第99話「百話の前夜」
部屋に戻ると、ネアはすぐ荷物をほどいた。
ほどいた、といっても散らかすためではない。袋の口を少し開けて、中身をひとつずつ確かめるためだった。
板床が、浅く鳴る。
宿の床は廃都の石畳よりよく喋った。足を置くたび、きしりと返事をする。
ネアは返事をしない。
さっき食卓で言った「まだ決めてない」も、ここまで運んでくるあいだに小さくなって、今は袋の布に吸われていた。
俺は外套の内側にいた。
いつもの場所から少しずれて、布包みごと端に寄せられている。動けないので、寄せられたまま宿の夜に参加している。
袋の口が開いた。
乾いた布がこすれ、革紐が指に引かれる音がする。ネアの手は遅くない。けれど急いでもいない。
最初に出てきたのは畳んだ布だった。
次に、小さな火打ちの道具。薄い革袋。硬貨の入った布。どれも旅の荷物で、どれも泊まる人間の荷物だった。
どちらにも取れる、というのは便利な形だ。
出ていく準備にも、ここにしばらくいる準備にもなる。人間は器用だ。石は包まれるか、置かれるかしかない。
ネアは硬貨の布を指で押した。
中で小さく金属が鳴る。多くはない音だった。少なくもない、と言い切れるほど俺は金勘定に詳しくない。
『足りるか?』
声にしてから、しまった、とはならなかった。
ネアはこういう問いに、必要な分しか返さない。返事がなくても、それはたぶん返事の一種だった。
「……うん」
短い。
けれど袋に戻す手つきは、少しだけ丁寧になった。足りる、と足りてほしい、のあいだに置かれた「うん」だった。
外套が持ち上がる。
布包みの中で、俺はわずかに傾いた。もうひとつの硬いものが、隣で淡く触れる。
石が二つ。
それだけ言うと単純で、実際かなり単純だった。片方は俺で、片方はまだ何者でもない。
少なくとも、今夜のネアはそれ以上を決めない。ネアは布包みをほどかなかった。
外套の端から、まだそこにあることだけを確かめる。指先が布の上を一度なぞり、すぐ離れた。
『置いていくのか?』
「まだ」
今度は早かった。
迷っていない早さではない。迷う場所を、今はそこに置かない早さだった。
部屋の外で、誰かが廊下を歩いた。
足音は扉の前を過ぎ、少し離れたところで止まる。水差しを置く音。小さな咳。戸の閉まる音。
村の夜は静かだった。
静かだが、何もない静けさではない。火を落としたあとの台所、寝返りを打つ床、遠くで桶が揺れる音が混じっている。
廃都の夜にも音はあった。
崩れた壁を風が抜ける。地下で水が動く。石の奥で、古いものがまだ冷えきらずに残っている。
似ている。
そこまで言葉にする前に、窓の外で木戸が一度だけ鳴った。村の木はよく鳴る。石より軽いぶん、夜に返す声も軽い。
ネアは袋の中身を戻していく。
布、革袋、火打ち、硬貨。最後に小さな包みを押し込み、空いたところを指でならす。
旅の荷物は、どうしてこう少ないのか。
人ひとりが明日へ行くには、もっと山ほど必要そうなのに、袋ひとつに収まってしまう。
けれどネアは、それで歩いてきた。
廃都の石段も、門の前の道も、食堂の椅子までの短い距離も、その袋ひとつで来た。
「……もう少し」
袋の口を締めながら、ネアが言った。
何に向けた言葉か、布のこちら側までは届かない。袋の紐か、宿の夜か、明日のことか。
俺に言ったのかもしれない。
俺に言っていないのかもしれない。どちらでも、音はここに残った。
『ああ』
返事としては薄い。
それでも、こういう夜には薄い返事の方が合う。厚く返すと、決めていないものまで形になってしまう。
ネアは袋を壁際に置いた。
持ち出しやすい位置だった。けれど、邪魔にならない位置でもあった。
外套は椅子の背にかけられた。
布包みはその端に残ったまま、下へ落ちない。ネアがそう置いたのか、たまたまそうなったのかは分からない。
石が二つ。
何も決まっていない夜に、二つある。それだけだった。
ネアは寝台に腰を下ろした。
板が低く鳴り、毛布がこすれる。靴を脱ぐ音が、左右で少し違う。片方だけ、床に置くのが雑だった。
疲れている。
それは説明されなくても分かる。食卓で食事をしたあとから、息の沈み方が少し深かった。
『ネア』
「……ん」
呼んだだけだった。
聞きたいことはいくつかあった。明日、出るのか。ここに残るのか。あの石をどうするのか。俺をどうするのか。
どれも口に出すには、夜が静かすぎた。
静けさを破るほど大事な問いなら、たぶんネアの方から先に触る。
ネアは横になった。
毛布の下で体の位置を決めるまで、少し時間がかかる。肩が沈み、膝が動き、最後に息が長くなった。
部屋の中に、荷物の形が残る。
まとめてある。ほどけてはいない。どこかへ向かう準備にも、泊まり続ける準備にも取れる形で。
窓の外で、また桶が鳴った。
夜の水場に誰かがいるのか、風が触っただけなのか。村の音は近くて、廃都の音は遠い。遠いのに、似ている。
(廃都の夜と、よく似た音だと思う前に、もうネアが眠り始めていた)
早い。
考えるより、眠る方が先に来る夜がある。ネアにはそれができる。俺にはできないので、聞いている。
布包みはそこにある。
石が二つある。
袋は締まっている。
何も決まっていない。
そのまま夜が続いた。村の床がたまに鳴り、遠くの水が小さく返事をした。
ネアは荷をまとめたのに、明日をまだ決めなかった。
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——石より




