鳴らない夜
子供みたいだな、と思った。
霧が立ち込めてきている。吐く息が白く溶け、辺りは巨木も尖った岩場も多く、足場は悪いまま。濡れた岩肌が、ブーツの底でぬるりと滑った。
トリューは仲間を見失わないよう、ガジの少し後ろを歩いた。ガジの背中で静かに寝息を立てるティファは、いつもより小さく見える。外套から流れる白い髪が、歩みに合わせて力なく揺れていた。
──黒瘡病に罹った時もそうだった。高熱で倒れるまで自分の足で歩き、戦おうとさえしていた。一度として、ティファは「つらい」とも「苦しい」とも言わなかった。
寒さで凍えていた夜も、トリューが抱えなければ、唇を震わせたまま一晩中一人で耐えていたのだろう。
最初に気になったのは、冒険者ギルドの登録の時だった。誰もが当たり前に持っていると思っていた姓名を、ティファはきっぱりと「ない」と言った。孤児なのか、事情があるのか、その時は聞けなかった。あの時、自分がどんな顔をしていたのか、今ではよく思い出せない。
前世の話を聞いて驚いたと同時に、酷く腑に落ちた感覚もあった。
年の割に妙に大人びていること。その癖自分を大事にする感性が薄いこと。
恐らくティファは、トリューが当たり前に親から貰ってきたものを、何一つ持っていない。
自分の境遇をさも当然のように受け入れ、「よくある話」として片付けてしまっている姿が痛かった。
(だからって……)
トリューはそれ以上、心を言語化する術を持たなかった。ティファの己への過小評価、自身を省みない献身。ティファ本人も嫌だとは言いながら、行動原理に深く根が絡まって足を離さない。
喉に熱の塊が引っ掛かるのを感じた。唾を飲み込んでも、それは消えてくれなかった。
(レイヴンだったら……上手く伝えられるのかな)
軽薄な男だが、実力と知識は確かにベテランのそれだった。ティファと同じ転生者でもある。彼なら、ティファの無茶を止めて、守って、導いてもやれるんじゃないだろうか。
──竜の眼探しなんかに、付き合わせなくても。
そこまで考えて、胸が詰まる。僅かに目頭が熱い。トリューはそっとバンダナを深く下ろして、俯いた。縁をなぞる指先に、母が刺した刺繍の凹凸が触れる。少しだけ、懐かしくなった。
霧がさらに深くなる。目の前にいるはずのガジの姿さえ白んでぼやける。肌を撫でた冷たい空気に、故郷の厳しい寒さを思い出した。
******
──14年前。
父を見送る幼いトリューは大泣きしていた。家の前で父はトリューの頭を撫で、何度も「すぐ帰って来るから」と宥めていた。
冬の一番寒い時期だった。屋根からどさりと雪が滑り落ち、吐いた息が顔の前で白く固まる。
「やぁだぁぁぁぁ」
「トリュー。父ちゃん出掛けられないじゃないか」
「うーん……参ったな……」
「ほら、トリュー。後で兄ちゃんと釣り行こう。な?」
「やだぁぁぁとーちゃんもいくぅぅぅ」
父の足にしがみついたまま、トリューは顔をぐしゃぐしゃにして首を振った。後ろでは母も頭を抱えている。
幼いながらに、父がどこに行くかは理解していた。いつもの狩りじゃない。紋章が入った硬い鎧を纏って、狩猟用ではない弓を持っていた。歩く度に鳴る金具の音が、いつもの父の足音と違って、怖かった。
『すぐに帰って来る』。村から何人も、そう言って帰らなくなった男がいるのを、トリューは知っていた。
父は困ったように笑いながら、トリューの頭を撫でている。そして、自分が着けていたバンダナを外すと、トリューの頭に結び直した。父の黒髪がパサリと落ちる。トリューは反射で泣き止んだ。
「ほら。これでずっと父ちゃんと一緒だ」
小さな手で頭を触ると、父と同じように髪を逆立てて幅広のバンダナが巻かれている。ほんのりと父の体温が残っていた。母譲りの金髪に、その深い紅はよく映えた。
