Deep Blue Sea
時間は無限ではなく、有限です。決して、無駄にしてはいけません。ブラウザーバックを推奨します。
ポケットの中の幾許かの小銭がコンクリートの地面を叩くと、全財産の鎮魂歌が響き渡った。
俺はパドック近くの地面に座り込み、空を仰ぐ。
さて、これからどうやって生きていけばいいのか。
給料日まであと十六日もある。
それなのに今月分の光熱費、家賃も未払いのままだった。
周りに溢れかえる、敗残兵の群像。
一様に汚らしい格好、競馬新聞を片手に、虚空を睨んでやがる。
まぁ、仕方がない。
今日は第一レースから最終レースまで立て続けに本命が負けた。
特に酷かったのは、第十一レース。
本命馬の騎手が、決勝線の直前で落馬しやがった。
その瞬間に、破られた馬券と罵声の雨が、観客席に降り注いだ。
けれども、現実は残酷。
敗者がいれば、必ず勝者がいる。
場内に、ウィン5の当選者とその金額がアナウンスされた。
「当選者一名。4億9236万」
もはや、怒りを通り越して、笑えてきた。
俺は気分を紛らわせるために、残っていた缶ビールに口づけする。
不快な生温さと、あたりに漂う馬糞の臭いが相まって味は最悪だった。
もう夕方に差し掛かっているのに、電光掲示板に表示された外気温は三十五度を超え、身体中はべたべた。額から塩まで吹いていやがる。
俺は地面にビールを吐き出し、現実逃避をするために瞳を閉じた。
やがて、瞼の裏に、少しずつイメージが形成されてゆく。
蓬髪を靡かせる冷気を帯びた潮風。
耳朶を小気味よく叩く波の音。
砂浜の心地の良い感触。
目の前に広がる雄大な景色。
最終的には海が完成した。
「あぁ、全て飲み込まれてしまいたい」と俺は呟く。
心も、身体も、俺を俺たらしめているすべてを洗い流してほしかった。
そういえば、もう何年も海に行っていなかった。
脳内の海の情景が、少しぼけているのはそのせいか。
よし、今から海に行こうではないか。
決心した俺は立ち上がる。
そして振りかぶって、飲みかけのビールを投げた。
缶はションベンのような液体をまき散らしながら、綺麗な放物線を描き、網状のくず入れに吸い込まれる。
「ナイスピッチング」とどこかのイかれた野郎が大声を出した。
俺はその男に向かって中指を立ててから、駅直結の通路に歩き出す。
「ふざけんな!俺様のペニスをしゃぶりやがれ!」
背中に罵声がぶつけられたが、振り返って、ぶん殴ってやるほどのバイブスはなかった。
ギャンブルの後悔は遅延性。
負けた直後はまだアドレナリンが残っているから、後悔は少ない。
しかし毎回、競馬場を後にしたタイミングに、それは音を立ててやってきた。
駅に着いた頃に、急に死にたくなってきた。
あぁ、明日から、俺はどうやって生きていけばいいのか。
『アンネ・フランク』『ジャンヌ・ダルク』『小林多喜二』
明日の訪れを恨んだ彼らの気持ちが、十全に理解できるほどに、希死念慮が膨らんでゆく。
絶妙なタイミングで、貨物列車の通過を告げるアナウンスが構内に響き渡った。
数十秒も経つと、線路の軋んだ音がホーム内に流れ込む。
けたたましい音が、誰かが着古した革ジャンのような湿っぽい風を運んだ。
貨物列車はもう間もなく、ホームの入り口に差し掛かろうとしていた。
俺はそれに引きずられるようにして、また一歩、もう一歩と黄色い線に近づく。
やがて黄色線を越え、外側にのめり込む。
電車がホームに入りかかったタイミングで、警笛が鳴り響く。
できの悪いラッパのような間抜けな音だった。
それを聞きながら、俺は再び黄色い線の内側に戻った。
金もなければ、度胸もない。
それが、俺という人間だった。
