道を譲る
いつの間にか変わっていた「当たり前」に、気づいたことはありますか?
朝のミーティングが始まって十五分ほどしたころ、殺風景な事務所に、廊下から場違いなほど陽気な電子音が流れ込んできた。ちり紙交換の軽トラックが流す音楽を、さらに電子的に、さらに能天気にしたような旋律に、合成音声の「清掃中です、清掃中です」が間の抜けた調子で重なっている。
ホワイトボードの前では、担当者が今月の業務実績について説明を続けていた。何人かが手元の資料に目を落とし、時折、数字を確認するようにページをめくる。僕は資料に視線を落としたまま、隣の席の同僚に小声で尋ねた。
「あの曲、どっかで聴いたことあるんだけど、何だっけ?」
同僚はガラス窓の向こうに目をやった。廊下では、清掃ロボットの後ろを清掃員がついて歩いていた。
「確かに。スーパーの売り出しみたいな曲だな」
彼も声を潜めて答えた。
「いちいち人がついてまわるって、自動清掃ロボットの意味ある?」
「事故があってからじゃ遅いだろ。人にぶつかってもクレームになるし、ロボットが壊れたって困る。ああするしかないんじゃないか」
同僚はそう言って、説明を続ける担当者へ視線を戻した。僕も資料に目を戻したが、廊下から流れてくる能天気な旋律は、話の内容が頭に入ってこなくなるほど耳についた。
確かに、事故が起きてから機械には人を避ける機能があると説明したところで、納得してもらえるとは限らない。施設課としては、できる限りの対策を講じておく必要があるのだろう。
清掃ロボットの後ろを職員が黙って歩く姿は、まるでロボットを散歩させているようで滑稽に感じられた。
営業先から戻り、自席に戻る途中、僕はスマートフォンで社内メールに返信していた。廊下の角を曲がったところで、ピーピーと警告音が鳴った。顔を上げると、目の前に清掃ロボットがいた。
ロボットは進路を変え、僕を避けて通り過ぎた。その後ろを歩いていた職員が、すれ違いざまに「お疲れ様です」と声をかけてきた。
僕も挨拶を返し、通り過ぎていくロボットを見送った。ほら、ちゃんと避けられるじゃないか。職員なんて、ついていなくてもいいのに。
付き合っている彼女の勤める病院でも、再整備の工事が終わってエスカレーターが設置されたあと、事故防止のために職員が交代で立つことになったと、彼女が馬鹿馬鹿しいと愚痴っていた。人の負担を軽減するための機械なのに、結局は人手が必要になる。
しかしながら、人間は順応していくもので、耳障りだったあの陽気な音楽と合成音声も、いつしか職場の雑音のひとつになっていった。
そんなある日、社内メールを確認していると、施設管理から《清掃ロボットの新機種導入と運用方式の変更に関するお知らせ》という通知が届いていた。人の動きを予測して経路を調整する機能が強化されたため、常時付き添う運用を廃止するという。僕は一通り目を通したが、自分の仕事には関係のない話だったので、それ以上気に留めなかった。
新型機は、以前のような音楽を鳴らさなかったし、職員の付き添いもなくなった。静かになったのは歓迎すべきことだった。すれ違う瞬間、耳の奥に何かが触れたような音がするのが気になったが、振り返っても、ロボットは何事もなかったように床を磨いていた。僕はモーター音のせいだろうと思い、そのまま歩き出した。
本来あるべき姿になったのだ。付き添っていた職員は、別の仕事に回されたのだろう。あの音楽に仕事の集中を妨げられることもなくなった。
機械に任せられる仕事は、機械に任せればいい。僕の部署でも、夜間のデータ収集にはRPAを使っている。人間が手を動かさずに済むなら、それに越したことはない。
朝のミーティングが終わり、僕はトイレに行こうと事務所の出口に向かった。ドアノブに手をかけたところで、背後から声がした。
「やめなよ」
振り返ると、同僚が眉をわずかに寄せ、困ったように僕を見ていた。
ドアの小窓から、廊下を進む清掃ロボットの姿が見えた。音楽も合成音声もなく、機体は床を滑るように進んでいた。
