最終話 帰る場所
夜。
仕事を終えたありすは、いつものようにカードキーをかざした。
電子音。
扉が開く。
「……ただいま」
リビングから顔を上げた千翠が、小さく笑う。
「おかえり」
それだけで、一日の疲れがほどけていく。
靴を脱ぎ、ソファへ向かう。
少し前まで何もなかった部屋。
今は大きなソファがあり、ラグが敷かれ、ブランケットが置かれ、キッチンには紅茶とマグカップが並んでいる。
どれも少しずつ増えていったものだった。
ありすが笑う。
「……なんかさ」
「うん」
「私の家より、こっちにいる時間の方が長い気がする」
千翠は少し考える。
「うん」
「今週、一回も帰ってないし」
「うん」
「着替えも半分こっちだし」
ありすは苦笑する。
「このままじゃ、そのうち家なくても困らなくなる」
千翠が静かに口を開いた。
「……だったら」
「?」
「一緒に住めばいい」
ありすの動きが止まる。
「……え」
「荷物」
「毎回持ってくるの大変でしょ」
「ここに置けばいい」
あまりにも自然だった。
まるで、「紅茶飲む?」くらいの調子で言う。
ありすは思わず笑ってしまう。
「それ……同棲ってこと?」
「うん」
「そんな普通に言う?」
「普通」
本気でそう思っている顔だった。
ありすは肩を揺らして笑う。
「……ほんと、千翠らしい」
部屋を見回す。
ソファ。
ラグ。
マグカップ。
冷蔵庫にはプリン。
どれも、いつの間にか二人のものになっていた。
「……もう十分、住んでるみたいなものか」
ぽつりと漏らす。
千翠は頷く。
「だから」
「変わらない」
その一言が、ありすには少しだけくすぐったかった。
「じゃあ」
笑いながら言う。
「次の休み、残りの荷物持ってくる」
「うん」
短い返事。
でも、その「うん」が何より嬉しかった。
静かな夜。
テレビの音だけが流れている。
ありすはソファに深く座り直し、千翠を見る。
目が合う。
自然と笑ってしまう。
「ねえ」
「うん」
「こういう毎日、好き」
一拍。
「千翠」
少し照れながら。
「……好き」
部屋が静かになる。
千翠は少しだけ考えた。
長くはない。
でも、いつもみたいに、自分の中を探す時間。
「……分からない」
ありすは小さく笑う。
「また?」
「うん」
正直な返事だった。
「……でも」
千翠はゆっくり立ち上がる。
ありすの前まで歩いてくる。
何も言わずに。
そっと抱きしめる。
温かい。
安心する。
もう、これ以上考える必要はなかった。
離したくない。
それだけで十分だった。
ありすの肩へ額を預けたまま、小さく呟く。
「……こういうことでしょ?」
一拍。
「好きって」
ありすは目を閉じる。
ふっと笑って。
千翠の背中へ腕を回した。
「うん」
その一言だけで十分だった。
千翠はまだ、「好き」を言葉では説明できない。
それでも。
もう迷わなかった。
腕の中にいるこの人を、離したくない。
それだけは、誰よりも確かだった。
「……おかえり」
小さく聞こえた声に、
ありすも笑う。
「ただいま」
その場所はもう、
二人の帰る場所になっていた。




