一人では書けない男
書斎の机には、白紙の便箋が三枚重なっていた。オズワルド・クレイフィールドは、次回の交渉に向けた覚書を仕上げるつもりで座っていた。関税の追加条項について、隣国側へ先に文案を送る必要がある。難しい仕事ではない。これまでも何度となく手がけてきたはずだった。
ペンを取り、書き出しを記す。「両国の商人が国境で扱う品目について」。そこから先が続かない。次に何を書くべきか、頭の中では分かっているつもりなのに、言葉が形にならなかった。品目の範囲をどう区切るか、猶予をどこまで認めるか。以前の交渉では、この手の細部はいつも自然と埋まっていた。誰が埋めていたのかを、今になって考える。
窓の外で庭師が木を刈る音がする。規則正しく続くその音の方が、机の上の沈黙より雄弁に思えた。もう一度ペンを構え、別の書き出しを試す。「関税に関する追加条項として」。これも数行で行き詰まった。言葉が悪いわけではない。ただ、次に続く一文がどうしても見えてこない。
書いては消し、消しては書き直す。一時間が経ち、便箋は黒く塗りつぶされた線だらけになっていた。使えそうな一文は、結局ひとつも残らない。以前ならこの段階で、控えの写しをめくれば言い回しの手がかりが見つかったはずだ。今はそれがどこにあるのかすら分からない。机の抽斗を片端から開けてみたが、必要なものは何も入っていなかった。
「セシリアの下書きを持ってこい」
呼び鈴を鳴らし、以前の交渉で使った控えを探させる。しばらくして戻ってきた侍従は、頭を下げるだけだった。
「セシリア様のお部屋を確認いたしましたが、それらしき書き付けは見当たりませんでした。私物もほとんど残っておりませんで」
「探し方が足りないんだろう。もう一度見てこい」
命じられた侍従は再び下がっていったが、戻ってきた答えは同じだった。控えの一枚も、下書きの一片も残っていないという。書斎の抽斗も、控えの棚も、彼女が使っていたはずの場所をひととおり検めさせたが、何も出てこなかった。彼女の字を見た記憶を辿ろうとしたが、控えの中身までは思い出せなかった。
便箋の束を睨みつける。これまで彼女がどこにどう控えをしまっていたか、考えたこともなかった。必要になったら渡されるものだと、当然のように思っていただけだ。侍従を下がらせた後も、机の上の便箋は白いままだった。
書き出しの一文を何度も見返す。以前はここから先を、迷うことなく書けていたはずだった。いや、書いていたのは自分の手であっても、言葉の運びまで自分が組み立てていたかというと、はっきりとは思い出せない。渡された草案を清書していただけなのかもしれない。その可能性を、頭の隅で払いのける。
昼過ぎ、辺境伯グスタフ本人から使いの者が来た。次回の折衝に向けた文案を、明日までに整えるようにという、急な内容だった。
「明日までとは、聞いていない」
使いの者は困った顔で、以前からその予定だったと告げるだけだった。それ以上の説明はない。オズワルドは使いを追い返し、再び机に向かう。焦りが手元に出て、ペン先が震えた。二度、三度と書き出しを変えてみるが、どれも数行で行き詰まる。文案の締め切りは、これまでセシリアが把握し、彼に伝えていたものだった。日付を聞き逃していたことにすら、今日まで気づいていなかった。
これまでの交渉で、締め切りを一度も自分で管理した覚えがない。近づけば誰かが教えてくれるものだと、当然のように思っていた。誰が、とまでは考えたこともなかった。今になって、その誰かがずっと同じ顔をしていたことに思い当たる。今日まで、その顔に名前をつけて考えたことすらなかった。
「なぜこんな簡単な文書一つ、まともに書けないんだ」
誰に向けた言葉でもない。書斎には彼一人しかいなかった。声に出したところで、白紙の便箋が埋まるわけではない。
これまで幾度となく交渉文書を仕上げてきた自分が、なぜ今日に限って一文字も書けないのか。理由を考えかけて、すぐに打ち消した。今日は体調が優れないだけだ。明日になれば筆は進む。そう自分に言い聞かせたが、便箋の上の線はどれも短く途切れたままだった。
夕刻になり、庭師の音も止んでいた。窓の外はすでに日が傾いている。書斎の灯りを増やすよう命じ、もう一枚、新しい便箋を取り出した。書き出しの一文だけは、以前と同じ言葉で始める。その先が浮かばないことも、以前と同じだった。ペンを置き、また取り上げる。その繰り返しだけが続いた。
侍従が夕食の支度を告げに来たが、オズワルドは手を止めずに追い返した。書斎に一人残り、便箋の山を数えてみる。使い物にならない紙だけが増えていく。明日の朝までに、この束のどこかに一文でも使える言葉が残っていればいいと思いながら、灯りを見つめ続けた。灯りが一つ、また一つと窓の外の廊下で消えていくのが見えた。
白紙の便箋の上で、彼のペン先だけが乾いていった。




