遅すぎた詫び状
「先方は、セシリア殿への面会を希望しているとのことです」
リアム・ダーシャがそう告げたのは、朝の会議の場だった。隣国の外交団本部に、辺境伯グスタフ・ヴァンダールとその令嬢の元婚約者が訪れると知らされた直後のことだ。マルグリット・ソレルは、面会の設営を任された一人として、その日の予定を確認していた。居合わせた誰もが視線をセシリアに向ける。彼女は書類を整理する手を止めず、短く答えた。
「お会いいたします。断る理由もございません」
マルグリットはその返答の落ち着きぶりを、記録するように見ていた。動揺も、身構えた様子もない。外交団に加わって間もない者は、たいてい古参の視線を気にして硬くなるものだが、彼女にはそうした気配が一切なかった。同僚の一人が、あの令嬢は肝が据わっている、と小声で漏らすのを聞いたこともある。
面会は、外交団本部の応接室で行われることになった。マルグリットは同席を命じられ、記録係として壁際に控える。
国交にかかわる面会という体裁を取った以上、私的な感情のやり取りであっても、公式な記録が必要だという判断だった。応接室の窓からは、中庭の並木がよく見える。準備を整える間、マルグリットはその並木を眺めながら、今日という日の意味を考えていた。こうした面会に立ち会うのは初めてではないが、当事者の一方がこれほど落ち着いているのを見るのは珍しい。書類を並べ直す手を、一度止めて窓の外を見た。
定刻に、グスタフとオズワルド・クレイフィールドが姿を見せた。二人とも旅の疲れを隠しきれていない。馬車を乗り継いでここまで来たと聞いていたが、その道のりの長さが、二人の顔つきに刻まれていた。案内されて席に着くと、グスタフが先に口を開いた。マルグリットは記録用の紙を新しく一枚、机の端に用意する。
「此度は、突然の訪問をお許しいただき感謝いたします」
セシリアは丁寧に一礼した。感情の色は、その所作からは読み取れない。マルグリットは記録の筆を止めたまま、二人の様子を観察していた。長年、様々な交渉の場に立ち会ってきたが、これほど静かな緊張を漂わせる面会は珍しい。
「本題に入らせていただきます」
グスタフは一度、言葉を切った。それから、覚悟を決めたように続けた。
「家に戻ってきてはくれないか。お前の場所は用意する」
その言葉に、オズワルドが後を追うように頷く。
「私からも、改めて詫びたい。これまでの扱いは、私の不明によるものだった。戻ってくれるなら、これからは相応の立場を約束する」
マルグリットは、その台詞をそのまま記録に取りながら、内心で一つの違和感を覚えていた。相応の立場、という言葉が指すものが、具体的に何なのか、二人のどちらも語らない。約束の中身がないまま、謝罪の形だけが差し出されている。これまで見てきた交渉の場でも、こうした空疎な言葉が通る場面は少なくない。だが、それが通用する相手かどうかを見極めるのも、この場に居合わせる者の役目だった。応接室の壁際から、マルグリットは二人の様子を見守り続ける。
セシリアはしばらく、二人の顔を順に見た。それから、静かに口を開いた。
「お心遣いには感謝申し上げます。ですが」
一拍の間があった。マルグリットはペン先を紙の上で止め、続く言葉を待つ。応接室の空気が、その一拍の間だけ張り詰めたように感じられた。
「私の場所は、もうここにございます」
短い言葉だった。だが、その響きには、迷いも留保もなかった。グスタフの表情が、わずかに強張る。応接室の空気が、その一言でさらに冷えていくのが分かった。
「隣国での立場が、そこまでお前を引き留めているとは思わなかった」
「引き留められているのではございません。自分で選んだことです」
オズワルドが口を挟んだ。
「では、私たちの下では、お前は選べなかったということか」
「選ぶ余地が、ございませんでした」
セシリアの声は変わらず穏やかだったが、その一言に、グスタフとオズワルドは同時に言葉を失ったようだった。マルグリットは、この短いやり取りの中に、これまでの経緯のすべてが凝縮されているのを感じ取る。取り立てて声を荒らげるでもなく、事実だけが淡々と積み上げられていた。記録係として数々の交渉を見てきた中でも、これほど静かに決着がつく場面には、あまり覚えがない。
「隣国との折衝についても、私に何かご相談があれば、正式な手続きを通じて承ります。ただし、それは今後の外交上の役目としてのことでございます」
その言葉で、面会の性質が明確になった。個人的な復縁の申し出は、公式な立場の話にすり替えられ、静かに退けられる。グスタフはしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。
「分かった。長居はしない」
オズワルドは何か言いかけたが、結局言葉にならず、椅子から立ち上がった。その拍子に、上着の内側から一枚の封書が覗いたが、すぐに戻される。マルグリットはその一瞬を見逃さなかったが、記録には残さなかった。二人が退室する際、セシリアは席を立ち、丁寧に見送りの礼をした。表情に、勝ち誇った色はどこにもない。
面会が終わると、リアムがマルグリットのそばに来て、記録の内容を確認した。書き取った文字を目で追う横顔は、いつも通り実務的だった。
「先方は、何か手土産のようなものを用意していましたか」
「特には。ただ、詫び状のような文書を持参していたようですが、渡す機会がないまま持ち帰られました」
リアムは短く頷いただけで、それ以上何も言わなかった。マルグリットは記録を整理しながら、あの詫び状が、あと少し早く用意されていたら何か変わっただろうかと考える。だが、答えはすぐに出た。文書の中身がどうであれ、差し出す時期を誤った謝罪は、もう誰にも受け取られない。それは交渉の場で幾度となく見てきた真理と、少しも変わらなかった。
窓の外で、グスタフたちの馬車が走り去る音がした。マルグリットはその音を聞きながら、セシリアの横顔を一瞥する。彼女は窓の外を見送ることもせず、机の上の書類に戻っていた。指先の動きに、迷いは一つもない。記録係として、これほど後腐れのない決着を見たのは久しぶりだった。長年この職務についてきたが、謝罪する側とされる側の立場がこれほど明確に分かれた場面は、そう多くはない。マルグリットは記録の最後の一行を書き終え、ペンを置いた。
彼女は、二度と誰かの代わりにはならないと決めていた。




