白紙ではなかった条約書
隣国の外交団本部に、セシリア・ヴァンダールの執務室が用意されたのは、条約締結の一月ほど後のことだった。窓は小さいが、机は自分の好きなように使ってよいと言われている。
文机の抽斗には、あの使い込んだ辞書と、緑がかったインク壺が並んで収まっていた。誰かに見られることを気にせず、そこに置いておける場所ができたことに、まだ時折驚くことがある。壁には何も飾っていない。飾る必要を感じたことがなかった。がらんとした壁の白さが、かえって落ち着く朝もある。
朝、リアム・ダーシャが執務室を訪れ、正式に締結された条約書の写しを一部差し出した。
「本国から、辺境伯領へも正式な写しが送られたそうです」
セシリアは写しを受け取り、目を通す。関税の猶予期間、通行税の減免、国境での取引品目。かつて自分が幾晩もかけて整えた条項が、そのまま条文として組み込まれている。末尾の署名欄には、リアムの名の隣に、セシリア・ヴァンダールの名が記されていた。何度見ても、その並びに見慣れない自分がいる。誰かの名を借りずに済む文書を目にするのは、これで何度目になるだろうかと、指折り数えかけてやめた。
「向こうでの反応は、何か聞いていますか」
「詳しくは。ただ、辺境伯家の使いが、条約書を受け取った際に少し戸惑っていたと、担当の者が申しておりました」
戸惑い、という言葉の中身を、セシリアはあえて想像しなかった。父がどんな顔をしたか、オズワルドが何と言ったか。
想像したところで、確かめる術はない。それに、確かめる必要も、もう感じなかった。かつては誰かの反応ひとつで揺らいでいた自分の輪郭が、今はそれとは関係のない場所で安定している。屋敷にいた頃なら、この一言だけで一晩中、相手の顔色を思い返していただろう。今はもう、その必要を感じない自分に、少しだけ驚いていた。
「あなたの名が記された条約書を、向こうの家の者たちがどう見るか。私には想像するしかありませんが」
「それでよろしいのです。想像で十分です」
セシリアは写しを机に置き、窓の外へ目をやった。中庭の並木は、季節の変わり目で葉の色を変え始めている。この部屋から見える景色に、もう慣れ始めていた。半年前には想像もしなかった眺めだった。
リアムはしばらく黙っていたが、やがて一枚の書類を懐から取り出した。今日の議題とは別の、私的な用件らしい。手つきに、いつもの事務的な速さはなかった。窓の外の光の角度が、先ほどより低くなっている。
「もう一つ、お渡ししたいものがあります」
差し出されたのは、条約書とは違う体裁の書状だった。開くと、そこには両国の慣習に則った、正式な求婚の文言が並んでいた。堅苦しい言い回しの中に、リアムらしい率直さが滲んでいる。文字の癖にも見覚えがあった。
「これは」
「あなたに対する、個人としての申し出です。外交官としての立場とは、切り離してお受け取りください」
セシリアは書状を手に取り、文面を読み進めた。読みながら、以前この執務室で交わされた条約書の署名の場面を思い出す。あの日、ペンを持つ手が震えなかったのは、すでにこの人の言葉を信じ始めていたからかもしれない。
窓の外で、乾いた風が並木の葉を鳴らしていた。文面の最後には、両国の慣習にある定型句に続けて、リアム自身の言葉と分かる一文が添えられている。堅苦しい書式の中で、そこだけが人の声のように響いた。
「お返事は、急ぎません。ただ、条約とは違い、これにはあなたの意思以外、何も要りません」
「意思だけで足りるものが、こんなにも少ないと知ったのは、ここへ来てからのことです」
セシリアは書状を膝の上に置き、しばらく黙っていた。窓の外の光が、机の端に長く伸びている。以前、屋敷の自室で招聘状を読んだ夜のことを思い出す。あの時も、こうして一人で文面を確かめていた。違うのは、今は誰かがすぐそばで、答えを急かさずに待っているということだった。
「隣国に来てから、多くのものをいただきました。名前を、正当な場所で使わせていただけたことも、その一つです」
