第四十四話 それだけだ
もう何もしたくない。
そう思っていた真由に、大久保君はこれから避けては通れない現実を伝えます。
「どういうことなの?」
私は大久保君を部屋へ上げた。
靴を脱ぐ音を聞きながら、部屋へ視線を向ける。脱ぎ捨てている服も、洗っていないマグカップも、そのまま。今は、そのまま目を逸らすことしかできなかった。
テーブルの上には、開封もしていないダイレクトメールやチラシが数日分積み重なったままになっている。私はそれを無造作に隅へ寄せた。
大久保君は室内を見回すこともなく、ダイニングテーブルの椅子を静かに引いて腰を下ろした。
私も向かいの椅子へ腰を下ろす。
「梶原さんに、確認しておきたいんだけど」
そう言いながら、大久保君は積まれた封筒へ一度だけ目を落とした。
「藤崎さんを訴えたい?」
そんなことを考える余裕は、まだどこにも残っていなかった。しばらく沈黙が続いたあと、私は小さく首を横へ振った。
「……訴えたところで、私には何も残らないし。もう、疲れちゃった」
「そう」
大久保君はそれ以上、訴えることについては何も言わなかった。
私が答えられないことくらい、分かっていたのだと思う。代わりに確かめたのは、もう二度と藤崎さんに会いたいと思うのか、それだけだった。
「うん。私の方が、どこかへ消えてしまいたいくらい」
言い終えると、私は組んだ両手の上へ額を預けた。顔を上げる気力は、もう残っていなかった。
「じゃあ、示談の方向で考えよう」
「私は、謝ってほしいとか、お金が欲しいとかじゃないの」
「分かってる」
大久保君はすぐには続けなかった。
部屋に落ちた沈黙だけが、ゆっくりと流れていく。
「でも、ひとつだけ理解しておいてほしい。梶原さんは被害者である一方で、法律上は別の立場から見られる可能性もあるんだよ」
私は眉をひそめた。その言葉だけが、うまく頭に入ってこなかった。
「藤崎さんの奥さんが知れば、次は梶原さんに矛先が向く」
「私が?」
思わず息を呑んだ。
大久保君は小さく頷くだけだった。その視線は逸れることなく、静かに私を見据えている。
「奥さんから見れば、君は不倫相手。それだけだ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が藤崎さんとのことをどう終わらせるのか、大久保君と話をする場面を書きました。
真由にとっては、謝罪もお金も望んでいるわけではなく、ただもう藤崎さんと関わりたくない。それが今の正直な気持ちです。
けれど、本人が何を望んでいるかとは別に、法律や周囲から見た立場というものがあります。
自分では何も悪いことをしていないと思っていた真由にとって、その現実はあまりにも突然のものでした。
ここから真由が何を知り、何を選んでいくのか。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




