第四十五話 君の事情
「浮気相手」という言葉で、自分の五年間が切り取られてしまう。
その現実を知った真由に、今度は自分自身で決めなければならない選択が残されていました。
「奥さんから見れば、君は夫と五年間交際していた女性だ。それ以上でも、それ以下でもない」
私は何も言えなかった。
視線が落ちた先には、封も切られていない封筒が何枚も重なっていた。
「でも……私は」
何を言おうとしたのか、自分でも分かっていた。
「それは君の事情だ」
その一言で、喉まで込み上げていた言葉は、もう口を開く前に行き場を失ってしまった。
「浮気相手」という言葉が胸の奥へ静かに沈んでいく。この部屋でワインを飲んだ記憶も、一緒に出勤した記憶も、そのどれもが私にしか存在しないものだった。しかし、奥さんから見れば、私はただ夫と関係を持ち続けていた女でしかない。その言葉ひとつで片づけられてしまうのだと思うと、自分の存在がくだらない存在のように感じた。
大久保君はそれ以上すぐには続けなかった。窓の外では西日がゆっくりと傾き、さっきまで床へ長く伸びていた光も少しずつ薄れ、部屋の中から色が抜け落ちていくようだった。それでも大久保君は表情を変えず、私から目を逸らすこともなく、静かに次の言葉を選んでいる。
「だから、示談という方法もある」
穏やかな口調だった。その静けさが、かえって逃げ道を失わせる。
「藤崎さんは、このことを会社にも家庭にも知られたくないはずだ。今なら、会社にも家庭にも知られない形で話をまとめられる」
私は黙ったまま聞いていた。
示談という言葉は知っている。でも、それが自分に関わる話として聞こえてこない。ほんの少し前まで結婚するのだと信じていた相手と、これからは条件を並べて話し合うのだと言われても、どこか遠くの出来事を聞いているような気がした。
大久保君は私の返事を待つように黙っていた。
「これは、あくまでひとつの方法だ」
短く言ってから、私を真っ直ぐ見た。
「僕は提案はできけど、決めるのは君だ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、藤崎さんとの関係を「示談」という形で終わらせる可能性について、大久保君から説明を受ける場面を書きました。
真由にとっては、結婚するつもりでいた相手との五年間を、今度は法律の言葉で整理しなければならない。あまりにも現実的で、すぐには受け入れられない話だと思います。
そして、「浮気相手」という言葉も、真由が生きてきた五年間を否定するものではないはずなのに、その一言だけで自分の存在まで小さくなったように感じてしまう。
大久保君は方法を示すことはできても、最後に決めるのは真由自身です。
これまで誰かに合わせることで生きてきた真由が、ここから何を自分で選ぶのか。続きを読んでいただけたら嬉しいです。




