名前のある条約書
隣国の外交団本部は、辺境伯領の会議室とは違う静けさを持っていた。壁には過去の条約の写しが額装され、装飾よりも実務を優先した造りが随所にうかがえる。廊下を歩く職員たちの足音にも、無駄な間がない。セシリア・ヴァンダールは、その一室に通されていた。
「本日より、次期条約交渉における交渉人候補として、こちらのセシリア殿を紹介いたします」
リアム・ダーシャの言葉に、居並ぶ外交団の面々が視線を向けてくる。末席に控えるつもりで来たセシリアは、その紹介のされ方に一瞬、言葉を返しそびれた。候補という言葉の重みが、これまでの立場とはまるで違う。誰かがそっと拍手を送ろうとするのを、リアムが手で軽く制した。まだ正式な就任ではない、という合図らしかった。
隣にいた女性が、軽く会釈をした。
「マルグリット・ソレルと申します。リアムとは長く同じ職務についております」
「セシリア・ヴァンダールです。よろしくお願いいたします」
マルグリットはセシリアの顔をしばらく見つめた後、静かに言葉を継いだ。
「以前の条約文書、拝見しました。関税の猶予期間の書きぶりが、他の項目と比べて格段に精緻でしたので、印象に残っておりました」
その一言に、周囲の反応が微妙に変わる。誰の手によるものかを、ここでは誰も詳しく尋ねなかった。ただ、精緻という言葉だけが、セシリアの中に静かに落ちていった。他国の外交官たちが交わす評価は、これまで自分に向けられたことのない種類のものだった。
「クレイフィールド卿の名で提出されていた文書ですが、あの言い回しの水準は、並の書記官には出せるものではありません」
マルグリットの言葉に、他の何人かが小さく頷く。セシリアは頭を下げるだけにとどめた。認めるでも否定するでもない反応を、この場では選ぶしかない。
会合が一通り終わると、リアムがセシリアを別室へ案内した。廊下を歩く間、二人の間に言葉はなかった。窓から差し込む午後の光が、床の木目をくっきりと照らしている。
別室の机の上には、次期条約の草稿が広げられていた。前回までのやり取りを踏まえた条項が、すでにいくつか書き込まれている。リアムが椅子を勧め、セシリアはそれに座った。
「猶予期間の項目について、こちらで文案を作成しました。確認をお願いできますか」
セシリアは草稿を手に取り、目を通す。言い回しの端々に、以前自分が整えた表現の型が踏襲されていた。単なる引用ではなく、そこからさらに一歩進めた書き方になっている。読み進めるほどに、誰がこれを書いたのかという疑問が濃くなっていく。
「この言い回し、以前わたくしが用いたものと似ておりますが」
「似せて書きました。あなたの言葉の運び方には、無駄がない。真似るなら、それが一番早いと思ったので」
事もなげな言い方だった。セシリアは草稿の余白に目を落としたまま、しばらく返す言葉を探す。窓の外の光が、机の端まで伸びてきていた。
リアムは机の反対側から、署名欄を指し示した。空欄になっている箇所が二つある。ひとつはリアムの名を記す場所、もうひとつは何も書かれていない。
「もう一つの欄は」
「あなたの名を記していただく場所です」
セシリアは欄を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。これまで、こうした文書の署名欄に自分の名を書いたことは一度もない。誰かの名の下で働くことに慣れすぎていた。指先が、無意識に草稿の端をなぞる。
「わたくしは、通訳としてこちらに参りました」
「通訳ではなく、外交官として名を記していただきたい」
リアムの声には、迷いも遠慮もなかった。事務的な指示のようでいて、その言葉の選び方には、確かな意図が込められている。セシリアは草稿から顔を上げ、リアムの表情を確かめた。冗談を言っている顔ではない。
「招聘状には、通訳としての役割を期待するとありました」
「表向きの体裁です。あなたの待遇や身分の保証をご覧になれば、通訳一人にそこまで用意する国はないと、お気づきだったはずだ」