※
海浜幕張で電車を降りた。
電車代を差し引いたら財布の残りは458円程度。
俺は近くのコンビニでウィスキーのミニチュア瓶を二つ買った。
それで全財産は尽きてしまった。
仕方がないので近くのスーパーに行って、さらにウィスキーを三本とサンドイッチ、そしてポテトチップスを二袋くすねた。
レジ横で店員に声を掛けられたが、近くのカゴの山を蹴り飛ばし、東に逃走。難を逃れる。
時刻は午後五時半を回っていたが、陽はまだまだ暮れる気配を見せない。
俺はチーズとハムとブルーベリージャムが挟まった奇怪なサンドウィッチを食べながら、小綺麗なビルが立ち並ぶ街を歩いた。
駅から海岸まで三キロ程度ある。
空腹感が和らいだおかげで、いくらか気分はマシになった。
東京の劣化コピーのような街を練り歩く。
30分が経過するとビルが消え、往来の激しい海岸道路だけが残った。
潮の香りと排気ガスを孕んだ風が横を通り抜けてゆく。
海の気配が現れ始めた。
完璧とは言い難かったが、それでも及第点。
それは、俺が求めていた風だった。
Tシャツを捲し上げ、汗ばんだ腹に潮風を当てる。
最高の気分だ。
一昨日、激安ピンサロで120キロの女にされたフェラチオよりずっといい。
やがて、植えられた街路樹の隙間からも橙色に染まった雄大な海のキャンバスが見え始める。
海岸の入り口は閉鎖されていた。
隣に張り出されたチラシには、海岸の開放は午後五時までと記されている。
しかし、関係ない。
フェンスは低く、形式上のものにすぎない。
俺はフェンスをよじ登って飛び越えると、海岸へと駆ける。
すぐに、百メートルくらいの砂浜と、無尽蔵の海が俺を包み込んだ。
キラキラと斜陽を反射させた海面は、洒落たカクテルのように鮮やか。
砂浜は白く、ところどころに貝殻の破片がキラキラと浮かび上がっている。
波打ち際に転がる流木も、瀟洒なモニュメント然としていた。
あぁ、これだよ。俺が追い求めたオアシスは。
先客も数人いた。
突堤の先では、大学生くらいの男女の四人組が楽しそうにスマートフォンで写真を撮っている。
気分が高揚していたので、彼らに声をかけてみた。
「お、4pすんのか?俺も混ぜろよクソガキども。ところでガールズ。俺めちゃくちゃうめぇから。〝マジで狂いイキさせてやるから〟」
しかし、ノリの悪い奴らだった。
深山幽谷で人喰い幽鬼に遭遇したみたいに、北へ逃走。
まぁいいさ。
これで海を独り占めできる。
俺は中央に生えた芝生の辺りに腰を下ろす。
そこは海の大部分が見渡せる場所だった。
陽は下降線を辿っている。
空の上部は暗くなり始め、紫とオレンジで断層分けされていた。
海と太陽が結合するのは時間の問題だった。
海も太陽を求めていたし、太陽も海を求めていた。
二つが一つになると辺りは闇に覆われる。
なんだか悲しいラブロマンス映画の結末のようだが、彼らは毎日それを続けているのだと思うと少しうんざりさせられた。
俺はウィスキーの2本目を飲みながら、ポテトチップの袋を開ける。
それらを堪能すると、仰向けに身体を倒した。
血糖値が爆上がりしたせいか、アルコールが脳神経を侵しているせいか、とにかく猛烈な睡魔に襲われた。
クソ、風と波の音が心地の良いララバイのように耳朶を揺らしやがる。
瞼が意思に反して重い鉛を乗せられているように少しずつ下がってゆく。
そして瞼が癒着したとき、俺は微睡みの世界に完全に引きずり込まれていった。
※
波のざわめきで、目を覚ます。
視界は純然たる闇に覆われ、何も見えなかった。
頭は不鮮明。
おまけに身体の節々は虫に刺され、ヒリヒリと痛んだ。
周りに人工的な光が存在しない。
