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第七十話 ただいま②

 夜。


 その日。


 ありすは珍しく残業だった。


 時計を見る。


 もう二十一時を過ぎている。



(……遅くなった)



 スマホを取り出す。



『今終わった』



 数秒。


 すぐ返信が返ってくる。



『お疲れ』


『来る?』



 ありすは思わず笑う。


 もう。


 聞かなくても分かっている。


 指が自然に動く。



『うん』



⸻



 十分後。


 マンション。


 エントランスを抜ける。


 エレベーター。


 最上階。


 部屋の前。


 カードキーをかざす。


 電子音。


 扉が開く。



「……ただいま」



 少しだけ照れながら言う。


 リビングから声が返ってくる。



「おかえり」



 それだけなのに。


 少しだけ胸の奥が温かくなる。


 靴を脱ぐ。


 リビングへ向かう。


 千翠はソファで資料を読んでいた。


 ありすを見ると、自然に資料を閉じる。



「お疲れ」


「……うん」



 そのまま隣へ座る。


 少しだけ息を吐く。


 仕事の疲れが、一気に抜けていく。


 千翠が立ち上がった。



「紅茶?」


「飲む」


「待ってて」



 電気ポットのお湯を注ぐ。


 少し前まで何もなかったキッチン。


 今は紅茶もマグカップも並んでいる。


 ありすが少しずつ増やしたもの。


 千翠はもう、それがある景色に慣れていた。


 マグカップを二つ持って戻ってくる。


 一つをありすへ渡す。



「ありがと」



 一口飲む。


 ほっと息をつく。


 その様子を見ていた千翠が、不意に言った。



「冷蔵庫」


「?」


「見て」



 ありすは首を傾げながら立ち上がる。


 冷蔵庫を開ける。


 中には。



「……あ」



 二つ並んだプリン。


 この前、自分が食べていたのと同じもの。


 振り返る。



「……なんで?」



 千翠は当然のように答えた。



「好きなんでしょ」


「だから買っといた」



 ありすは数秒止まる。



「……覚えてたの?」


「うん」


「この前、食べてた」



 ありすが笑う。


 ありすは冷蔵庫からプリンを取り出した。



「一緒に食べる?」


「うん」



 二人でソファへ戻る。


 並んで座る。


 スプーンを口へ運ぶ。


 静かな部屋。


 テレビはついているけど、誰も見ていない。


 それでも。


 この時間が心地いい。


 食べ終わったありすが立ち上がる。



「捨ててくる」



 空になったプリンの容器をゴミ箱へ入れる。


 手を洗って戻る。


 ソファへ腰を下ろす。


 その瞬間。


 近い。


 千翠がじっとこちらを見ていた。



「……何」


「見てる」


「なんで」



 千翠は迷いなく答える。



「ありすだから」



 あまりにも自然に言うものだから。


 ありすは返事に詰まる。



「……そういうの、急に言わないで」


「?」



 本気で何がいけないのか分かっていない顔。


 ありすは思わず笑う。


 照れ隠しに話題を変える。



「……じゃあさ」


「ほか何覚えてるの」


「ん?」


「私の好きなもの」



 千翠は少しだけ考える。



「ミルクティー」


「うん」


「鮭のおにぎり」


「ピーナッツコッペパン」


「…………」



 ありすが固まる。



「そこまで?」


「よく買ってる」


「だから覚えた」



 即答だった。


 ありすは思わず吹き出す。



「観察力が怖いんだけど」


「違う」


「?」


「覚えようと思った」



 その一言に。


 ありすの笑顔が少しだけ止まる。



「好きなもの」


「覚えておきたいから」



 静かな声。


 それだけなのに。


 胸の奥がじんわり熱くなる。



「……ありがと」



 小さく笑う。


 部屋が静かになる。


 数秒。


 自然と目が合う。


 どちらも逸らさない。


 少しだけ。


 千翠が距離を詰める。


 ありすも動かない。


 そっと触れる。


 短く。


 優しいキス。


 唇が離れる。


 ほんの少しだけ見つめ合ったまま。


 千翠がぽつりと呟く。



「……プリンの味する」



 一瞬。


 ありすの思考が止まる。



「…………」



 ゆっくり耳まで赤くなる。



「……そういうこと言わないで」


「?」


「恥ずかしいから……」



 ありすは思わず顔を逸らす。


 その横顔を千翠は静かに見つめる。


 数秒。


 それから、自分の胸へそっと手を当てた。



「……また」


「?」


「苦しい」


「え?」


「胸」


 一拍。


「その顔見ると」


「苦しくなる」



 ありすは息を呑む。



「……何それ」


「分からない」



 正直に答える。



「でも」



 もう一歩だけ近付く。



「また」


「触れたくなる」



 ありすは何も言えなかった。


 ただ。


 熱くなった頬を隠すように、小さく笑う。



「……それ」


 一拍。


「反則だから」



 千翠は少し首を傾げる。



「そう?」


「そう」



 ありすは笑いながら千翠の肩へ寄りかかった。


 千翠も何も言わず、自然に腕を回す。


 窓の外は、もうすっかり夜だった。


 それでも。


 「ただいま」と言えば。


 「おかえり」が返ってくる。


 そんな時間が、いつの間にか二人の日常になっていた。

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