第四十七話 戻れない朝
久しぶりに戻った職場は、思っていたよりも変わっていなかった。
けれど、そこに藤崎さんの姿を見つけた瞬間、真由の日常は再び揺らぎ始めます。
オフィスの自動ドアを前にして、私は社員証を持つ手を握り直した。
カードをかざそうとしても指先が震えて、思うように力が入らない。
こんなに長く会社を休んだことは、一度もなかった。
何事もなかったような顔で入ればいいのか。それとも、怪我のことを聞かれたら笑って答えればいいのか。そんなことさえ分からないまま、自動ドアが静かに開いた。
「梶原さん? 怪我したって?」
「もう、大丈夫なんですけど……」
そう答えたものの、言葉はそこで止まった。
「正直、どんな顔をして戻ればいいのか分からなくて。」
そういうと、佐伯さんは私の不安を吹き飛ばすような笑いをした。
「何言ってんの。昨日の晩ご飯も忘れてるような人たちが、そんなに他人のこと覚えてるわけないじゃない」
そう言って佐伯主任は、私の背中をぽんと叩いた。
その勢いに押し出されるようにオフィスへ入る。
けれど、係のみんなは私に気づいていないのか、それとも気づいていても気に留めていないのか、始業前の静かな時間をそれぞれ過ごしていた。スマートフォンを眺める人、コーヒーを飲む人、パソコンを開いてメールを確認する人。いつもと変わらない朝が、そこにはあった。
私は直属の係長の席へ向かった。
「ご迷惑をおかけしました」
そう頭を下げると、係長は顔を上げて穏やかに笑った。
「怪我はもう大丈夫? 怪我なんて誰にも予測できることじゃないんだから、気にしなくていいよ」
その言葉を聞いた瞬間、肩に入っていた力が少しだけ抜けた。
振り返ると、入り口に立った佐伯主任が親指を立てて、いたずらを成功させた子どものように笑っていた。
私がいなかったことなんて、なかったかのように一日が始まった。
隣の席の人も「怪我はもう大丈夫?」と挨拶代わりに声を掛けてくれただけで、それ以上踏み込んでくる人はいない。
思っていたよりも会社はいつも通りで、誰も必要以上に私へ気を遣うこともなく、それぞれが自分の仕事へ戻っていく様子を見ているうちに、このまま退職せず働き続けられるのかもしれないという期待が、ほんの少しだけ胸の奥に灯った。
気づけば視線は藤崎さんの席へ向いていたが、その姿はなかった。
——今日は休みなのか、それとも外へ出ているのか。
少しだけホッとして、溜まっている仕事がないかと確認した。休んでいた間の仕事は後輩が引き継いでくれていて、机の上には整理された書類が積まれていた。
「先輩がちゃんと教えてくれてましたから、大丈夫でしたよ」
そう言って後輩は、少し得意そうに笑う。
「ありがとう」
「お互い様ですよ」
まだ学生のように見えていた後輩が、その一言だけは妙に大人びて聞こえて、私は思わず小さく笑ってしまった。
パソコンの電源を入れ直し、ようやく仕事に戻れそうだと画面へ向き直り、一度だけ顔を上げた視線の先に藤崎さんの姿があり、胃の奥がきゅっと縮んだ。
マウスを持つ右手に、また力が入らなくなった。
——話しかけられやしないだろうか。
そんな不安が胸をよぎったものの、以前とは違ってもう同じ係ではなく、これだけ人目のあるオフィスで私に声を掛けてくることはないはずだと自分に言い聞かせ、それでも視界の端に藤崎さんの姿が入るたび、私は画面から目を離せないままキーボードへ指を落とした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が久しぶりに職場へ戻る場面を書きました。
戻る前は、周囲の視線や反応を怖がっていた真由ですが、実際の職場は思っていたほど変わっていませんでした。佐伯主任や係長、後輩たちの何気ない言葉に、少しずつ肩の力が抜けていきます。
もしかしたら、このまま仕事を続けられるのかもしれない。そう思えたところで、視界の先に藤崎さんの姿がありました。
日常へ戻ることと、過去から離れることは、同じではないのかもしれません。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