同僚は、僕がドアを開けようとしていることが理解できない、とでもいうような顔をしていた。
「トイレに行くだけだよ」
そう説明しても、同僚はすぐには答えず、廊下のほうへ視線を向けてから、もう一度、僕の顔を見た。
「掃除中だよ?」
「いいじゃないか。ロボットは人を避けるようにできているんだし」
僕がそう言うと、同僚は小さく息を吐き、呆れたように首を振った。
「はあ……そういう非常識な人って、本当にいるんだな」
「どういう意味だよ」
「清掃ロボットがいるのに、わざわざ邪魔をするのか? 普通、しないだろ」
「え? ロボが避けるだろ?」
同僚は口を閉じ、眉間に皺を寄せ、ほんの少し首を傾けた。
そのときにはもう、清掃ロボットは部署の前を通り過ぎていた。僕はドアノブから手を離し、まあ、我慢できないほどでもないし、トイレは後でいいかと、自分の席に戻った。
清掃ロボットが人を避けるのは当たり前のことではないのか。なぜ、非常識だとまで言われるのだろう。
自分の考えがおかしいのだろうか。そう疑い始めてから、ほかの職員たちの振る舞いが気にかかるようになった。
廊下をロボットが進んでくると、向こうから歩いてきた職員は脇に寄り、ロボットが通り過ぎるのを待っていた。別の職員は、清掃中の廊下に出ようとドアを開けかけたものの、ロボットの姿を見ると、すぐにドアを閉めた。
僕も、廊下の向こうにロボットの姿を見つけると、足を止めるようになった。通り過ぎるのを待ち、進路が空いてから歩き出す。そうしていれば余計な摩擦を生まずに済んだ。
ロボットに道を譲ることに納得したわけではない。ただ、わざわざ立ち止まってまで、自分の考えを通す理由もなかった。
そう考えていた。少なくとも、そのときは。
あたりを見回した。誰もが、何事もないようにロボットに道を譲っていた。
ただ、いつからそうなったのか、それだけは気になっていた。ある日の飲み会で、僕は隣に座った同僚に何気なく尋ねてみた。
「なあ、清掃ロボットに道を譲るようになったのって、いつからだっけ?」
同僚は、そんなことを気にしているほうがおかしいとでもいうように、豪快に笑った。
「最初からそうじゃないか」
「最初から?」
「そう。そういうものだろ?」
あまりにもあっさりと言い切られ、これ以上、言葉を継げなかった。酔いが一気に覚めていくのを感じた。
そういえば、清掃ロボットの新機種導入を知らせるメールを読んだ覚えがある。あれはいつだっただろう。帰りの電車でスマホを取り出し、社内メールを検索してみた。件名まで覚えているのに、いくら探しても見つからなかった。
どうにも腑に落ちなかった。
なぜ、人が清掃ロボットを優先させるんだ。
その疑問を抱えたまま過ごしていたある日、廊下の角を曲がったところで、ロボットと鉢合わせた。
障害物を避けるはずだ。立ち止まっていれば、ロボットは速度を落とすか、別の経路を選ぶだろう。
それなのに、ロボットを前にした途端、居心地の悪さが込み上げてくる。
胸の奥が、じっとりと湿った布で覆われたように重い。何か悪いことをしている。そうとしか思えなかった。けれど、何が悪いのかは分からない。誰かに咎められたわけでも、規則を破ったわけでもない。それなのに、そこに立っていること自体が、ひどく恥ずかしかった。
僕は足元に目を落とした。早くここから立ち去らなければならない。
——道を譲らなければ。
道を譲らずにいることが、ひどく後ろめたく感じられた。
あの曲。あんなに鬱陶しかったのに、どんな曲だったか、もう浮かんでこない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
何気ない日常の中で、いつの間にか変わってしまう「当たり前」。そんな変化をテーマにした短編です。
清掃ロボットは、音楽を鳴らさなくなった代わりに、何を発しているのでしょうね。
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