第四十六話 法律の言葉
優しかったはずの人の言葉が、今日はひどく冷たく聞こえた。
それでも真由は、逃げるのではなく、自分でひとつの決断をしようとしていました。
大久保君の目が、なんとも言えない不安を煽る。
こんな人だっただろうか。
子ども食堂では、子どもたちに囲まれて笑っている姿ばかり見ていた。初めて会う子にも自然にしゃがんで目線を合わせ、泣いている子がいれば、いつの間にか隣に座っていた。そんな人だった記憶しかない。
目の前にいる大久保君は、あの頃と同じ穏やかな口調なのに、話す言葉だけがひどく冷たく聞こえた。
** 弁護士という仕事が、こんな言葉を選ばせるのだろうか。**
私には、それとも私が知らなかっただけなのか、もう分からなかった。
私は、大久保君が提示した「示談」という言葉に迷った。好きだった人との恋が終わった。ただそれだけの失恋だったはず。それなのに、現実には藤崎さんの妻から訴えられる可能性があり、その前に話をまとめる方法があると言われた。
恋人として過ごした五年間までも法律の言葉で整理されてしまうような気がした。
五年間をなかったことにする——そんなこと。
二十二歳から二十七歳まで、社会人になってから今日までの時間は、私という人間の半分を形づくっていたと言っても大袈裟ではい。その季節のほとんどに藤崎さんがいて、私はそれを未来へ続いていく毎日だと疑いもしなかった。それでも、奥さんから見れば私は不倫相手でしかなく、藤崎さんから見ても、最後に守ろうとしたのは私ではなく家庭だったのだと思うと、あの五年間は彼にとって都合のいい時間でしかなかったのかもしれない。
私はゆっくり息を吐いて顔を上げた。
「診断書の通り、来週から出勤する。引き継ぎをしなきゃね。退職のことも、自分で伝える」
そこまで言って、一度だけ言葉を切る。
「……示談をするなら、私からひとつだけ条件があるの」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が大久保君に対して、これまでとは少し違う目を向け始める場面を書きました。
子ども食堂で見ていた大久保君と、弁護士として目の前にいる大久保君。同じ人なのに、口にする言葉によって、まったく違う人物のように感じられる。
そして真由自身も、藤崎さんとの五年間をどう捉えればいいのか、まだ答えを出せずにいます。
それでも、最後には自分から仕事へ戻ることを決め、示談についても条件を提示しようとしました。
これまで誰かに合わせることが多かった真由が、これから何を選ぶのか。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