鈍い月明かりだけが唯一の頼りだった。
俺は重たい身体を起こし、携帯で時刻を確認。
時刻は午前零時を指していた。
明らかに寝過ぎた。
もう町は完全に眠っている。スーパーマーケットが開いていなければ、電車だって動いてない。
潮風が運んだ砂が、顔面に張り付いていて不快この上ない。
俺は顔を洗うために、波打ち際へ歩いていく。
途中砂浜の段差に何度か足を取られ、何度も転び、身体中は砂まみれになった。
その度に、俺は叫んだ。
「クソが!!なんで俺は海になんか来たんだよ!!!」
ただの水があるだけじゃねぇか。
浴槽に水でも溜めてればよかったんだ。
あ、無理だ。水道止められてるわ。
時間が経てば、大抵の問題はなんとなく解決するように、だんだんと俺の目も暗闇に慣れ始めた。
ようやく、波打ち際に辿り着く。
足元すれすれで止まる飛沫。
茫漠とした海面に浮かぶ一筋の光の中には、誰かが捨てたファーストフードや、スナックの塵紙が海面に浮かんでいた。
そっと波に触れる。
掌に広がるぬめっとした感触と、鼻腔を劈く悪臭が最悪だった。
誰かの下痢と言われても、信じられるほどに。
これが海の正体。
海なんて、ろくなもんじゃねぇ。
俺は顔を洗うことを止め、視線を上げる。
その際に三十メートルほど先の突堤が視界に映る。
もちろん、こんな時間だから人なんているはずも……。
全身から血の気が一気に失せる。
「なんだアイツ……」
そこには〝全裸の男が立っていた〟。
男は身体を動かしている?
屈伸や伸びなど、どこからどう見ても、入水するための準備体操だった。
左手側の地面にはブルーシートに包まれた大きいものが横たわっていた。
訳がわからなかった。
こんな夜更けに、水質汚染に侵された海を泳ごうとするなんて、イカれ野郎以外の何者でもない。
しかし、俺は男から目が離せなくなっていた。
好奇心に導かれるように突堤のそばまで行き、テトラポッドの陰に隠れて、男の動向を見張った。
それにしても、いい身体だ。
程よく筋肉がついたすらりとした四肢が、夜の帷の中に浮かび上がっている。
均整が取れ、肌は異様に白い。
大理石彫刻のような体つきだった。
ペニスも、俺の数倍もデカい。
念入りな股関節のストレッチを終えた男は、ブルーシートに近づいた。
そして、キャンディーについたオブラートを剥がすような滑らかな手つきで、ブルーシートを開いていく。
俺は、瞬き一つできなくなっていた。
額から粘っこい汗が滲む。
それなのに悪寒が走る。
背中の肌は粟立ち、指先も少し震えていた。
けれども俺はその場から立ち去ることも、視線を逸らすこともできなかった。
やがて、ブルーシートは外される。
オブラートから現れたのは、裸体の女だった。
潤沢な髪や、綺麗な陰毛が潮風によって虚しく揺れている。
女が死んでいることは明白だった。
白い首筋に浮かび上がる赤黒い痕跡。
そこには濃密な死の気配が漂ってしまっていた。
女の優美な曲線を描いた華奢な身体。男はそれを軽々と肩に担いだ。
豊かな乳房と太腿が潰れる。
即座に、水飛沫が舞う。
男は、当然のごとく夜の海へと飛び込んだ。
そこで、俺の身体は勝手に動いてしまう。
導かれるように、吸い込まれるように歩を進めた。
足が止まる。
そこは、先ほどまで男が立っていた場所だった。
足元にはアンブロの黒のジャージとブルーシートが、過ぎた夜の抜け殻のように置き捨てられていた。
両方にそっと触れてみると、砂漠のように乾いていた。
俺は海に視線を戻す。
海面に一筋の波紋が続いていた。
その先に男はいた。
男は女を担いで、どんどんと月のほうに向かって泳いでゆく。
