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頑固者

 ねずみ色の雲が空を覆っていた。一面素ねずの雲の中で竜がのたくっているように、銀ねずに色を薄めた雲がうねうねと形を変えている。竜の吐息が白ねずの雲となって激しく流れていた。永代橋の方向には丼ねずの雲が周囲の色を吸い取るようにかぶさっていた。その中で時折鮮やかな蜘蛛の巣が光る。パパッと光るそれは、雪おこしの稲妻だった。

 元旦の江戸にチラチラと雪が舞った。夜半から断続的に降った雪は、融けることなく厚みを増していた。

 明け五つ。庄吉は、元旦の雑煮を炊くための若水を汲みに出て、一面が雪に覆われていることを知った。明けの五つといえば、夜が開けるにはまだ早い、薄明るくなってきた頃である。若水を汲むのは主の役目と昔から言い伝えられていたのを、庄吉は律儀に実行しようとしていた。もとより薄っぺらな表戸一枚の長屋のこと、寝ていても寒くてしかたなかったのだが、風が吹き抜けないだけましというものだ。しかし、そこいらから吹き込む隙間風のために、夜着から露出している顔は、すでに冷たくなっている。

 あまりの寒さに暖をとろうとしたのだが、間の悪いことに焚き付けをきらしていた。これではいつになっても火を熾すことはできない。庄吉はしかたなく綿入れを着込むと路地へ出た。近くで焚き付けにするものといえば、木場である。暮れに片付けをしたといっても、いくらかは木屑が残っているはずだ。庄吉は目星をつけると、まだ誰も汚していない通りに大きな小判の足跡を残しながら薄暗い通りを足早に通り過ぎていた。

 いくら馴れっことはいえ、雪道を草履で歩くと爪先から頭の芯に冷たさが突き抜ける。こんな時くらい足袋を履けば良いだろう。が、そんなことをしたところで、足裏に水が滲みて霜焼けになってしまうことを知っている。こういう時は、余計なことを考えずに早く用をすますに限るのだ。


 雪の山と化した木っ端置き場を掘り返して両手に抱えるほどの焚き付けを手にした庄吉は、ぶるっと身震いをして戻りかけ、別の山をさぐり始めた。どうやら目当ての山のようだが、掴み出したものを頬にあてては捨て、かなり深いところのものでようやく納得したようだ。掴み出したのはカンナ屑である。薄いカンナ屑なら埋め火で容易に火を熾すことができる。庄吉はすでに両手で抱えるほどの木っ端を拾ったのだから、もう持てない。どうするか迷うふりをみせて、それを懐にねじ込んだ。

 そうすれば胸元は確かに暖かくなるだろう。だが、たえず足踏みをしていた。足駄ならともかく、藁草履は水がぐっしょり滲みていた。


 グッ、グッ、グッ、グッ

 雪は音もなく降り続けていた。真新しい足跡は、たしか自分の歩いた跡である。ところが、木っ端を選んでいるわずかな間に、自分のつけた足跡が新しい雪で埋もれそうになっていた。


 ゴンゴーン

 時を告げる鐘である。年明けて初の明け六つの鐘は、いつもより遠く聞こえる。

 ゴーーーーン、ゴーーーーン、ゴーーーーン……

 のんびり余韻に浸る余裕などなかった。六つ目の鐘が鳴った時には、庄吉はズッポリ埋まったドブ板を避けながら路地を抜けていた。


 ドサッと木っ端を入り口に置いた時、鐘の尾が糸のように細くなっていた。


 夏には風通しが悪いくせに、こんな日には容赦なく隙間風を巻き込む表戸が、ひっ傾いだ状態で喰いついてしまった。戸の下側を庄吉が蹴ると、長屋中に大きな音が響く。が、今はそんなことにかまってはいられない。戸口に下ろした木っ端を中へ引き入れた庄吉は、ガタガタと動きの悪い表戸をぴしゃりと閉じて火鉢を抱いた。

 大きく胡坐をかいた中に火鉢をすっぽり抱え込み、火箸で灰を掻き分けると、南天の実のような埋め火がカッと熱を放っていた。

 痛みを訴えていた爪先に血が流れ出す。ジーンと痺れた足先がこんどは痒みを訴えた。シモヤケだろうか。足裏で火鉢の胴を挟みつけていた庄吉は、ようやく人心地がついて火を焚くことにした。