「トリューだけじゃ不公平だよな。トランにはこっち」
「俺もいいの?」
「俺が帰って来たら返せよ」
兄は首飾りを貰っていた。父は悪戯っぽく笑い、10も歳が離れている兄は照れ臭そうに「じゃあ……預かっとく」と答え、受け取った首飾りを大事そうに握り込んでいた。
「いいかートリュー。父ちゃんが留守だからって簡単に泣いちゃいけないんだぞ」
父の暖かくて大きな手が再び頭を包む。ぐりぐりと捏ねるような撫で方が、トリューは好きだった。
「でも……なきたくなったら?」
「こうしたらいい」
「わっ」
バンダナを下げられ、目元を隠された。突然真っ暗になった視界に、咄嗟に父の手を掴んだ。握り返された手は固く、まめだらけで強かった。
バンダナを捲って目を開けると、父はトリューの目線で笑っていた。
「とーちゃんも、こうやってないた?」
「泣いた泣いた。母ちゃんに怒られた時とかな」
「ふへへ……かーちゃんこわいもんな」
母は呆れながら息を吐く。しかしその目はずっと優しかった。
幼いトリューは、もう泣かなかった。バンダナの縁をぎゅっと握り締めて、出掛ける父を、雪原の彼方に消えるまで見送った。
父はその日を境に、帰ることはなかった。
******
「──ュー! トリュー! いるか!?」
昔を思い出していたら、いつの間にか歩幅が狭くなっていたらしい。ガジが呼ぶ声と距離が開いてしまっていた。
「悪りい! ここいるー!」
霧だと思っていたものは、どうやら雲だったらしい。追いつこうと急ぐが、辺りはほぼ真っ白だった。足元さえよく見えない。
「ゆっくりでいい! 急ぐな!」
「わかったー!」
槍の先で足場を確認し、音と匂いを頼りに足を進めた。ガジの重い足音と、鉄と煤の匂い。そのふたつを手繰り寄せるように歩けば、距離は然程離れていなかった為にすぐ合流できた。ティファは目が覚めたのか、ガジの背中から降り、自分の足で立っていた。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。十分休ませてもらった。あと……いい加減動かないと寒い……」
ティファは両腕を擦り、冷たい風に身を震わせていた。唇にまだ血の気が戻っていない。
今まであまり気にしていなかったが、そんなに寒がりなら太股を隠せばいいじゃないかと思う。
しかし幼馴染みが作ってくれた旅装なので、それは変えたくないらしい。変なところで律儀というか、物への愛着が強い。そう思ったところで、トリューは自分のバンダナに気がついた。
(俺も人のこと言えねえか)
バンダナをそっと撫でて、ふと頬が緩んだ。
雲海はエンカラ山で最も危険だとガジは言う。これが雷雲だったら最悪だ、とガジは零していた。
「視界も悪すぎるわね。ティファ、歩けるならちょっと代わってちょうだい」
「ガジに乗るってこと?」
「防護魔法を展開したまま進みましょ。消費激しいから足になってほしいの」
「おうよ」
ガジは今度はリコを肩に乗せ、リコは魔道書を開いて周囲に結界を張った。ドーム型の淡い光に網目が重なっていく。白い世界の中で、そこだけが小さな灯りのように浮かんでいた。
「私を中心に展開したから、私から離れないでね」
「攻撃されたらどうすればいいの?」
「部分的に結界を開けてあげるわ。できるだけ遠隔で仕留めなさい」
「わかった」
ティファは弓に持ち換え、マナを流した。弦が低く鳴る。トリューは遠隔の攻撃手段がほぼない為、ガジやティファの代わりに荷物を持つことにした。背中にずしりと重みが加わり、肩紐が食い込む。
雲海はリコの魔法のおかげで、負傷もなく無事に抜けることができた。雲の上だというのに、まだ巨木は所々生い茂っている。
