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俳句 楽園のリアリズム(パート3-その1)


 ほとんどの読者の方には夢想という言葉にはどうしても馴染めないまま私の作品を読みつづけていただいているのではないかと思いますが、重要なのはそんなことを意識しなくたっていやでも夢想なんかさせられて、ポエジーというこの世の至福を味わってしまうことであって、正直、夢想なんて言葉はどうでもいいこと。だけどなんのことはない。

  「幼少時代の核」があらわになった状態で「イマージュ」の幸福にうっとりすることを「夢想」という。私が考えたこの単純さが、夢想という言葉の過不足のない定義。自分ではそう思っています。

 「われわれが昂揚状態で抱く詩的なあらゆるバリエーションはとりもないおさず、わたしたちのなかにある幼少時代の核が休みなく活動している証拠なのである」

 こんなバシュラールの言葉があるように、どこにあるの分からない「幼少時代の核」を探す手間なんかいらないし、やっぱり、夢想などということを意識することもいらないようだ。私たちが俳句や詩のポエジーを味わっているそのときに、いつの間にか「幼少時代の核」があらわになった状態で「イマージュ」の幸福にうっとりしている、つまり、我知らず思わず夢想なんかさせられているはずなのですから。
 ただ、俳句や詩のイマージュでポエジーを味わうときに夢想などということを意識する必要はまったくないにしても、それとは別に、私の作品のなかの俳句でそれなりのポエジーを受けとれるようになった方は、いまでもそれなりに夢想なんかできるようになってさらにそのレベルを上げながら一生つづけていくことが可能になったわけですし、そうしたほとんどの読者の方にとって、夢想の魅力やそれがもたらす効果をバシュラールのいくつもの言葉で理解しておくことの人生的なメリットは計り知れないものがあると考えます。
 
 「このイマージュは原則として、完全にわたしたちのものであるとはいえない。それはわたしたちの単なる思い出よりもっと深い根をもつからである。わたしたちの幼少時代は人間の幼少時代、生の栄光に達した存在の幼少時代を証言している」「わたしたちは静謐な世界、夢想の世界のなかにいたのである」「のちにその幸福は詩人の(わたしたち俳句の読者の)幸福となるであろう」「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代の思い出は、まちがいなくたましいの奥底での〈幻想の聖歌〉なのである」(ガストン・バシュラール)
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