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第19話 四匹目の祠

 祠の虫籠では、一匹だけが三匹分の声で鳴いていた。


 りん。


 ころろ。


 じじ。


 一つの小さな体から、違う虫の声が重なって出る。


 真白は祠の戸口で足を止めた。


「残った一匹ではないんですね」


「残った一つじゃ」


 爺は土間へ座り、握り飯の笹を畳んでいる。


 いつもの粗末な着物。


 曲がった背。


 けれど、灯明が作る影には三つの頭があった。


 猿。


 蛇。


 狸。


 どれも爺と違う方を向き、虫籠の音へ耳を澄ませている。


 瑠璃の黒い息が、祠の中へ流れ込む。


 三つの影が同時に振り向いた。


「やはり、姫を連れてきたか」


「あなたが来いと言ったのでしょう」


「選んだのは、おぬしたちじゃ」


 爺は笑う。


 義景と同じことを、まるで違う声で言った。


「道を狭めておいて、選ばせたと言う人ばかりね」


 瑠璃が睨む。


「長く生きると、そういう知恵だけ増える」


「どれくらい生きているんです」


 真白は爺の口元を見る。


 息がない。


 初めて会った時から、一度も色が見えなかった。


 人なら、呼吸のたびに透明な揺らぎがある。


 この老人には、それさえない。


「人がわしを何と呼んだか、数えきれんほど」


 爺は虫籠へ指を入れる。


 一匹の鈴虫が、逃げずにその爪へ乗った。


「山彦。夜這い。雷獣。人の顔を借りる化け物」


 三つの影が膨らむ。


 祠の柱が軋んだ。


「いちばん長く残った名は、鵺じゃ」


 真白の手が刀のない腰へ動いた。


 義景へ返したばかりだった。


「あなたが」


「そうじゃ」


 爺の目が、獣のように縦へ細くなる。


「おぬしが三度も起こしてくれた、眠たい鵺じゃ」


 瑠璃が真白の前へ腕を出す。


「近づかないで」


「姫の方が庇うか。面白い」


「真白を食べるつもりなら、先に私を」


「食わん。そやつは、もう一度食われておる」


 真白の胸が冷えた。


「どういう意味です」


 爺は虫籠の脇から、古い木箱を引き寄せた。


 蓋には白い笹の紋。


 玄斎が見せた記録より古い。


 中には、ひび割れた小さな鈴と、赤黒く染まった産着があった。


「おぬしは、息をせずに生まれた」


 言葉が耳へ入っても、意味にならなかった。


「死産だった、ということですか」


「そう定められておった。産婆は諦め、父は顔も見ずに出ていった。だが母だけが、おぬしの口から出る白い息を見た」


「母も、三息が」


「白笹の鈴守は、死へ向かう息が見える。三呼吸という形ではなかったがな」


 爺は割れた鈴を振る。


 音は出ない。


「母は古い鈴を鳴らした。死んだ子の運命を、この中へ移した」


「それで、僕が生きた」


「救われてしまった」


 爺は真白を見上げる。


「お前は最初から、救われてしまった子じゃ」


 その言い方は、祝福にも呪いにも聞こえた。


「代わりに、母が死んだんですか」


「すぐにはな」


 爺の指が、古い鈴の亀裂をなぞる。


「移した死は消えぬ。鈴の中で育ち、鈴守へ戻る。母は七年かけて、おぬしの死を自分の息へ移した」


 七歳の夜。


 母の口から出た白い息。


 真白は走った。


 手を伸ばした。


 けれど、三息の先で母は倒れた。


 あれは母の死ではなかった。


 本来自分へ来るはずだった死が、七年遅れて届いたのだ。


「僕が、母を殺した」


 声が、自分のものに聞こえなかった。


「違う」


 瑠璃がすぐに言う。


「僕が生きたから、母は」


「あなたのお母様が、あなたを生かすと選んだ」


「選んだから、何をしてもいいわけではないでしょう」


「そうね」


 瑠璃は否定しなかった。


「選んだ人の責任を、選ばれた子へ押しつけてはいけない」


 真白の手を取る。


「あなたは、生きたことで罪を犯したのではないわ」


「でも」


「生きているだけで罪なら、私も同じ罪を選ぶ」


 黒い息を吐きながら、瑠璃は真白の指を強く握る。


「一人で罰を受けた顔をしないで」


 爺が喉の奥で笑う。


「似た者同士じゃな」


「黙っていて」


「怖い姫じゃ」


 真白は産着へ手を伸ばす。


 端に、不器用な刺繍がある。


 ましろ。


 母の字だった。


 生まれる前から、名をつけられていた。


 生きると思われていた。


 罪の証ではなく、待たれていた証だった。


 生きることを望まれるより先に、自分は生まれることを望まれていた。


 それで十分だった。


「三息は、なぜ僕に」


「死から戻った時、運命の綻びが目へ残った。自分を襲った死を、他人の息に見るようになった」


「では、僕の力も鵺のものですか」


「半分は白笹。半分は、わしの腹を通った死じゃ」