リコは植物の生態に興味を持っていたが、ゆっくり調べられない状況に憤慨してもいた。結界を解くたび、名残惜しそうに葉を振り返っている。
しかし頂上は、目視できる高さまで到達している。頂上付近は巨大な樹木に囲まれているように見えた。
──もうすぐ、竜の眼が見つかる。トリューの心臓が大きくひとつ跳ねた。
「だがもう日暮れだな。ここまで来ればエンカラの奴らのナワバリだ。魔物もそういねえ。早めに休もう」
「そうしましょ。私もくたくただわ」
雲海を抜ける間、ずっと結界を張っていたリコも疲弊していた。ガジも常に周囲を警戒し、皆に気を配りながら歩を進めていた。さすがに疲れの色が見える。
ティファは多少回復できたようだが、まだ目の下の隈は残っているし、白い肌はいつもより青い。息苦しそうでもあった。
「まだ苦しい?」
「いや……うん。ちょっと」
「高山病かしら。空気も薄いしね。診るから横になりなさい」
「ありがと……」
以前なら「大丈夫」と突っぱねていただろうに、素直に受け入れるようになったことに少し安心した。トリューは使えそうな薪を集め、焚き火と食事の準備を始める。
母に教わった下処理と、最適な煮込み時間。父も兄も、そうやって母から料理を教わったらしい。
食材はできるだけ食べやすいサイズで、それでいて煮込んでも崩れないように。
昔を思い出したせいなのか、懐かしい気持ちでトリューは鍋を回した。立ち昇る湯気が、冷えた頬をじんわりと温めていく。
食事の間に共鳴石が鳴ることもなく、静かに夜は更けていった。雲の上だからなのか、満天の星空が眩しい程に瞬いている。ランプの明かりが必要ないくらい、月が山を照らしていた。
今日こそはゆっくり眠れるだろうか。それぞれが眠る準備を始めると、やはりティファは寒がっていて、トリューは「はい」と自分の毛布を持ち上げて両手を広げた。
ティファは遠慮することもなく、もぞもぞと毛布に潜り込んでくる。冷えた爪先が足の甲に触れて、トリューは小さく息を詰めた。トリューの腕を枕にしてふう、と息をつく様は、まるで猫か犬のようだ。
程なく皆の寝息が聞こえてくる。リコは寝相の悪さから最初から端に置いているのに、もうガジを登り始めている。
ガジはと言えば、魔物のような危険な気配には瞬時に対応するのに、リコの寝相には一切反応しない。殴られようが蹴られようが、ものともせず眠り続けている。──長年の経験値なのだろうか。
ふと胸元のティファに視線を落とすと、口を開けて熟睡していた。余程疲れていたのだろう。目にかかった前髪を払うと、指先に柔らかい感触が残った。
(リコのシャンプーいい匂いすんな……)
頭を撫でてみると、以前よりずっとさらさらになっていた。手触りが心地好くて、何度も撫でた。
「んむ……」
「あ、ごめん起こした?」
「すー──……」
「……」
一瞬口をもごもごと動かした後、また静かになった。いつも眉をつり上げて鋭く周りを観察している目が、今は緩みきっている。
(……へんなかお)
起きている時に言ったら怒られるかもしれないが、それくらいティファの寝顔は無防備に弛緩していた。
(……かわいい)
ロマーニの祭りで上手く口にできなかった言葉が、はっきりと頭に浮かんだ。それは昔、村で保護した狼の子供に向けた感情に似ていた。あの時も、弱った仔狼を毛布で包んで暖炉の前で温めた。
初めてティファを膝に乗せて温めた時も似た感覚だった気がするが、今はティファが横で眠っていると安心する。
(まぁ、ずっと一緒にいるしな)
起こさないように少しだけ抱き寄せる。ティファの温もりが自分にも伝わる。髪を撫でていた手触りも重なって、睡魔がトリューを攫っていく。
テントの隙間から蓄魔石がほんのり光っている。その日、共鳴石は一度も鳴らなかった。




