エンカラの里
もぞり、と身動いで薄く目を開けた。──とても暖かい。こんなに深く眠れたのは、随分久し振りだった気がする。
テントの布越しに、白んだ朝の光が滲んでいる。外では風が草を撫でる音がして、その向こうで小鳥の囀りが微かに響いていた。
このまま二度目の眠りに落ちたいくらい、包まれた温もりが手放し難い。
顎を上げると、ほぼ目の前にトリューの寝顔があった。背に回された腕まで、暖かくて落ち着く。
「ぐるる……」
小さな寝息に混じる喉の震えが聞こえる。唸っているようにも聞こえるが、寝顔は酷く無防備だ。触れた胸元から、低い振動がじんわりと伝わってきた。
(猫……は、リラックスしてる時だっけ……)
そんな記憶が、どこかにある。寝息と一緒に漏れる喉鳴りを聞きながら、そんなことを思い出した。
「ぐるる……る……」
(安眠してるんだな……)
喉鳴りが小さいからなのか、トリューの毛布に潜り込んだ時以外には聞いたことがない。
トリューが気にしていないのでずっと湯たんぽとして愛用しているが、自分を抱えながらでも安眠できているのなら、ティファも気が楽だった。
『頼っていい』と、教えてもらった。それでも、負担が偏れば人の心は変わるものだ。助けてもらった分だけ、助けられるようになりたかった。
暖かい寝心地を手放すのを惜しみながら、ティファは起き上がる。体を伸ばすと、朝の冷気が肌を刺して体が震えた。吐いた息が白い。
しかし、安眠とリコの薬のおかげでしっかり体調は戻った。喉の奥の苦しさも、頭の芯の重さもない。隣のトリューを揺らし、「朝だぞ」と声を掛ける。
リコはガジの足に潰されていた。太いふくらはぎの下から、小さな手だけがはみ出している。なるほど、そうやって拘束すればよかったのかと腑に落ちた感覚を得た。次いでガジとリコにも声を掛け、身支度を整える。
替えの旅装を取り出し、着替えようと脱いだら、脇部分から嫌な音がした。──ビリリ。確かに、そう聞こえた。指先に、糸が弾ける感触が伝わる。
「あちゃー……」
以前、修繕した部分が裂けてさらに広がってしまった。替えの分もこまめに修繕してはいるが、いい加減汚れも落ちない。
「でもなぁ……」
これは、ノノアがティファの為に何度も試作を繰り返して、完成させてくれた旅装だ。縫い目をなぞると、几帳面な縫い目が指の腹に触れた。特にマントには、刺繍も入っている。手放したくはない。
「着替えねえの?」
替えの服を見詰めたまま悩んでいると、覚醒したらしいトリューに声を掛けられた。トリューはティファの分の毛布も畳むと、彼女の鞄に入っている着替えを取ってくれと頼む。
「さすがに限界かなって……」
着替えを手渡しながら、先程裂けてしまったインナーを見せる。脇部分から腰辺りまで、直した箇所から再び裂け始めている。繊維は毛羽立ち、汚れも落ちなくなり、修繕痕だらけだ。
トリューはぽん、とティファの頭に手を置いた。
「またガジに頼んだら?」
「でもここまでボロボロだとなぁ……」
「なんだ、見せてみろ」
いつの間にか起きていたガジに手を差し出され、インナーを手渡す。寝起きの太い指が、裂け目をつまんで朝の光に透かした。「他のも限界かもしれない」と加えて、ティファは肩を落とす。リコはまだ半覚醒の状態で、ゆらゆらと船を漕いでいた。
「ちょうどいい。グリウスの里に戻ったら、お前らの武器を改良するつもりでいた。ついでにこれも作り直そう」
「えっ、できるの?」
「武器も?」
「そうだ。必要な素材はジジイに頼んである。布は……俺は専門じゃねえが、反毛ってやり方がある。全く同じ質には戻らねえが、代わりに他の繊維と混ぜてより頑丈に作り直すこたァできる」
ガジの言葉に、震えが止まらない。布の再利用先なんて、寝巻きか一生使わない小物くらいしかないと思っていた。
「お前ら特に、防御薄いし甘めえからな。だが機動力落とす鎧は使えねえし、布から強くするしかねえと考えてたんだ」
