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通訳の令嬢が消えた朝、国境交渉は白紙に戻った  作者: 九葉(くずは)


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5/8

静かに崩れる領地

執務室の机に、隣国側からの書簡が届いたのは朝のことだった。グスタフ・ヴァンダールは封を切り、目を通す。関税折衝の次回日程について、先方の都合により延期させていただきたい、という一文があった。理由は簡潔にしか記されていない。文末の署名は、以前と変わらぬ丁寧な筆致だった。


これまで隣国側から延期を申し出られたことは一度もなかった。多少の予定変更はあっても、折衝そのものを先送りにするような書き方は初めてだ。グスタフは書簡を机に置き、しばらく文面を睨んだ。何度読み返しても、理由らしい理由は見当たらない。窓の外では、いつも通りの朝の光が差し込んでいるだけだった。


オズワルドを呼び、書簡を見せる。彼は目を通し、特に気にする様子もなく肩をすくめた。


「向こうの都合でしょう。急かす必要もないかと」


「文案の方はどうなっている」


「今、整えているところです」


その返答に、以前ほどの淀みのなさがないことに、グスタフは気づかなかった。息子婿になる男が忙しくしているのは、悪いことではないと思う。ただ、以前ならこうした報告の際、必ず具体的な進捗を添えていたはずだった。今日はそれがなかったことに、後になって思い当たる。


「延期の理由に、何か心当たりはあるか」


「さあ。特に思い当たることはございません」


オズワルドは早々に話を切り上げ、執務室を出ていった。グスタフは書簡をもう一度取り上げ、封筒の裏を眺める。差出人の名は、以前の折衝で顔を合わせた外交官のものだった。


昼過ぎ、妻から社交界の噂話を聞かされた。近隣の夫人たちの間で、ヴァンダール家について妙な話が出ているという。


「セシリアがいなくなったことで、お屋敷の切り盛りが立ち行かなくなっているのではと。有能な娘を手放した家だと、そんな言い方をする方もいるようですよ」


グスタフは眉をひそめた。娘が屋敷を出たことは、体調を崩して静養に出た、という形で周囲には伝えてある。切り盛りが立ち行かないという噂の出どころが分からない。


「誰がそんなことを言っているんだ」


「はっきりとは分かりませんわ。ただ、隣国との折衝が滞っているという話も、一緒に広まっているようで」


「折衝の件は、まだ延期の通知が届いたばかりだ。外に漏れるはずがない」


「でも、皆様どこかでお聞きになっているようですの。夜会の場でも、そのお話が出ましたのよ。わたくしも、どう返せばよいか分からず、曖昧に笑ってごまかしましたわ」


外部の話が、なぜこう早く社交界に漏れるのか。グスタフは書簡のことを思い出した。延期の理由を隣国側は書いていないが、こちらの事情が何らか伝わっているのかもしれない。だとすれば、噂の出どころは案外近いところにある。妻はそれ以上詳しいことを知らないようで、話はそこで途切れた。


夕刻、領地の収支を管理する会計士が報告に来た。今期の交易収入について、見込みを下方修正する必要があるという。


「隣国側の商人たちとの間で、これまで個別に交わされていた取り決めのいくつかが、更新されないままになっております。通行税の減免を受けていた品目の一部が、通常の税率に戻る見込みでして」


「そのような取り決めがあったとは、聞いていない」


「正式な条約には含まれない、口約束に近いものだったようです。詳しい経緯は私も存じません。ただ、これまでの帳簿を見る限り、その減免による差額は年々積み重なっておりました」


会計士は数字を並べた書類を差し出した。目を通すうちに、グスタフの手が止まる。想定していた収入から、決して小さくない額が失われることになっていた。品目ごとの内訳を見ても、どれも小さな減免の積み重ねに過ぎない。だが合計すれば、領地の年間収支に影響を及ぼす規模だった。


「これらの取り決めは、誰が交わしたものだ」


「記録には残っておりません。ただ、隣国側の担当者の一人が、こちらの交渉窓口の名を挙げておりました。もっとも、その方が正式にお会いになっていたのは、いつもクレイフィールド卿とご一緒だったはずですが」


会計士の言葉には、それ以上の含みはなさそうだった。ただ事実を報告しているだけの口調だ。グスタフはそれ以上、深くは尋ねなかった。誰が個別に築いてきた信頼の上に成り立っていた取引が、その誰かがいなくなったことで、静かに失効していく。会計士が下がった後も、書類はしばらく机の上に広げられたままだった。


夜、書斎に一人残り、グスタフは今日届いた書類をもう一度並べてみた。関税折衝の延期。社交界の噂。交易収入の下方修正。ひとつひとつは別の出来事のように見えて、根はひとつにつながっている気がした。


娘が出立する前の数年間を思い返す。夜会の後、疲れた顔をしていたことがあった。隣国側との折衝の日には、朝早くから支度をしていた。それらを、娘らしい几帳面さとしか捉えていなかった。何をそこまで熱心にやっているのか、聞いたことは一度もない。控えの写しを整理する娘の姿を、廊下ですれ違いざまに見かけたことも、数えるほどはあったはずだ。あの時、何を運んでいたのか、今となっては確かめようがない。


「あれの仕事を、誰も引き継げていないということか」


誰に向けた言葉でもなかった。書斎には彼一人しかいない。答えを返す者もいない。壁の時計だけが、いつもと変わらぬ音を刻んでいた。


娘を呼び戻すべきかという考えが一瞬よぎったが、すぐに打ち消した。体調を崩して静養しているという体裁を、今さら崩すわけにはいかない。まずはオズワルドに文案を仕上げさせ、隣国側との折衝を立て直すのが先決だ。娘の話は、それからでいい。そう自分に言い聞かせながらも、書類の束をすぐには片付けられなかった。


窓の外はすでに暗くなっていた。書類の束を重ねながら、グスタフは数字の並びをもう一度目で追う。減免、延期、下方修正。どの項目にも、娘の名前は一度も出てこない。それでも、すべての項目の裏側に、彼女が長年積み重ねてきた何かがあったのだと、今になって思い知らされていた。


灯りを落とす前に、もう一度だけ書簡の日付を確かめる。娘が屋敷を出た日と、そう離れてはいなかった。書斎の壁にかけられた領地の地図を、しばらく眺める。国境沿いの線を指でなぞりながら、これまで気にも留めなかった細部に目が留まった。地図の余白には、娘が幼い頃に描き込んだ小さな印がいくつも残っている。その印の意味を、自分だけが知らなかった。


娘が守っていたものの重さを、彼は今になって計り出していた。

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