第五十一話 決断
五年間の恋を終わらせるために、真由は自分の言葉で藤崎さんに別れを告げます。
誰かに決めてもらうのではなく、自分自身で選ぶ最後の時間でした。
私は、ここに来た務めを果たさなくてはならない。
大久保君には、私が同席しなくてもいいと言われていた。示談の話なら、自分がする。藤崎さんと顔を合わせる必要もない。
それでも、私はここに来た。
この恋を終わらせることだけは、誰かに任せたくなかった。
自分で決めたことだった。
「私、藤崎さんが決めてくれるの、好きだったんです」
「昔から決めるのが苦手だったから。どっちにするか迷っていると、藤崎さんが『俺が決めるよ』って言ってくれたでしょう。あれ、すごく心地よかったんです。自分で決めなくていいんだって、藤崎さんに任せて大丈夫なんだって思えたから」
喉の奥が痛かった。
この言葉が、口からちゃんと出ているのかわからなくなるほどだった。
それでも、最後だから、藤崎さんには自分の気持ちを伝えたかった。
「だから、ずっと勘違いしてました。藤崎さんは決断力のある人なんだって。迷っている私の代わりに決めてくれる、頼りになる人なんだって」
「……」
「妊娠した時、戸惑ったんですけど、やっぱり産みたいって思ったの。でも、藤崎さんは一度も子どものことに触れなかった。その時、あなたにとって私って都合のいい存在なんだなと思ったんです」
藤崎さんは何も言わなかった。
その沈黙を前にしても、私はもう、藤崎さんの言葉を待とうとは思わなかった。
「今月末で退職します。今までありがとうございました」
頭を上げることができなかった。膝に置いた手に、一滴の雫が落ちた。
この会社に入ったばかりの頃、仕事のことで何も分からなくなってしまった私に、藤崎さんは何度も声をかけてくれた。私が迷っていると、いつも先に答えを出してくれた。
どちらを選べばいいのか分からないときには、私の代わりに決めてくれた。
それが頼もしかった。
だから私は、藤崎さんについていけば大丈夫なのだと思っていた。
けれど、五年間の終わりに立ってみると、私が藤崎さんに預けていたものの中には、自分で決めなければならなかったものまで含まれていた。
この恋の終わりは、私が見ようとしなかったものが、澱のように溜まった結果だったのかもしれない。藤崎さんだけが悪かったわけではない。私も、何も決めずにいることを選んでいた。
その後、示談金についても交渉した。高すぎれば奥さんに不自然に思われるし、安すぎれば私が失ったものに見合わない。大久保君はそう言って、藤崎さんが家庭に知られずに支払える金額と、私がこれまでに失ったものを考えながら、双方が受け入れられる金額を探っていった。
交渉は思いのほか早く終わり、藤崎さんが先に席を立った。
店を出る前に、一度だけ目が合った。
それだけなのに、もう二度とこの人とこうして向き合うことはないのだと思うと、視線を外すことができなかった。
藤崎さんが喫茶店を出ていくと、入口のベルが鳴った。周囲の話し声や食器の音に紛れるような小さな音だった。それでも私は、その音を聞きながら、俯いたまま膝の上に置いた手の甲を眺めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が藤崎さんとの五年間を、自分自身の言葉で終わらせる場面を書きました。
これまで真由は、迷ったときに藤崎さんが決めてくれることを「頼もしさ」だと思っていました。でも振り返ってみれば、その中には、自分で決めることから逃げていた部分もあったのだと思います。
藤崎さんだけが悪かったわけではない。だからといって、真由が悪いということでもない。その二つを簡単に分けられないまま、真由はようやく自分の人生を自分で選び始めます。
五年間続いた恋は、静かに終わりました。
ここまで真由の物語に付き合ってくださって、本当にありがとうございました。