「ガジ……ッ!」
「まじかーありがとう」
ティファは目を輝かせ、ガジの手を取った。胸がじんわりと熱い。だが同時に朝の空気が流れ込んで、二の腕に鳥肌が立つ。
「早く服着ろ」
「よかったなーティファ」
「うん、ありがとう……っ」
木製の弓さえ、グリップ布として再利用してくれたガジだ。最初から頼めば良かったのかもしれない。
──これも頼る、ということなんだろうなと、ティファは着替えながら思った。
「じゃあさ……マントも……?」
「強化はした方がいいだろうな。竜の眼の片方は灯火と奪い合いだ」
トリューと二人で息を詰めた。確かに、あのレベルに対抗するのに、技術云々が満たないなら防具だってきちんと揃える必要はある。ガジの指針は真っ当だ。
「戦闘に使うなら、マントに防護魔法の術式を刻む方法もあるわよ」
顔を洗ってきたらしいリコが、濡れた前髪を額に張り付けたまま、欠伸をしながらテントに戻ってきた。トリューは残りの毛布も畳み、「そろそろ火ィ焚くか」と入れ代わりにテントを出ていく。
「刻むならやってあげるわよ。ただし、使う時の消費マナはティファ自身のものだからね」
「うん、わかった。頼む。あと……この刺繍だけ残せる……?」
ティファは襟の裏の刺繍を見せた。幼馴染みが刺してくれたお守りなんだ、と加えた。
「あら~ヤドリギなんて素敵じゃない。男の子?」
「女だよ。ノノアって奴」
「なんだ、残念」
「なんで……」
「一部残すくらい訳ねえや。グリウスに戻ったら預けろ」
「うん……ありがと」
今まで何かを頼む時、たくさんの感謝の底に申し訳なさが沈んでいた。それは今も、腹の奥にとぐろを巻いて居座っている。
自分にも役割がある時なら、対等な要求として安心できるのに。
それでも、ティファは昨日の温もりを忘れない。外からは、トリューが薪を割る乾いた音が、朝の山にこだましていた。
******
魔物の気配は随分遠退いていた。肌をちりちりと刺していた殺気が、昨晩から途切れている。
集中すればとんでもないマナ量の魔物が山に潜んでいるのが感知できるが、戦士のナワバリに踏み込むような真似はしないらしい。魔物にも知能がある個体がいるのだろうか。
エンカラの歴史さえ越える樹齢の、巨木の群れを抜けた。苔むした幹が柱のように立ち並び、枝葉の隙間から降る朝日が、斑模様になって足元で揺れている。
その先で、樹木より巨大な二本の柱に見下ろされた。松明の火も大きく、ぱちぱちと爆ぜる音が風に混じる。
柱には不気味な顔が彫られ、赤い紋様が刻まれていた。長い年月に磨かれた木肌の艶が、歴史ある部族らしい意匠だった。
見たところ門に見えるが、周りを囲う柵や壁もない。見張りや門番も見当たらなかった。
槍を構えた巨人兵が並ぶ砦のような場所を想像していたティファは、拍子抜けしながらガジの後ろをついていく。
里の中は樹木を切り開いて作られたように見えた。切り株の断面が石畳の代わりに並び、巨大な丸太を組んだ家々の屋根からは、薪の煙が細く昇っている。
建物は皆大きい。自分が小さくなった気にさえなる。しかしどの家も静かで、巨人の気配はしなかった。
ティファ達には広すぎる長い道を歩き、やがて地鳴りが聞こえてくる。足の裏から、振動が這い上がってきた。そして空気が震えるような笑い声。──巨人の足音だ。
辿り着いた先は広場だった。櫓のように組まれた薪が赤々と燃え、焼ける肉の脂と酒精の匂いが鼻を突く。巨人達は大きな火を囲み、昼間から酒を煽っていた。火の粉が青い空へ舞い上がっていく。こんなに近くまで来ているのに、まだティファ達の存在に気づかない。
──あるいは無視されているのか。声を掛けようとしたら、先にガジが声を張り上げた。
「エンカラの民ィ! 俺ァグリウスのジンだ! おめぇらの長老はどこだ!」
ようやく気づいたらしい巨人達は、酒樽を置き、ぬんと立ち上がった。樽が地面に置かれる度、どすんと腹に響く。