俺は半ば放心状態でそれを見ていた。
逃げなくてはいけない。そんなのはわかってる。
これは尋常ではない事態だ。
しかし、逃げることはできなかった。
足が突堤のコンクリートに縫い付けられたように動かなくなっていやがる。
視線は、波の流れに逆らうように進んでゆく、重なった影に固定されていた。
五十メートルほど行った辺りで、突然その影の動きは止まった。
そこで影が二つに分離した。
一つは無秩序に波に流されて沈み、もう一つはこちらに向かって一直線に戻ってくる。
身軽になったことで、男の泳ぐスピードが格段に速くなっていた。
男が数メートルのところまで差し迫ってきたとき、ようやくそこで俺は正気に戻った。
"このままだと、確実に殺される。"
慌てて突堤から飛び降り、テトラポッドの影に身を隠す。
まただ。また壊れたブリキ人形のように身体が震えやがる。
恐怖で足元がおぼつかない。
俺は戦慄きを鎮めるため、ポケットに突っ込んでいた瓶からウィスキーを一口飲む。
ウィスキーはいささかの安寧を与えた。
せり上がっていた胃液を洗い流してくれる。
俺は食い入るように突堤を睨み続けた。
しかし、男はいつまで経っても上がって来なかった。
三分、五分、十分と時は経っていく。
俺はとうとう痺れを切らしてしまった。
昔から辛抱のできない質だから、仕方がない。
テトラポッドを伝って突堤に近づく。
その足元に広がる深淵に引き込まれないように、ゆっくりとした歩調で進んだ。
ようやく、突堤の先に辿り着く。
そこで、唖然とした。
そこには、何もなかった。
先ほどまでこちらに迫っていた影も、海を彷徨っていた女体も、足元に転がっていた衣服なども存在しない。
全てが一つの残滓すらなく、完全に消えてしまっていた。
訳がわからなくなった。
今までの出来事は一体なんだったんだろうか。
しかし、俺の心は安堵した。
俺はそこに腰を下ろし、突堤によって砕ける波濤を見つめた。
飲み過ぎただけだったと、自分に言い聞かせる。
全ては悪酔いがもたらした、厄介なものに違いなかったんだ。
※
しばらくして、先ほどまで眠っていた砂浜の芝生の辺りに戻った。
そこで、俺は痛感した。
あれは幻覚なんかじゃなかった。
紛れもない現実だったのだと。
「やぁ」と彼は言った。「色々といただいているよ」
アンブロを着た男が座っていた。
男は俺のウィスキーを片手に、髭をたっぷりと蓄えた口でポテトチップを頬張っていた。
もう思考なんて意味がなかった。
全ての行為が、骨折り損に違いない。
「君も座ったらどうだい?」
男に言われるまま、近くの流木に腰を下ろす。
男から逃げられるはずがなかった。
本能がその事実を受け止めている。
俺は絶望を肴にして、ウィスキーを流し込んだ。
そんな俺を尻目に、男は快活に喋り始める。
公園で、はしゃぐ五歳児のような大きな抑揚だった。
「僕は変わった仕事をしている。なんとなくわかるだろう?」
俺は返事をしなかった。
その言葉には返答を求めるようなニュアンスが含まれていなかったから。
「あの女は、数年前に同級生の女の子を死に追い込んだ。いじめだよ。それは、それは壮絶なものでね。罵詈雑言、暴力は日常茶飯事。金品などを要求したり、酷い時にはゲーム感覚でホームレスとの性行為を強制させたりもしたんだ」
彼のボリボリというポテトチップの咀嚼音が虚しく響く。
夜の海辺はポテトチップと波の音を差し引けば、それ以外何も聞こえなかった。
「その子はそれを苦にして、とある日の朝、電車に飛び込んだ。酷いもんだよ。車輪に身体が巻き込まれ、スクラップ状態。彼女の肉片を全て取り出すのに、5時間もかかったんだ」
