第四十二話 背中
届かないと思っていた声の代わりに、部屋の外へ響いたものがありました。
その音が、真由を閉じ込めていた時間を断ち切ります。
耳をつんざくような防犯ブザーが鳴り響いた。
引き抜いた紐が私の指先で揺れる。
私は床へ崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。それでも棚に手をついて身体を起こし、藤崎さんの脇をすり抜けるようにドアノブへ手を伸ばした。縋りつくように握り、そのまま体重を預け、転がるように外廊下へ出た。咄嗟についた手のひらが、ざらついたコンクリートの感触が食い込む。
下腹部に鈍い痛みが走る。同時に、温かなものが溢れる感覚に息が止まりそうになった。
——スマホ。
ポケットのスマートフォンを取り出そうとしても、震える指はうまくポケットへ入らない。
頭上から私の名前を呼ばれた。顔を上げると、外へ出てきた藤崎さんが私を見つめていた。その目から視線を逸らすことができなかった。
「……違うだろ!」
苛立ちをぶつけるように玄関ドアを拳で殴る。鈍い衝撃音が防犯ブザーに重なり、静かな外廊下へ響き渡った。
やがて扉の開く音が聞こえる。
住人たちが戸口から顔をのぞかせる。その視線が一斉に私たちへ集まり、身体はさらに強張った。
悲鳴が上がった。
「警察!」
怒鳴り声が飛び交い、誰かが警察へ通報しているのが耳に入る。静かだった夕方の外廊下は、ほんの数秒で騒然となっていた。
藤崎さんは私を睨みつけた。その目には怒りとも苛立ちともつかない激しい感情が滲み、何かを言いかけて唇がわずかに開く。けれど、住人たちの視線に気づいたのか、その言葉は最後まで口にされることなく、踵を返してエレベーターの方へ向かった。
——藤崎さん。
その背中を呼び止めたかった。
まだ聞けていないことが、あまりにも多すぎた。
防犯ブザーは私の手の中でけたたましく鳴り続けている。耳をつんざくような音が外廊下に響き渡っているというのに、私は何ひとつ言葉を発することができなかった。
住人の一人が「待ってください」と制止し、藤崎さんの腕を掴んだ。けれど、藤崎さんはその手を振り払うように身を翻すと、足早にエレベーターへ乗り込む。
——どうして。
閉まりかけた扉の向こうで、藤崎さんの横顔が一瞬だけ見えた。それなのに、最後まで、一度も私を見ようとはしなかった。その事実が胸の奥へ音もなく沈み、身体の熱だけを静かに奪っていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、真由が防犯ブザーを鳴らし、ようやく部屋の外へ逃れる場面を書きました。
これまで真由は、藤崎さんを前にすると言葉も身体も思うように動かなくなっていました。それでも最後に、自分の手で防犯ブザーを引いたことが、状況を変えるきっかけになりました。
そして、外廊下に出たことで、二人だけだった空間に住人たちの視線が入り、初めて「二人の間だけのこと」ではなくなります。
藤崎さんが去ったあとも、真由の中にはまだ言葉にならないものが残っています。
続きを読んでいただけたら嬉しいです。ありがとうございました。




