最終話 全てを手に入れることはできない
五年間続いた恋を終えた真由は、ようやく自分のこれからへ目を向け始めます。
けれど、その隣にいた大久保君のことを、真由はまだ何も知らなかったのかもしれません。
「今日決めた内容をこちらで示談書にまとめるから、できたら確認してもらっていい?」
俯いたままの私に、大久保君が声をかけた。
「うん。お願い」
返事をしてから、ゆっくり息を吐いた。あらためて、終わったんだと思う。もう、藤崎さんは目の前にいない。
「梶原さん? 無理してる?」
「ううん。全然。ずっとよくしてくれてありがとう。おかげで、いろんなことに気づけた気がする」
さっきまでここにいた藤崎さんは、もう本当にいない。それだけのことなのに、五年間が急に遠くなったように感じた。
これから引越しの準備をして、失業保険を受けながら職業訓練校へ通う。先のことを考えれば、不安がないわけではない。それでも今は、不思議なくらい、これからのことを考えている時間の方が多い。
佐伯主任と給湯室で会ったとき、退職しようと考えていることを伝えた。彼女は残念そうな顔をしながら、
「若者の門出を邪魔しようとする奴がいたら私に言いな」
そう言ってくれた。
ひとりきりになっていたと思っていたけれど、ちゃんと味方はいた。
仕事を任せられないと思っていた後輩も、最近では私より効率よく仕事を進められるようになっていた。
そのことが、なんだか嬉しかった。
「ちょっと吹っ切れたとか?」
大久保君はレシートを手に立ち上がった。会計をするため、入口脇のレジへ歩き出す。
「うん。なんかね、『私たちは、すべてを手に入れることなんてできない』って」
私も席を立ち、その後を追った。
「なんの話?」
「ヘミングウェイ。大久保君にお願いして買ってきてもらったやつ」
「ああ、『白い象のような山並み』ね」
大久保君が会計を済ませるのを待って、私は鞄を肩に掛けた。
「でも、藤崎さんが身につけたのは、ヘミングウェイの人生観じゃなくて、ポーズだけだったんじゃないかなって思ったら、急に冷めちゃった」
大久保君は「ひどいことを言うな」と言って笑った。
店を出て駅まで歩きながら、私たちは子ども食堂の話をした。再就職が決まったら、今度はちゃんと白川さんに笑って報告しようと思う。
今度は、誰かに決めてもらうのではなく、自分で決めたことを、自分の言葉で話せるようになりたかった。
「梶原さんって」
大久保君が、不意に言った。
「僕は、ずっと梶原さんがこの先どうなるのか、見てみたかったんだ」
「え?」
私は足を止めた。
今まで、私はこの人のことをよく知っているつもりでいた。困ったときには助けてくれて、何も分からない私に必要なことを教えてくれる人だと思っていた。
けれど、その言葉を聞いた途端、目の前にいる大久保君が、今まで知っていた人とは別の人間のように見えた。
何を考えているのか、分からなくなった。
「純朴な君が、どこまで堕ちていくのか見たかったんだ」
大久保君はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その言葉を聞いてしまうと、これまでのことまで違って見えた。
困っている私を助けてくれたことも、必要なことを教えてくれたことも、私の話を聞いてくれたことも。
あのとき、偶然再会したことも。
優しさにしては、親切すぎた。
タイミングも、よすぎたのでは——。
隣を歩く大久保君が、急に知らない人のように見えた。
「そういう顔が見たかったんだ」
大久保君はそう言って、私の頬をゆっくり撫でた。
私は身を引くこともできず、ただその顔を見つめていた。
「示談書ができたら連絡するから。次はどんな顔をするのか、楽しみにしているよ。でも、もうそんな顔は見られないんだろうな」
大久保君は不満そうに言って、駅の改札口へ入っていった。
私は、その背中を見送った。
何か言わなければならない気がしたけれど、最後まで言葉は出てこなかった。
完
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これで『錯認の果て』は完結となります。
真由は五年間、藤崎さんに決めてもらうことを心地よいと感じ、自分で選ぶことを少しずつ手放していました。
けれど、恋を終わらせる最後の場面では、自分自身の言葉で藤崎さんに別れを告げました。
すべてを失ったように見えたところから、仕事や人とのつながり、これからの生活を少しずつ自分の手へ取り戻していく。その一方で、最後に大久保君から告げられた言葉によって、これまで見ていたものまで違って見えてしまう。
真由が大久保君のことをどう受け止めたのか、その先に何があるのかは、あえて書かずに物語を閉じました。
最後まで真由の物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