その凄惨な様子を想像しようとするが、無理だった。
だって、そんなことはどうでもいいから。
俺が気になるのは、一点だけだった。
それをそのまま口に出す。
「俺も死ぬのか?」
自分では意図してなかったが、吐き出した言葉は、鉄扉の開閉音のように重たい響きを孕んでいた。
「まぁね」と彼は軽く言った。
「ルールなんだよ。見られてしまったからね。本当に気の毒だけどさ」
とても死の宣告のようには感じられない。
そのせいか。俺の心も皺のないカーディガンみたいに穏やかだった。
笑えてくるよ。
ここで殺されることが、人生における最良の結末なんだとすら思えてくる。
完全に頭がイカれていた。
「君は運が悪かったんだよ。南国ではココナッツの落下事故で毎年百五十人くらいが亡くなる。それと一緒さ。君も運が悪かっただけなんだ。わかるだろう?」
「あぁわかるよ。痛いほどね」
でもダメだった。奮い立たせようとしても、俺は死を、男の言葉を心の底から受け止めてしまっている。
低く垂れ込めた雨雲のような重い沈黙が訪れる。
俺はその沈黙をやり過ごすために、ウィスキーを飲み干す。
ウィスキーは偉大な飲み物だ。
大抵のことを忘れさせてくれる。
ある作家が『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』というエッセイを書いていた。
ウィスキーの素晴らしさが尊大に語られており、その意見にはどれもアグリーだった。
まぁ、肝心の内容は微妙だったけど。
男はおそろしく特徴のない顔で、俺に微笑みかけた。
その微笑みまでも、おそろしく特徴のないものだった。
「俺だって、本当はそんなことはしたくないんだ。君はいい奴そうだし」
「そう言ってもらえると、助かるよ」
足元に落ちてた乾いた砂に触れる。砂は瞬く間に、手からこぼれ落ちた。
「俺は女も好きだけど、同じくらい男も好きなんだ。だって理にかなってるだろ?」
「あぁ、確かに。ヤンキースはオフェンスも、ディフェンスも最高だ」
すると、男は手を叩いて笑った。まるで安物の打楽器のような音だった。
「君といると心地良くなってしまって、ついつい喋りすぎてしまうよ。普段は殺す相手にはこんなには喋らないんだぜ」
「ウィスキーのせいだろう。君は酔っているんだ」と俺はため息をついた。
「最後にここで俺と寝てくれないかい。よし、尻を貸せ」
「嫌だね。たとえ君に生殺与奪の権利を握られても、俺は絶対に男とはやらない。君が死神でも、悪魔でも、ビリージョエルでもね」
なぜ、ビリージョエルが出てきたのか、それは俺にもわからなかった。
しかし、男は気に入ったようだった。
「ビリージョエルは最高だったよ。テクニックがものすごいんだ」
ビリージョエルとカリフォルニアのホテルで激しく交わった様子を語り始めた。
男の話は妙に緻密かつ鮮明だった。
絡まり合った陰毛、軋むベッドの音、睾丸の大きさまでもが「Honesty」に乗って現れやがる。
おかげで、胃の中のものをすべて砂浜の上にぶちまけたくなるような吐き気に見舞われた。
「なぁ、僕は君のことが好きになったんだよ」
「早く殺してくれ」と俺は懇願した。
「あぁ、ウィスキーを飲み干してからね」
彼は瓶を上下に振って見せた。
ウィスキーはまだ三分の一程度余っている。
俺は自身の空になった瓶を、近くの西側の方に放り投げた。
瓶は闇の中に消える。砕け散ったのか、それとも砂浜の中に埋もれたかはつゆ知らず。
「君の名前を教えてくれないかい?」
「今から殺す相手だぞ。知ってどうなる?」
「寝る前に、君を思い出したい、そして、それをオカズにマスをかく」
「くたばれよ。本当に」
