第四十八話 自分のための時間
退職を決めた真由は、少しずつ職場を離れる準備を始めます。
けれど、その帰り道で、聞きたくなかった声が背後から追ってきました。
夕方、係長へ退職の意向を伝えると、少し驚いたように眉を上げ、「ちょっと場所を変えようか」と会議室へ連れて行ってくれた。
退職理由を尋ねられ、「前から考えていました」と曖昧に答えると、係長は仕事のことや人間関係のことを二、三確認しただけで、それ以上無理に聞き出そうとはしなかった。続いて退職希望日を確認され、引き継ぎに必要な期間を考慮したうえで、おおよその退職時期を決めることになった。
会議室を出ると、知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
あとは、あの後輩へ仕事を引き継ぎ、有休を消化して、この職場を去るだけ。やることを決めてしまえば、仕事と一緒だ。ただやるだけだ。
営業事務として五年。目立つ仕事ではないが、誰かを支える仕事は嫌いではない。ExcelやWordはひととおり使える。これからはAIも使いこなせるようになりたい。今まで難しいと思っていたことにも、ひとつずつ挑戦していける気がした。
今度は、自分のために時間を使ってみたかった。
自分の机に戻り、引き出しを開ける。私物も少しずつ持ち帰らなければならない。教則本やブランケット、同期からもらったマグカップ。どれも、いつの間にか当たり前にそこにあるものになっていた。
「先輩。どうしたんです?」
「ん? 仕事、辞めることにしたの」
後輩は手を止めたまま、しばらく私の顔を見つめていた。
「……え?」
「引き継ぎをしたら、来月末までは有給を使おうと思って」
そういうと、彼女は少し拗ねたように唇を尖らせた。
「寂しいですけど……引き継ぎは任せてください」
一拍置いて、ぱっと表情を明るくする。
「落ち着いたら、ご飯行きましょう? 私、先輩と一度もご飯に行ったことないですもん」
「そうだね。その時は私が奢るよ」
「やった」
目の端に藤崎さんの姿が入った。彼もこちらを向いているようだった。
目を合わせないようにして、帰宅の準備を進めた。
パソコンの電源を落とし、机の上を軽く整える。
引き出しを閉め、鞄に教則本をしまう。その一つひとつを確かめるように手を動かしているうちに、終業の時間が少しずつ近づいていた。
顔を上げることなく席を立つ。
鞄を肩に掛け、そのまま足早にオフィスを出た。
できるだけ、ひとりにならないようにしなくてはならなかった。エレベーターも、できれば誰かと一緒に乗りたい。そう思いながら廊下を進んでいると、後ろから声がした。
「梶原さん」
足が止まった。振り返らなくても、誰の声なのかはわかっていた。それでも振り返ることはできず、追いつかれたくない一心で歩幅を広げ、逃げるように廊下を抜けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が正式に退職の意向を伝え、職場を離れる準備を始める場面を書きました。
これまで当たり前のように使っていた机やマグカップ、後輩との何気ない会話。辞めると決めたことで、そうした日常のひとつひとつが、少しずつ「過去」になっていきます。
それでも、真由はこれから自分のために時間を使おうとしています。
そんな帰り道、背後から呼び止める声がしました。
ここから真由がどう向き合うのか、続きを読んでいただけたら嬉しいです。