 本当なら切り火をして火熾ししなければいけないのだろうが、こう寒くては悠長なことをしてはいられない。

 竈の焚口にカンナ屑を置き、その上に薄めの木っ端を重ねておいた。そして、なるべく薄っぺらな板を選ぶと、火鉢にカンナ屑を振り撒いた。

 埋め火の熱で薄青い煙が立ち上った。そこへ静かに息を吹きかけると、ポッ、小さな炎となった。

 やがてメラメラと燃え出した薄板を手で囲い、竈のカンナ屑に火を移す。

 パチパチと音を立てて火がまわると、ようやく安心したように薪をくべた。


 竈にかけた鍋が湯気をたてるようになって、ようやく家の中が暖まってきた。


 ゴロゴロゴロゴロ……


 空の高いところで雷が鳴っている。あの丼ねずの雲が近付いてきたのだろうな。あんな雲が近付くくらいだから、家をゆするような風が吹くかもしれない。こんなことなら大掃除などしなけりゃよかったと横着な考えが頭をもたげる。たとえわずかでも、埃が隙間を埋めていたのではないかと考え、その莫迦ばかしさに苦笑いをもらした。



 せっかくの元旦なのに、江戸の町は鉛色の雲に蓋をされた鍋のようである。この鍋は温めるどころか、地面からも冷気を追加する鍋。雪女である。鉛の雲の下には、手の届きそうなところを汚れた綿雲が勢いよく流れていた。している朝から重苦しい雲に覆われた元旦だった。そこに空っ風が吹き付けるから、せっかくの初参りがだいなしであった。


 庄吉は、年の始めを女房と二人ですごしていた。といって何をするでもない。

 年始にあたり、亭主として初めての飯を炊き、雑煮をこさえただけで、これといってすることもなくおツネと顔を見合わせるだけだ。

 寒くはないかと炭を足し、することがないからと餅を焼く。ただそれだけのことしかできないのだが、それで十分に満足だ。

 朝方の雪がどうなったのか、庄吉にはわからない。降り続いているのか、止んだかすらも。しかし、子供が遊ぶ声がしないところをみると、まだ降っているのだろう。

 少しばかりの雪ならいっそ風情があるというものだが、大きな腹を抱えた女房を、無理して連れ出すことはないのだ。それより、朝寝をきめこむほうがいい。そう思って夜着にくるまる横で、おツネはせっせと縫い物をしていた。正月が過ぎるとまたいつもの日常が始まるのだし、どうせ必要なものだしと、子供のムツキを縫っているのだ。寝そべった庄吉は一心に針をすすめる女房を見上げて、クスクスと忍び笑いを漏らしさえした。

「なんだよ、お前。正月早々ひとを笑いものにして。そんなに可笑しな顔をしているかい?」

「そうじゃないよ。去年の正月はどうしてたかなぁって思い出してたのさ。ひとりぽっちで何してたっけ。どうせ寝そべってたよな。俺はね、おツネ。まさか所帯をもつなんて考えてもいなかった。女房ももたず、子供もなく、そのうちひっそりとあの世へ行くんだろうなって、ぼんやりとな」

 言いながら庄吉は、女房の大きく迫り出した腹を撫でていた。

「いやだよぅ、縁起でもない。父なし子にするつもりかぃ? 気弱なことを言ってたらまた打つから、覚悟しておくれよ」

 おツネは軽く打つまねをして縫い物をやめ、裏の障子をわずかに開ける。細い隙間から見えたものは、真綿のように音もなく降り続ける雪ばかりだった。



 明けて二日はよけいに寒さが厳しくなり、元日に降り積もった雪は融けるどころか、バリバリに凍り付いていた。そこに新たな雪が降ったりやんだりを繰り返し、薄汚い長屋の屋根を見違えるように化粧していた。

 時折ドドドッと湿った音がする。いったい何がおきたのだろうと、庄吉は夜着を抜け出して戸口に立った。ところが、戸が開かないのだ。

 普段使いしていない外の板戸だから仕方ないといえば仕方ないことだが、いくらガタツキが酷いからといっても少し抉てやればつっかえながらでも開くはずだ。しかしそれが今日は簡単にいかない。

