第五十話 守るもの
話し合いは、少しずつ条件という形に変わっていきました。
その言葉を聞くほどに、真由には藤崎さんが守ろうとしているものが見えてきます。
「納得できないのであれば、無理に示談に応じていただく必要はありません」
大久保君は書類から顔を上げた。
「裁判で決着することもできます」
藤崎さんの表情がわずかに固まった。
「ちょっと、それは……」
「その場合は、今回こちらから提示している条件で終わるとは限りません。梶原さんが受けた損害について、裁判所に判断を求めることになります」
大久保君が藤崎さんを見る。その視線の先を追うように、私も顔を上げた。
「もちろん、藤崎さんには争う権利があります。こちらも、裁判になれば主張と証拠を出します。ただ、裁判になれば解決までに時間がかかります。その間、職場やご家庭への影響についても、あらかじめ考えておいていただいた方がいいでしょう」
藤崎さんの指が止まった。
それまで書類の端をなぞっていた指先が、紙の上で動かなくなる。
「……家庭に、ですか」
声が、それまでよりわずかに低くなった。
「裁判になれば、当然、事実関係を確認する必要があります。こちらも必要な証拠を提出しますし、藤崎さんにも説明していただくことになります」
藤崎さんは何か言おうとして口を開きかけたが、すぐには言葉にならなかった。
やがて視線を落とし、書類に記された金額をもう一度見た。
「……妻に知られる可能性がある、ということですか」
藤崎さんはしばらく黙っていたが、やがて何かを噛み締めるように言った。
「わかりました。妻を巻き込みたくはありません」
そう言って、藤崎さんは書類へ目を落とした。組んでいた指がほどけ、膝の上へ落ちた。
「示談の条件としては、いくつかご提示しています」
大久保君は契約書へ目を落とした。
「まず、本件解決後は、藤崎さんから梶原さんへの連絡、面会、SNSを含む一切の接触を禁止します。職場においても、業務上必要な場合を除き、私的な接触はしないことを条件としています」
藤崎さんは黙って書類を見つめている。
「次に、梶原さんは、本件についてこれ以上の法的請求を行わず、会社や第三者へ本件を公表しないことを約束します」
そこで一度言葉を切った。
「ただし、一点だけご理解いただきたいことがあります」
大久保君は静かに藤崎さんを見た。
「『奥様が梶原さんを訴えない』という条項を、この示談書に入れることはできません。奥様はこの示談の当事者ではありませんから、藤崎さんが約束したとしても、奥様の権利まで拘束することはできないからです」
店内には、店員が注文を確認する声や、隣の席から漏れてくる話し声が途切れ途切れに聞こえていた。ふと窓の外へ目を向けると、さっきまで残っていた明るさが消え、空はもう暮れかけていた。
「そのため、本示談では、藤崎さんご自身が、本件により梶原さんが奥様から法的請求を受ける事態を招かないよう最大限配慮することを約束していただきます」
「……勿論です。私もこれ以上大ごとにしてほしくありません」
藤崎さんの声は小さく、隣の席から聞こえてくる話し声や、カップをソーサーへ戻す乾いた音に紛れていった。声が途切れると、私はしばらく何も言えなかった。藤崎さんが守ろうとしているものが、目の前ではっきりと見えてしまった気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、示談の具体的な条件について、大久保君が藤崎さんへ説明する場面を書きました。
連絡や面会を禁止すること、職場での私的な接触を避けること。そして、真由がこれ以上法的請求をしないこと。
ひとつずつ条件が並べられていく中で、真由は、藤崎さんが何を守ろうとしているのかを改めて目の前に突きつけられます。
五年間、自分との関係を未来へ続くものだと思っていた真由にとって、その現実は簡単に受け入れられるものではありません。
それでも、ここで真由自身が選ばなければならないことが残っています。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




