので」
黒岩は小さくうなずいた。
「屋敷の中で何があったかは、私には分かりません。ただ、先生方三人と潮浜学院の二人が戻ってきた。それで十分です」
金森は、少しだけ息を吐いた。
「それと、牧村さんについては確認済みです。潮浜総合管理は今日、担当者を派遣していません。牧村怜司という社員も在籍していないそうです」
待合室の空調の音が、急に大きく聞こえた。
「では、我々を案内した人物は」
元木が言った。
「分かりません。ただ、管理会社の人間でないことだけは確かです」
真壁は、方眼ノートを閉じた。
「やはりそうですか」
「真壁先生、それ、何か分かっていた人の言い方ですよ」
金森が言った。
「分かっていたわけではありません。観測できる異常が複数あっただけです」
「それを普通、分かっていたと言うんです」
元木が言った。
その時、廊下の奥から黒岩を呼ぶ声がした。
潮浜学院の教員らしい男性が、深く頭を下げている。
「あ、向こうの先生方です。説明してきます」
黒岩は立ち上がった。
「五人とも戻ってきた。それだけは、本当に良かったです」
黒岩の背中が、廊下の角を曲がった。
待っていたように、高本晶香医師が自動販売機の横から姿を見せた。
「私はあの二人の担当ではありません。ですから診断の話はできません」
高本はそう前置きした。
「ここから話すのは、医師としてではなく、個人的な話です」
「個人的な話にしては、だいぶ物騒な前置きに聞こえますけど」
元木が言った。
高本は少しだけ笑った。
「真壁先生。どうでしたか、遂に異世界を覗けた気分は」
「今回の分類は、異世界ではなく異常建築です」
「どちらも、こちら側の人間が勝手につけた名前です」
高本は廊下の先を見た。
「あの屋敷は、人を殺す場所ではなく、役を与える場所だったのではないでしょうか」
「役を」
金森が聞いた。
「客、執事、母、子供。与えられた役から戻れる人と、戻れない人がいる」
「澪は」
金森は、名前を口にしてから息を止めた。
高本は驚かなかった。
「澪は、外へ出たかったんでしょうか」
高本は、すぐには答えなかった。
「外へ連れ出すことだけが、子供を救うこととは限りません」
「母親ではありませんでした」
金森は言った。
「あの人は……多分」
「それでも、子供がその裾を掴んで、母として選んだのなら」
高本は静かに言った。
「その子にとっては、彼女こそが母親だったのかもしれません」
廊下の奥で、看護師が誰かの名前を呼んだ。
金森は返事をしなかった。
自分の名前ではなかった。
翌日の職員室は、いつも通り湿った紙の匂いがした。
黒岩は、机の上に茶封筒を置いた。
「昨日の件、分かる範囲で調べましたよ」
「随分、早いですね」
元木が言った。
「そりゃあ寝てませんからね」
黒岩は目の下を指でこすった。
「私が確認できたのは記録だけです。屋敷の中で何が起きたかまでは分かりません。でも、記録だけでも変なんですよ」
黒岩は茶封筒から資料を取り出した。
「旧植田邸の元の当主は植田静馬。明治末に製糸と山林経営で財を成した家の人間で、大正期にあの洋館を建てたらしいです。本人は英文学、怪奇小説、西洋建築、それから交霊術に傾倒していたそうです」
「屋敷そのものが趣味だったわけですね」
元木が言った。
「趣味で済めば良かったんでしょうけどね」
黒岩は一枚の複写を出した。
「妻は植田志麻。それと娘が一人。名前は澪。病弱で、屋敷の外へほとんど出なかったらしいです。これが植田志麻です」
写真には、植田静馬、その横に和装の女性、そして小さな女の子が写っていた。
金森は写真を見た。
端正な顔立ちの女性だったが、黒鷺館の中で見たあの黒い服の女とは別人だった。
「屋敷にいた人とは別人です」
黒岩は、その言葉をメモした。
「では、少なくとも記録上の母親とは別人、ということですね。植田志麻は、澪が幼い頃に亡くなっています」
「では、あの女の人は」
元木が言いかけた。
真壁が、机の上の別の紙を見た。
「『黒い館の女』ですね」