──大きい。グリウスの民より、一回りか二回り程高い身長だった。体格も戦士らしく、鍛冶師達よりどっしりと鍛えられている。
見上げる首が痛い。巨人達は腕を組むガジの前に立ち、大きな影を作った。視界が急に暗くなる。視線がどことなく睨むようで、指先がチリつく。
すると、巨人達は一斉に表情を緩めた。大笑いする者、しゃがんでガジの顔を覗く者、反応は様々だった。
「ハッハッハ! どこの誰かと思えば! ジンとこのガジ坊じゃねえか! わかんなかったぜ!」
「チビの癖に顔だけ老けやがって! オイ! 久し振りじゃねえか!」
「うるせえ!」
頭を潰す勢いでガジの頭を撫でる手を、ガジは両手で何とかどけようとしている。しかし、ガジの怪力でさえ巨人の腕力には敵わないらしかった。
「結構いい人達……?」
「ガジの話だともっと怖い部族かと思ってたわ」
「俺も」
子供の相手でもするかのように巨人達はガジを歓迎している様子だった。ガジだけが撫でようとする大きな手を全力で突っぱねている。
「オウ! 他にもチビいるじゃねえか!」
「じき狩り当番の奴らも帰って来る! てめえら食ってけ!」
気さくに食事に招待され、断る理由もないので受けることにした。ガジは「その前に風呂貸せ」と、相変わらず仏頂面で偉そうに巨人に言い放っている。
「お風呂……ッ」
「確かに入りたいわ……もうベトベトよ」
「うわー血の匂いやべえ」
ガジの案内で、里の大浴場だという場所に向かう。景色は何もかもが大きい。軒先に吊るされた干し肉も、積まれた薪も、ティファの背丈を軽く越えていた。
しかし、グリウスの里と違って建物の作りは簡易的なものが多かった。木材で組み立てた、ログハウス調のものばかりだ。近くを通る度に、清々しい木の香りが漂う。
ティファはその香りに、少しスコーグスローでの暮らしを思い出した。
大浴場は、巨人達でも入れるような広い温泉だった。入口からも白い湯気がもうもうと漏れ、山の冷えた空気に触れて、ゆっくりと渦を巻いている。
女性の巨人達が掃除や手入れをしていて、ちゃんと男女別らしい。脱衣所で別れる前に、ガジは「深いから溺れるなよ」とだけ告げていった。その背中が、少し嬉しそうに揺れている。
全ての装備を外して、巨大な木の引き戸を力一杯引く。巨人サイズでなければ扉ひとつに苦戦する。隙間の向こうから、湯気が頬を撫でて流れ込んできた。
そして、中──というよりは外だった。
岩に囲まれた広い露天風呂に、淡く白濁した湯が見渡す限りに満ちていた。湯面から立ち昇る湯気が、岩壁に沿ってゆっくりと流れ、ほのかな硫黄の匂いを運んでくる。
岩壁の向こうでは木立が風に揺れ、その切れ間から、遥か下に雲海が見えた。
洗い場は、巨大な木桶が並ぶ一角らしかった。岩壁から引かれた湯樋から、温泉がとうとうと流れ落ちている。天然の湯をそのまま出しっぱなしにした、蛇口代わりのようだ。
中でも子供用であろう、小さい桶を選んで湯を受ける。それでも運ぶのは大変だった為、湯樋の下でそのまま洗い流すことにした。
リコ製品のおかげで、旅の衛生面はかなり改善された。ボディーソープにシャンプー、トリートメント。果てはヘアオイルや保湿剤などの美容品まで。
鍛冶仕事で手を痛めやすいガジは、特にハンドクリームを有難がっていた。唇が切れる度にリコに治してもらっていたトリューも、リップクリームを使うようになって割れなくなったらしい。
宿では節約する湯を贅沢に使い、泡を洗い流すとさっぱりして気分が良かった。三日分の埃と血の匂いが、灰色の泡になって足元を流れていく。髪にも指がすっと通り、絡まない。全て流し終えると、リコと同時に顔が緩んだ。
洗い終えていざ温泉に浸かろうと岩の間から湯面を覗くが、底が遠い。二人は顔を見合わせた。
「岩に掴まったまま入るしかない……?」
