第四十九話 終わりの始まり
恋人だった人と、今度は弁護士を挟んで向かい合う。
真由にとって、五年間の関係を「示談」という言葉で整理する時間が始まります。
社内では、藤崎さんと二人きりになることだけは避けたかった。コピーも給湯室も人の多い時間を選び、用事がなければ席を立たず、一人になる場所をつくらないようにして過ごした。何度か藤崎さんがこちらへ歩いてくるのが見えるたび、私は用事を思い出したふりをして人の輪へ紛れることでやり過ごした。
職場に復帰して、一週間が過ぎた。
大久保君と待ち合わせた喫茶店には、すでに藤崎さんが来ていた。
午後六時を過ぎた店内は仕事帰りの客で埋まり、コーヒーの香りと食器の触れ合う音が、いつもと変わらない夕方をつくっている。こんな時間に喫茶店へ来て、恋人だった人と弁護士を挟んで向かい合うことになるなんて、少し前の私なら考えもしなかった。
大久保君から藤崎さんへは、すでに内容証明郵便が送られていた。今日は、その返答を聞くためにここへ来ている。
大久保君は書類の控えをテーブルへ置き、開いた。
「先日お送りした内容について、いくつか確認させてください」
そう言ってから、大久保君は一度だけ私を見た。それから何事もなかったように書面へ目を戻した。
「まず、藤崎さんが既婚者である事実を告げないまま、約五年間にわたり梶原真由さんと交際を継続していたこと」
藤崎さんは何も言わず、書面に目を向けていた。隣の席から運ばれてきたコーヒーの香りが漂い、食器を片付ける音や、仕事の話をする客の声が途切れ途切れに聞こえていた。
「次に、交際期間中、梶原さんは藤崎さんの子を妊娠していたこと」
「また、梶原さんは階段から転落して負傷し、その後、流産しています。流産と転落事故との医学的な
直接因果関係について当方は主張するものではありません。しかし、梶原さんが一連の出来事によって重大な精神的苦痛を受けたことは、診断書からも明らかです」
私はテーブルの上に置いた自分の手を見つめていた。向かいの藤崎さんの表情を確かめることができないまま、大久保君の声だけを聞いていた。
「以上を踏まえ、裁判による解決ではなく、示談による解決を提案する旨を通知いたしました」
「……待ってください」
藤崎さんは書類を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「真由を傷つけたことについては、本当に申し訳ないと思っています。それは謝ります」
藤崎さんは視線を落とし、テーブルの上で組んでいた手に力を込めた。
「でも、慰謝料を払わなければならないというのは納得できません」
「家庭があることを話していなかったのは事実です。でも、真由だって聞いてこなかったじゃないか。それは誰かを傷つけようと思って隠していたわけじゃない。俺は、お互い納得した上での関係だと思っていました」
そこで初めて、藤崎さんが私を見た。
目が合っても、私は何も言えなかった。
「家には妻も子どももいます。会社では部下も抱えています。俺には守らなければならないものがあるんです。だからといって、それを全部失うようなことになれば、誰も幸せにならないじゃないですか」
「だから、俺だけが一方的に責任を負って慰謝料まで支払うというのは……正直、納得できない」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由と藤崎さんが、初めて弁護士を交えて話し合う場面を書きました。
藤崎さんは真由を傷つけたことについては謝罪しながらも、慰謝料については自分だけが責任を負うことに納得できないと主張します。
「聞いてこなかった」「お互い納得していた」という言葉を聞く真由にとって、それは五年間の記憶をもう一度別の形で突きつけられるようなものだったのかもしれません。
同じ出来事でも、立場が変われば見えるものも変わる。
そんな二人の間で、大久保君がどのように話を進めていくのか。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