「ええ。その記録もありました。植田静馬が、作者不詳の怪奇小説を私的に翻訳した、という記録です。ただし原著も正式な出版記録も見つかっていません」
「やはりあれは私家版」
金森が言った。
「はい。それと、黒猫モルグ本人は、まだ見つかっていません。書斎にあった機材は警察が回収しました。ただ、本人の痕跡はそこまでです」
職員室の空気が、少しだけ重くなった。
帰された者と、帰されなかった者。
金森は、その差について考えないようにした。
黒岩は次に、図面の複写を広げた。
「旧植田邸の図面は、どれを見ても二階建てです。一階、二階、屋根裏収納。三階はありません」
真壁は黒い方眼ノートを出し、昨日の記録と並べた。
線が合わない。
窓の位置も、廊下の長さも、階段の向きも合わない。
「これはつまり」
元木が言った。
「間取りが合わないんです」
真壁が言った。
金森は、机の上の図面と真壁のノートを見比べた。
紙の上では、屋敷は二階建てだった。
けれど金森は、あの階段の冷たさを覚えている。
黒い服の内側のような三階を覚えている。
「最後に、牧村怜司です」
黒岩は管理会社からの回答を出した。
「潮浜総合管理にも植田家の使用人名簿にも該当者なし。ただ、郷土資料館の聞き書きに、牧村という名前が一度だけ出てきました。植田家の執事をしていたらしいのですが、記録上は昭和初期です」
その時、真壁が静かに言った。
「やはりそうですか」
「それどういう意味ですか、真壁先生」
金森は顔を上げた。
「牧村さんには、最初に会った時から影がありませんでした。あれだけの晴天だったのにです」
金森は思わず真壁に詰め寄った。
「何でそれ先に言ってくれなかったんですか!」
「いや、光源の問題かと思いまして」
「ああ、成程」
元木がうなずいた。
「成程じゃありません!」
「ただ」
真壁は続けた。
「屋敷の中に入ってからは、影の有無よりも、歩行時に彼だけ床が鳴らないことの方が重要でした」
「確かに、物理的にはそちらの方が重要ですね」
元木がうなずいた。
「どっちも重要ですっ!」
金森は遂に大声を上げた。
その権幕に黒岩が苦笑する。
「で、これが本当に最後です」
黒岩は茶封筒の底から、古い写真を一枚取り出した。
「郷土資料館に残っていたものです。説明書きには〈旧植田邸正面〉とだけありました。正直、私には普通の古い記念写真にしか見えませんけどね」
金森は写真を受け取った。
古いモノクロ写真だった。
黒鷺館の正面に、人々が並んでいる。
植田静馬。
黒衣の女。
その黒い裾を掴む澪。
玄関の脇に控える牧村。
そして。
金森は息を止めた。
自分がいた。
その隣に、真壁。
少し離れて、元木。
三人とも、昨日と同じ服装で、黒鷺館の前に立っていた。
黒衣の女は、少しだけ優しい顔をしていた。
澪は、その裾を掴んでいる。
「やっぱり写ってますか」
真壁が言った。
金森は写真から目を離せなかった。
「見えてるんですか……真壁先生にも」
「私は写真自体、見ていません」
真壁は方眼ノートを鞄にしまいながら言った。
「ただ、そうなる可能性は高いと思いました」
「何の可能性ですか」
元木が聞いた。
「観測結果が、記録へ混入する可能性です」
「また変なことを言い出しましたね」
凍り付いた場を和ませるように黒岩がからかったが、金森は何も言わなかった。
写真の中の澪が、ほんの少しだけこちらを見ている気がした。
金森は写真を封筒に戻した。
封筒の口が閉じられる直前まで、写真の中の三人はそこにいた。
屋敷の間取りは、最後まで合わなかった。
けれど、写真の中の澪の手だけは、迷わず黒い服の裾を掴んでいた。
金森は封筒の口を閉じた。
そこだけは、赤ペンで直してはいけない答えだった。
前作『因数が足りない~数学の天才教師が異世界転生確率98.7%の黄金交差点を導き出した結果、なぜか十回連続で病院送りになる件について~』は、こちらからお読みいただけます。
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