図星だった。招聘状を受け取った夜、自分でもそう感じていたことを思い出す。それでも確かめる勇気がなかった。違えば失望するだけだと、あの夜は考えていた。今、目の前でその答えを差し出されている。
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
「以前の交渉で、あなたの文書の言い回しに見覚えがあると申し上げたことがあったでしょう」
「ええ」
「あれは、初めて気づいたわけではありませんでした。もっと前の、通行税の覚書の頃から、言葉の選び方に癖があると感じていました。誰が書いているのか、確信していたわけではない。ただ、あなたが発言を求められても一歩引く様子を見るたびに、その言葉の重さと、扱われ方の軽さが釣り合っていないと思っていました」
セシリアは、椅子の背にわずかに体を預けた。誰にも見られていないと思っていた仕事に、こんなにも早くから気づかれていたという事実が、胸の奥で静かに広がっていく。動揺ではなかった。むしろ、長く抱えていた重みが、少しだけ軽くなるような感覚だった。窓の外を、鳥の影が横切っていく。
「わたくしも、申し上げていないことがあります」
「伺いましょう」
「隣国語を学び始めたのは、教養のためではありません。いつか、自分の言葉で誰かと交渉する日が来ると、根拠もなく思っていたからです。子供の頃、辞書を写しながら、そう決めていました」
言葉にしてみると、随分と幼い理由に聞こえた。誰かに笑われても仕方がないと思いながら、それでも口にする。だが、リアムは笑わなかった。
「根拠のない期待を、何年も持ち続けられる人は多くない」
「持ち続けていたわけではありません。途中から、ただの習慣になっていました。誰にも見せる予定のない努力を、続ける意味を疑ったこともあります」
「それでも、続けた」
「はい」
短いやり取りの後、しばらく沈黙が落ちた。窓の外の足音が遠ざかっていく。リアムは草稿を手元に引き寄せ、猶予期間の項目を指でなぞった。
「私にも、似た時期がありました。以前の上司の下で、外交文書のほとんどを実質的に書いていた時期です。功績はすべて、上司のものとして扱われました」
初めて聞く話だった。セシリアは黙って続きを待つ。リアムの声には、恨みがましさよりも、事実を淡々と述べる調子があった。感情を交えない分だけ、言葉の重みがかえって伝わってくる。
「腹を立てたこともあります。ですが、腹を立てたところで、状況は変わらない。変わったのは、私自身が独立した立場を得てからです。誰かの名の下で働くことと、自分の名で働くことの違いを、身をもって知りました」
「今、わたくしにその違いを与えようとなさっているのですね」
「与えるというより、正しい場所に戻すだけのことです。あなたの言葉は、最初からあなたのものだった」
窓の外で、外交団の職員たちが行き交う足音がする。部屋の中には、二人の他に誰もいなかった。しばらくの間、どちらも言葉を継がなかった。机の上の草稿だけが、二人の間に置かれている。
「自分の名前で何かを成すのを、諦めていました」
セシリアは、草稿の余白を見つめながら口にした。声は静かだったが、震えてはいなかった。
「諦めていた、という言葉を、過去形でお使いになった」
「ええ」
リアムはそれ以上、何も言わなかった。ただ、インク壺と羽根ペンを、セシリアの手元へそっと押し出す。緑がかった、彼女がいつも使う色のインクだった。どこで手に入れたのか、あるいは以前の文書から色を覚えて用意させたのか、尋ねる間もなかった。壺の縁には、まだ新しい艶が残っている。
セシリアはペンを取り、インクを含ませる。署名欄の上でしばらく手を止めた。これまで幾度となく、自分の名を書かずに文書を手放してきた。その癖を、指先がまだ覚えている。ペン軸の重さすら、以前とは違って感じられた。
窓の外の光が、机の上に長く伸びていた。リアムは何も急かさず、ただ静かに待っている。遠くで、外交団の職員たちが移動する物音がかすかに響いていた。
ペン先を紙に下ろす。緑のインクが、乾いた紙の上に静かに広がっていく。
草稿の末尾に、彼女は初めて自分の名を書き入れた。