「それは、私が与えたものではありません。もともとあなたのものだった」
「分かっております。それでも、その場所を用意してくださったのは、あなたです」
リアムは何も言わず、ただ次の言葉を待っている。部屋の中に、しばらく物音がなかった。
「わたくしは、もう誰かの代わりに署名する側ではありません」
言葉にした瞬間、これまでの年月がひとつの形にまとまるのを感じた。誰かの手柄として消えていった条項の数々、通訳という肩書きの下に隠されていた仕事、名前を書かずに机の端へ置いてきた無数の控え。そのすべてが、この一言で終わりを迎える。
「この先の条約は、あなたの名前と共に交わされます」
リアムの声には、確かな響きがあった。約束というより、すでに定まった事実を告げる調子だった。セシリアは頷き、書状に添えられた返答欄に目を落とす。ペン先を紙に置くまでの数秒間、部屋の中の空気だけが動いている。この一月の彼の沈黙が、待つための時間だったのだと、今は分かっていた。
「お受けいたします」
短い返事だった。だが、その言葉を口にするまでに、二十二年という歳月がかかったのだと、セシリア自身が一番よく知っていた。リアムは静かに頷き、それ以上多くを語らない。祝いの言葉も、大げさな喜びの表現もなかった。ただ、書状を受け取る手つきだけが、いつもより少し慎重だった。窓の外では、夕暮れの色が並木の輪郭を柔らかく縁取り始めている。
その夜、執務室に一人残ったセシリアは、文机の抽斗から使い込まれた隣国語の辞書を取り出した。もう隠す必要のないものだった。頁をめくると、幼い頃の書き込みの隣に、この一月で書き加えた新しい注釈が並んでいる。誰かに見せるためではなく、自分のために書いてきたものが、今は誰に見られても構わないものになっていた。表紙の擦り切れた角を、指先でもう一度なぞる。これを鞄の底に隠すように詰めた夜のことを、今でも鮮明に思い出せた。
窓の外には、遠く国境の方角が見える。あの里程標を越えた日のことを思い出す。あの朝、振り返らなかったのは、未練がなかったからではない。振り返れば、決意が揺らぐと知っていたからだ。今はもう、振り返っても揺らぐものは何もない。あの標を越えてから、季節はすでに一つ、静かに巡っていた。石造りの標の表面に朝日が当たっていた光景を、今でも細部まで覚えている。両国の紋章が背中合わせに刻まれていたことも、御者の淡々とした声も。あの日の自分に、今の景色を見せてやれたら、少しは違う顔をしただろうか。そんなことを考えても、答えの出ない問いだと分かっていた。
灯りの下で、条約書の写しをもう一度広げる。末尾の署名を指でなぞった。緑のインクの色は、灯りの下で深く沈んで見える。これまで幾度となく、自分の名を書かずに文書を手放してきた。父からは通訳程度で十分だと言われ、婚約者からは控えていろと言われ続けた年月があった。あの頃、気づいてもらう機会がなかったわけではない。文書を差し出すたびに、言葉を交わす機会はいくらでもあった。誰も、それを見ようとしなかっただけだ。
そのことに、今さら腹を立てるつもりはなかった。ただ、事実として、静かに胸に収めておく。見ようとしなかった者たちのもとへは、もう戻らない。見てくれる者のそばで、これからの条約を交わしていく。それだけで十分だと、今は思える。窓の外で、国境沿いの灯りがひとつ、またひとつと灯り始めていた。かつて馬車の窓から見上げた里程標の辺りにも、今頃は同じ灯りが届いているだろうか。確かめる術はないが、確かめる必要もなかった。
インク壺の蓋を開け、控えの写しにもう一度目を通す。誤りはない。すべて、自分の言葉で、自分の判断で整えられた条項だった。書状の返答欄に記した自分の名前を、もう一度だけ見つめる。誰かに読まれることを想定して書いた文字ではなく、ただ自分の意思として記した文字だった。灯りを一つ残したまま、しばらく机の前を離れない。この部屋の灯りは、まだしばらく消えそうになかった。
白紙だった条約書の末尾に、リアムの名の隣で、彼女の名前が記されていた。