 エイッと勢いよく引いてみると、その理由がよくわかった。

 イヤイヤをするように五寸ほど口を開けた板戸の隙間から、眩しい明かりが射しこんだ。そして戸の外に、雪の壁ができていたのだ。

 いったい何事かと外を窺ってみると、あちこちに雪の小山ができている。そして小山の上の屋根だけ、板葺きの屋根が顔をのぞかせていた。とすると、あの重々しい音は積った雪が滑り落ちる音だったのだ。それで初めて知ったのだが、戸口のところだけ少ないものの、路地には一尺五寸ほども雪が積もっていたのだ。

「ひゃあ。冷えるはずだよ、おツネ。見てみな、これほどの雪は珍しいよ」

 昨日はともかく、今日こそは年始の挨拶に行く心積もりをしていたおツネは、庄吉の素っ頓狂な声に耳をうたがった。どうせ大げさに言って驚かそうとしているのだろうと一瞬は思ったが、綿入れの前を掻き合せて裏の障子を開けてみた。なるほど庄吉の言うとおりこんもりとした雪山ができているではないか。

 八幡様に初詣でをする人が多ければ、表通りは案外歩き易く踏み固められているかもしれないが、人通りが少なければ店へ行くだけでも一仕事だろうと思った。身重の身で万一転んだりしたら大変なことになってしまうからだ。


「おツネ、ちょっと様子を見てくるよ。炭を足しておいておくれ」

 庄吉は裾端折りをするとブルブルッと身震いをした。そして、じっと考えた末に股引を脱いでしまった。直に素肌で雪の中に出たら冷たいことはわかっている。だが、それで冷たさを我慢できるのはほんの一時のことでしかない。びちゃびちゃになった股引を穿いていたら一発で風邪をひいてしまうだろう。それくらいなら潔く素肌のほうがが、後がらくだと考えたのだが、いざとなると気がきまらない。

 足を出しかけては引っ込めを繰り返した末に、眼をつむって踏み出した。

「あっ、くぅーー」

 軒下の壁際でさえ、脛の中ほどより深く積っている。そして、所々に大きな穴が開いていた。

 ググッ、ググッと片栗粉を搗くような音をさせながら足を進めると、跳ね上げた雪が剥き出しになった尻にピシャッとへばりつく。庄吉は堪らずに跳ねるようにして表通りまで出てみた。すると、キラキラ輝く通りの中に細い筋が延びていた。

 きっと誰もが他人の歩いた跡をたどっているのだろう。その筋だけは踏み固められていた。


「表の通りに出ればなんとかなるだろうけど、路地を抜けるまでが大事だよ」

 長屋へ戻った庄吉は、濡れた足をごしごし拭うなり火鉢を抱え込んだ。それでもなお冷たい冷たいを連発している。

「路地さえ抜ければいいんだね。それくらいなら我慢するよ」

「莫迦を言うじゃないよ。冷やしちゃいけないって産婆が言ってたじゃないか。だからって、そんな腹をしてんだから背負うこともできないんだよ。こういう日にはじっとしてろって、お天道さんが言ってるんだよ」

 庄吉は慌てた。おとなしい顔をしているくせに強情っぱりなのがおツネなのだ。こうと決めたら簡単に引き下がるようなことはしないし、道理に反しているとみたら最後、梃子でも動かない頑固な一面をもっている。

「大丈夫だよ、ちょっとそこじゃないか。日ごろお世話になりっぱなしだろ、年に一度くらい挨拶に行かなきゃ、人の道に外れるってもんだよ」

「おい、待てよ。この雪だよ、冷やしちゃいけないっていうし、もし……、そうだよ、もし滑って転びでもしたら取り返しがつかなくなるよ」

 やっぱり言い出した。どう宥めてやろうかと考えるより早く、行くと言い出した。どこへって、大瓢箪に決まっている。


 行くの行かないのと押し問答をしたところで、どうせ押し切られることは庄吉にはわかっている。だからといって冷やさない工夫など思いつかないのだった。

 火鉢を抱えこんで暖をとっていた庄には、ふとももから伝わる温みで気付いたことがあった。

「なあ、どうしても行くつもりなんだろう?」

「ああ、そのつもりだよ」

 そう返したおツネは、笄を抜いて髪をすき始めた。

「だったら、俺の言うことを聞け。できないって言うのなら、雪が融けるまで出ちゃいけないよ」

 丹念に櫛を使うのを一瞥しただけで、そっぽを向いていた。

「な、なにさ。どうしたんだい、急に威気高になって」

「いいから。俺の言いつけが聞けないのなら、金輪際外へは出さないからね」

 高圧的な物言いに、おツネの手が止まった。常にない庄吉の頑な態度に、振り返って様子を窺っている。それを目の端にとらえながらも、庄吉は譲る気など更々ないことを態度で示すのだった。