「先にくたばれるのは君だけどね」と彼は笑った。「それが世の中なんだよ。本当にくだらない人間ばっかりが生き残って、面白い人間はすぐに死ぬ」
男はウィスキーを一気に呷った。
そして、ポケットからおもむろに何かを取り出した。
俺は凶器の類いだと思ったが、違った。
それは煙草とライターだった。
男は口を窄めるように煙草を咥えた。
そして先端に火を点け、美味そうに煙を吸った。
足を組み直し、天を仰ぐように紫煙を吐き出す。
一縷の煙がキャンバスのような空に消えていった。
「じゃあ、そろそろ行くよ」と男は言った。
立ち上がり、ズボンに付いた芝生をパタパタと払って、そのまま海の方へ歩いてゆく。
俺はぼんやりとその後ろ姿を見ていたが、すぐに我に返って叫んだ。
「おい、ホモ野郎。俺を殺さないのかよ」
男は右手で煙草を放り投げ、左手で中指を立てた。
「君はもうとっくに死んでいるよ」と男は言った。「気の毒に、運が悪かったんだよ」
「は?訳がわからねー。どういう意味だよ!」
俺は男を追いかける。しかし、どれだけ走っても、歩いている男との距離は縮まらなかった。
やがて、男は海辺に辿り着く。
そしてそのまま、ゆっくりと海に入っていった。
「おい待てよ!」
そのまま綺麗なフォームで泳ぎ、どんどんと遠くなってゆく。
ようやく、俺も波打ち際に辿り着く。
そして、男を見据える。
男が左手側に何かを抱えているのが見えた。
目を凝らす。
ブルーシートに包まれた物体。
それは妙な既視感とリアリティがある大きさだった。
長年使い古してきた道具のような、奇妙な愛着がその大きさに湛えられていた。
やがて、男の姿は見えなくなった。
完全な闇、完璧なまでの夜の波に飲み込まれてしまった。
俺は波打ち際に立ち、男が残していった、水紋をぼんやりと眺めている。
ふと、何かが俺の元から完全に失われてしまったことに気がついた。
それが何なのかわからない、ただ、それは俺を俺たらしめている何かだということははっきりと認識できた。
言葉なんかじゃ言い表せない大切なもの。
「返してくれ!!」と俺は咄嗟に叫んだ。
男がブルーシートに包んで、俺のその大切な何かを持ち去ってしまったのは明白だった。
自然と涙が溢れる。
頬を伝う温かい感触が、俺をさらに叫ばせた。
「返してくれ!!頼む!!返してくれ!!」
俺は砂浜に膝をつき、絶叫を続けた。
「返してよ!!」
突然、こだまするように後方から女の声が響き渡った。
俺は慌てて後ろを向く。
そこには女が立っていた。
先ほど突堤の上で死んでいた女だった。
潤沢な髪を風に靡かせ、鳶色の瞳を鈍く光らせている。
先ほどとは違って、服を着ていた。
青紫色のワンピースだ。
それに身体は濡れていない。
けれども死んでいたことは間違いない。彼女の首筋にはしっかりと赤黒い跡がこびり付いていた。
何が起きているのかさっぱりわからない。
女は先ほど完璧なまでに死んでいて、海に葬り去られたはずだ。
なのになぜ、ここに存在しているのか?
彼女は俺のすぐ隣にやってきた。
そして、俺の肩に触れる。
「行かないと!!!」
「行かないと?」と俺は聞き直した。
「そうよ!」と彼女は言った。「わたしたちは……!!!」
彼女が金切り声を上げた、その途中で、俺の意識が遠のいた。
突然、足がもつれる。
夢の中に葬り去られるように、純然たる闇がすべてを包み込んでしまった。
俺の身体はどこか遠くに沈んでゆく。
どこまでも深い青い海の底へ。
でも、それなのに、まだ俺の意識は浅い波の声を聴き続けていた。
稚拙な作品を読んでくださり、ありがとうございました。感想欄で暴言お待ちしてます。




