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錯認の果て──不倫だと知らずに恋をした、私の物語。  作者: 髙山あきら


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第四十三話 景色に残る人

藤崎さんから逃げ出したあと、真由が向き合ったのは、自分のこれからでした。

失ったものを数えながら、それでも残されているものを探します。



「梶原さん……」

 自宅で警察から事情を聞かれたあと、大久保君が部屋を訪ねてきた。

 私は腕を抱くように組んだまま俯いていた。震えはもう収まっているはずなのに、指先だけが思うように力を抜けなかった。


「最後に……ちゃんと話をしたかっただけよ」


 危険なのはわかっていた。それでも、会わずに終われば、きっと彼を忘れられない。自分の気持ちに決着をつけるためだと言い聞かせながら、本当は、もう一度だけ彼の声を聞きたかった。


 大久保君は眉間に皺を寄せ、握りしめた手に視線を落としていた。


「防犯ブザーがあってよかった。勧めてくれてありがとう」


 そう言うと、大久保君は「……いや」とだけ答え、眉間に皺を寄せたまま、深くため息をついた。


「仕事、辞めようと思う」

 少しの沈黙が落ちた。

 恐る恐る顔を上げると、大久保君はじっと私を見つめていた。驚いた様子はなかった。ただ、すぐに言葉を返さず、私から目を逸らそうともしなかった。


「……どうして?」

 

「あの人と同じ会社にいるのが嫌なの」

 病院にいる間は、時間が経てば復職できると信じていた。仕事そのものが嫌いではなかったし、あの出来事さえ乗り越えられれば、もう一度やり直せるのではないかと、どこかで信じたかった。けれど、藤崎さんは私の最後の願いだった「話をしたい」という言葉に向き合うことなく、怒りのまま、その場を去ってしまった。

 

 あの瞬間、ようやく理解した。

 もう、この人とは何も話せない。

 そう思った途端、会社へ戻る自分の姿まで、一緒に消えてしまったような気がした。

 

 これまで私は、藤崎さんとの時間を中心に生活してきた。週末が近づくと真っ先に帰宅し、いつ来てもいいように夕食を用意し、部屋を整えて待つ。それがいつしか、当たり前の日常になっていた。


 あの人に抱かれた翌朝、藤崎さんは「実家に行くから」と言って帰っていく。次に会うまで、私はまた一人だった。それでも、私が彼の知らない人と会うことを、藤崎さんは嫌がった。友人と出かけた話をすれば、誰と会ったのか、何をしていたのかと尋ねられる。私はそれを、私のことを気にかけてくれているのだと思っていた。嫉妬されることさえ、愛されている証のように感じていた。


 友人に誘われても、次第に断ることが増えていった。藤崎さんが嫌がることを、わざわざする必要はないと思っていたのだ。少しずつ人付き合いが減り、職場でも同僚と距離を置くようになった。気がつけば、気軽に昼食に誘える相手さえいなくなっていた。


 会社へ戻る自分を思い浮かべても、仕事のことなど何も考えられなかった。昼休みに一人で社員食堂へ向かうことも、廊下ですれ違う人たちに何事もなかったように頭を下げることも、事務所で自分の席に座ることも、もうできる気がしなかった。


 私は、いったい何をしていたのだろう。


 藤崎さんの都合に合わせて生活し、あの人が嫌がることを避け、気づけば、自分の居場所さえ失いかけている。


 あの人の都合のいい女でいたくない。


「どこへ行っても、藤崎さんを忘れられなくなる。会社も、この街も、この部屋も……」

 その先は言葉にならなかった。

 

 朝、駅まで歩く道も、帰りに立ち寄るスーパーも、何気なく見上げていたマンションの廊下も。

 思い出は記憶の中だけに残るものだと思っていた。でも、本当は違う。景色にも、匂いにも、季節にも染み込んでいて、不意に胸の奥を締めつけてくる。

 

「だから、一度全部置いていきたいの」

 

 口にした途端、その考えが少しだけ現実味を帯びた気がした。住む場所が変われば、毎日歩く道も、窓から見える景色も変わる。記憶まで連れて行けるわけではない。それでも、今よりはマシな気がした。


「貯金もあるし、失業保険もあるから。職業訓練校に通えば、何とかなる……と思う」


 大久保君はすぐには答えなかった。玄関の床へ一度視線を落とし、小さく息をつく。何を考えているのかは分からなかった。ただ、すぐには答えを返さないその沈黙だけが、妙に長く感じられた。

 

「退職すること自体には反対しない。ただ、ひとつだけ急がないでほしい」


「どうして?」


 問い返した私に、大久保君は静かに顔を上げた。その表情はいつもと変わらず穏やかで、そこにある感情を読み取ることはできなかった。

 

「君には、まだ選べるものが残ってるんだから」

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

今回は、藤崎さんとのことをきっかけに、真由が会社を辞める決意をする場面を書きました。

五年間、藤崎さんとの時間を中心に過ごしてきた真由にとって、失ったのは恋だけではありません。仕事も、人との付き合い方も、毎日の過ごし方も、いつの間にか藤崎さんを中心に形作られていました。

だからこそ、環境を変えればすべてが解決するわけではないのだと思います。

大久保君の言う「まだ選べるものが残ってる」という言葉を、真由がどう受け止めるのか。

続きを読んでいただけたら嬉しいです。

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