「浮き輪を所持品に入れておくんだったわ……」
「それは邪道だろ……」
しかし岩も相当に大きいので、掴まったところで湯に届かない。縁にしがみつくと、爪先が湯気の中で宙を掻いた。
どうしようかと考えている間に、濡れた髪から落ちた雫が風に吹かれ、せっかく洗った体が冷えていく。いっそもう浮かんでいようかと思ったところで、脱衣所への扉が開いた。
「あのう~……」
ひょこ、と顔を出したのは、先程軒先の掃除をしていた若い巨人の女性だった。少女にも見える。焦げ茶の髪を二つに束ね、髪と同じ色の瞳が恥ずかしそうに潤んでいた。脱衣所の床板がきしりと鳴り、湯気が彼女の肩のあたりで大きく揺れる。
「もし……これ、よかったら……」
もじもじと差し出されたのは、背の高い大きな台座だった。
「えっと……皆さんのサイズだとご不便かと思いまして……ちい──えっと、巨人の幼い子が使うものなんですが……さっき男性の方にはお渡ししたんですけど……」
彼女は露天の方には入ろうとせず、台座を差し出したまま扉に半分顔を隠して何度も指を組み替えている。
「ありがとうー。使わせて。困ってたんだ」
「助かるわー。私達じゃ運べないから、手伝ってくれないかしら」
「あっ、は、はい……っ」
少女は台座を持ち、巨人の割に愛らしい足音でこちらに向かってくる。しかし、濡れた岩に足を滑らせ、つるん、と前につんのめってしまう。
「ひゃわっ……!」
「あぶ……っ!」
台座は投げ出され、少女は手を突く間もなく顔面から落ちようとしていた。台座は温泉に落ち、どぼんと大きな音を立てて飛沫を上げる。湯気を突き破った水柱が、遅れて頭上から降り注いだ。
顔面への痛みを覚悟していた少女は、代わりに柔らかい光に受け止められていた。ゆっくり目を開けると、リコが改変した結界が、淡い網目を描いて衝撃を包んでいる。
「早速役に立ったわね」
「魔道書なしでよくできたな」
「作りたてでよかったわよ。頭にあったからすぐ構築できたわ」
少女の無事を確認すると、リコは結界を解いた。光がほどけて、湯気に溶ける。少女は焦ったように何度も何度も土下座までして頭を下げ、終いには落ちた台座を作業着のまま取りに行った。
彼女の分の湯が岩の隙間から溢れて、足首どころか膝までを濡らしていく。
「ちょっと。ずぶ濡れじゃないの」
「いえ……ッ、ほんとに……私、その……ッ!」
どうにか落ち着かせたいが、さすがに裸のままの時間が長すぎる。いい加減かじかむ程に冷えたので、台座を使って湯に入ることにした。
少女が湯から上がると嵩が減って、むしろちょうどいい深さになった。立てば胸元辺りで水面が揺れる、リコはそれでも足が届かないので、ティファが抱えた。
「「はぁぁ~~~~」」
揃って長い長い息を吐く。じわり、じわりと血が巡っていく。指先の痺れがほどけ、筋肉が弛緩し、へにゃりと顔が崩れる。三日分の疲れが、白い湯の中に溶け出していくようだった。
「あの……本当にすみませんでした……ッ! わっ、私はこれで……!」
「あっ、ちょっと──……」
引き留める間もなく、少女は早足に露天を去って行った。ばしん、と扉が閉まる音の後、散らされた湯気の隙間をひゅるりと冷たい風が寂しく吹き抜けた。
「あんまり戦士の一族っぽくない子だったな……」
「竜の眼の封印について何か聞けたらよかったのだけど……」
リコと揃って首を傾げるが、少女の名前すら聞けずじまいだった。
気弱そうだが、親切な娘だった。また会ったら名前を聞こう、と話して、二人は長湯を楽しんだ。
雲の上の空は、今日もどこまでも青く澄んでいた。遠く広場からは、巨人達の笑い声と酒盛りの音が、風に乗って微かに届いた。
お気に召しましたら評価ブクマ感想などいただけるとありがたいです。大変励みになります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。