 爺の三つの影が笑う。


「気に入らんか」


「僕の力が何から生まれたかより、何に使うかを決めます」


 玄斎なら、そう言えと木刀を投げるだろう。


 爺は目を細めた。


「育てた甲斐があったのう、鬼庭」


「先生を知っていたんですか」


「おぬしを抱いて逃げた男を、忘れるものか」


 玄斎は何も知らずに真白を拾ったのではない。


 母の禁忌も、古い鈴も知ったうえで、山へ連れていった。


 最期に言い切れなかった言葉。


 ――お前の母は、お前を。


「先生は、母が僕を殺したと言いたかったのではない」


「生かした、と言いたかったのよ」


 瑠璃の声に、真白はうなずいた。


 涙は出なかった。


 悲しみが消えたのではない。


 形が変わった。


 背負う石ではなく、歩く背を押す手になった。


 祠の外で、枯れ枝が折れた。


 真白と瑠璃が同時に振り向く。


「うちや」


 小夜が戸口から入ってくる。


 一人だった。


「千代さんは」


「尼寺で寝とる。傷が開くから来るなって縛ってきた」


「縛ったんですか」


「言うこと聞かん姉ちゃんやから」


 以前の真白なら笑った。


 今は、すぐに少女へ近づけない。


 小夜も分かっている。


 少し離れた場所で膝をつき、包みを差し出した。


「甚助さんから。義景の屋敷で拾ったって」


 中には、古びた契約札が一枚あった。


 虫籠の底にも、同じ形の札が見える。


 墨は薄れ、内容までは読めない。


 ただ、隅に烏羽の印がある。


「御使の紙や」


 小夜が言う。


「命令を受ける時、いつも同じ匂いがした。血と沈香」


 札からは、今も微かにその匂いがした。


 瑠璃が爺を見る。


「義景と何を約束したの」


「古い約束じゃ」


「御使と呼んでいたわね」


「あれは、そう呼ばれる前から御使じゃった」


「答えになっていない」


「答えは、最後の鈴が鳴れば分かる」


 爺は虫籠を撫でる。


 一匹が三匹分の声で鳴く。


「今の鈴には、三つの救われた死が入っておる。足軽。命を一つにした双子。そして、妹を待った娘」


「結と解は双子ではありません」


「命を結べば、鵺には同じじゃ」


 爺の目が瑠璃へ向く。


「あと一つ。黒い息の命を救えば、鈴は砕ける。四面がそろい、わしはこの窮屈な姿を脱ぐ」


 瑠璃の顔から血の気が引く。


「私なのね」


「おぬし以外に、黒い死を連れて歩く者がおるか」


「私が死ねば、封印は守られる」


「そうじゃ」


「爺!」


 真白が声を上げる。


「事実じゃ。姫が死ねば、四匹目は鳴き続ける。鵺は三面のまま、また眠れる」


 瑠璃は黒い息を見るように、自分の掌を見つめる。


「壇ノ浦の夢は、私が封印を守るための死だったのかもしれない」


「違います」


「真白」


「夢が何のためでも、瑠璃さんの命は道具ではありません」


「私一人で、鵺を止められる」


「兄と同じことを言わないでください」


 瑠璃が息を呑む。


「誰か一人を数にして、ほかを守る。僕たちは、それを拒んでここまで来た」


「では、鵺が起きて大勢死んだら?」


「止めます」


「止められなかったら?」


「その責任も負います」


「責任では、死んだ人は戻らない」


「はい」


 真白は答えを濁さなかった。


「だから、簡単に生きてくださいとは言えません。瑠璃さんが決めてください」


 瑠璃の目に涙が溜まる。


 それでも、落ちない。


「怖いわ」


「僕もです」


「あなたに斬られることも。私を救ったせいで、あなたが誰かに責められることも」


「はい」


「それでも」


 瑠璃は真白の両手を取った。


「私も救われたい。怪物が起きても、その後を一緒に止めたい」


「必ず」


「必ず、とは言わないで」


「では、できるまで」


「それならいいわ」


 瑠璃が笑う。


 黒い息は消えない。


 けれど初めて、その奥に朝の光が見えた。


 小夜が鼻を啜る。


「うちも行く」


「千代さんのそばにいてください」


「姉ちゃんに言われた。裏切った先で、逃げずに返してこいって」


「まだ、許せません」


「分かっとる」


「信じられるとも言えません」


「道だけは間違えへん」


 小夜は立ち上がる。


「八咫烏の松明は、煙の匂いで分かる」


 言い終わる前に、祠の外が明るくなった。


 夜明けではない。


 木々の間へ、数え切れない火が灯っている。


 小夜が戸を細く開ける。


「囲まれた」


 松明を持つ兵が、祠を輪のように包んでいる。


 その向こうに馬が一頭。


 義景は、返された刀を腰へ差していた。


 黒い扇を開く。


 焼けた村へ迎えに来た夜と同じ、優しい兄の声が森を渡る。


「迎えに来たぞ、弟よ」


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