「だから何さ、その言いつけってのは。聞けるかどうか、言ってくれなきゃわからないじゃないか」

「じゃあ言うよ。お前、股引を穿いていくんだ。それが厭だと言うのなら、外へ出ちゃいけない」

「厭だよぅ、よしとくれよ。女の私が股引なんぞ、そんなうすらみっともないことができるもんかね。ごめんだよ」

 正月早々、悪い冗談を言うなとばかり、手の平で庄吉を打つまねをしたおツネは、三つに分けた髪を持ち上げて、器用に髷を結ってゆく。後ろ髪の頃合いを計って笄で留めた。そして左右の鬢をふっくらさせながら撫でつけてゆく。髪が結えて一人前の女といわれるくらいだから、子供の頃から稽古をつんだのだろう。髪結いの腕とくらべれば月とスッポンだが、油気をふくませただけあって、艶やかな印象に早変わりする。

「そうかい。普段指図しないおいらの言いつけなんて聞けないと言うのだね。なら、雪が融けるまで外へ出ちゃいけない。いいね!」

 庄吉が声を荒げることなど滅多にあることではない。現におツネもこれほどの言葉を始めてあびせられたのだ。

「な、どうしたのさ。外へ出るなって言ったって、ハバカリにも行かなきゃいけないじゃないか」

「だめだ、だめだ。ハバカリだって許さないよ。どこか、その隅っこで用を足すんだ」

「ちょっと、いやだよぅ。どうしたのさ、今日にかぎって」

「どうしたじゃないよ。お前は身重なんだよ、冷やしちゃいけないんじゃないのか?」

「だからぁ、そんなのちょっとの事じゃないか。心配性なんだから」

「たかぁ括ってりゃいいさ。本気だからね」

 ポツッと吐き捨てるなり、庄吉は行火に炭を足すべく土間へ降りた。



「ねぇ、もうダメだよぅ、我慢できないよぅ。お願いだからさぁ、行かせておくれよ。ねぇ、お前ぇ……。もう我慢しきれないよぅ」

 これが三度目の訴えだった。上がり框で横になって、庄吉はハバカリへ行くことすら許さないのだ。最初と二度目は不満そうに引き下がったおツネだが、最初からは随分時が経っていて我慢しきれなくなったようだ。出るものは仕方ない。すっきり出せば良い。しかし、ハバカリへ行くにも深い雪の中を伝っていかなければならないのだ。それに、いつ屋根から雪崩れてくるかもしれないのだ。ただの雪ならまだしも、漬物石のようなものが降ってきたら。庄吉が頑として譲らないには立派な理由があったからだ。

 それに、おツネが便意をもよおしてからでも、何度か雪崩れる音が響いていたのだ。


 おツネが急に立ち上がり、足ぶみを始めた。ぎゅっと眼をつむって前と後ろを押えている。

「あっ……」

 切羽詰った悲鳴を残し、おツネは土間の隅にしゃがみこんだ。


「あぁぁぁぁぁ……、酷い人だよぅ……」

 すすり泣くような声とともに、ほわっと湯気が舞い上がった。足元にできた水溜りがどんどん広がっているというのに、溜まりきったものはまだ出続けていた。

 結局、すべてを出しきったおツネは、庄吉が本気でいることを思い知ったのだった。


「後始末はしておくから、温かくして寝ていることだね」

 火鉢の灰を両手で掬い、気の毒そうに庄吉は言った。そして、排泄物の上に灰を振り撒いた。


 ついに折れたおツネだったが、いざ外へ出てみると、膝の上まで埋まる雪に閉口していた。しかし、恥ずかしいの、みっともないのを繰り返している。

 が、路地から通りに出る頃には、すでに指先に痛みを感じていた。その通りにしたところが、踏み固められたとはいっても雪には違いないのだ。草履も股引もズクズクになって冷え切ってしまった。


 ようやくたどり着いた大瓢箪で、雪を圧してよく来たと褒められるつもりが、全員から大目玉を喰らったのだった。

 当てが外れて項垂れたおツネは、それでも嬉しいことを今日は見聞きしたのだ。引っ込み思案な庄吉だが、意外な頑固さがあることを目の当たりにして、少し嬉しかった。


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