前世で猫を集めて死んだ男は、今度は魔物を放っておけない
前世の俺は、雨の駐車場で終電を逃した。
車の下から、濡れた子猫が出てこなかったからだ。
コンビニで買った焼き魚を少しずつちぎり、午前一時に捕まえた。家へ連れ帰ると、先にいた猫が子猫を舐め、俺は床で寝た。
次の猫は、職場の裏口。
その次は、雨水の流れる側溝。
動物病院の前には、段ボール箱ごと置かれていた。
見つけるたび、家賃と餌代を計算した。玄関を開けるたび、皿がひとつ増えた。
最後には、六畳一間に七匹。
俺の寝る場所は、布団の端に残った細長い部分だった。
死んだ朝も、やることは同じだった。
廊下の真ん中で寝る黒猫を踏まないよう、またごうとする。
背後から走ってきた三毛を避ける。
起き上がった黒猫へ足を下ろさないよう、体をひねる。
開いていた玄関から落ち、階段も落ちた。
最後に見えたのは、上からのぞき込む二匹の顔。
踏まなくてよかった。
そこで前世は終わった。
次に生まれた世界には、猫がいない。
代わりに森には魔物がいて、見つけたら近づくなと教えられた。
俺はその教えを、十七歳の秋まで守った。
橋の下から、子どもの咳みたいな音が聞こえるまでは。
◇
水桶を置き、草の斜面を下りる。
橋脚のそばに、黒い塊。
犬ほどの体に翼が生えている。片方は枝に挟まり、変な向きに折れていた。
俺を見ると、そいつは牙を出した。
「分かった。近づかない」
少し離れて座る。
日が暮れかけている。水も汲めていない。
帰って猟師を呼べばいい。けれど猟師が何を持ってくるかも、知っていた。
昼の残りの干し肉を、一切れ投げる。
黒い魔物は俺を睨んだまま食べた。
もう一切れ、少し近くへ。それも食べる。
三切れ目は、手から取った。
「枝だけ外すぞ」
返事はない。
枝をどけると、折れた翼が震えた。俺の腕にも牙が触れたが、噛まれなかった。
細い板を拾い、上着の裾を裂く。
添え木を巻き終える頃には、空が暗くなっていた。
「うちへ来るか」
黒い魔物は動かない。
抱き上げると、見た目よりずっと軽かった。
腕の中では震えているのに、胸へ耳を当てると心臓だけが忙しい。
その日の水汲みは失敗。
小屋へ帰ると、俺の皿から肉を半分移した。
ひとつだった皿が、ふたつになった。
◇
「それは、何だ」
翌朝、隣の畑のバルドさんが柵越しに聞いた。
俺は黒い魔物の包帯を巻き直していた。そいつは肉を食べながら、バルドさんを見ている。
「橋の下にいました」
「場所ではなく、種類を聞いている」
「分かりません」
「名前は」
濡れた黒い毛を見る。
「くろです」
バルドさんは、黒い魔物と俺を交互に見た。
「もう少し考えなかったのか」
「前にも黒いのがいたので、呼びやすいです」
「前にも?」
「前世に」
「聞かなかったことにする」
くろの翼が治るまで、ひと月かかった。
最初の三日は、包帯を持つと牙を見せた。
四日目には、自分から翼を差し出す。
十日目から畑についてきた。
二十日目には、俺が水桶を忘れると橋まで戻って教えてくれた。
ひと月目の朝、包帯を外す。
くろは地面を蹴り、空へ上がった。
黒い翼が屋根を越え、森の上を大きく回る。
「今度は、落ちるなよ」
姿が小さくなった。
空の桶を持って小屋へ戻ると、入口の前にくろが座っていた。
先に帰っている。
その晩から、くろは俺の布団の足元で寝た。
冬には体が大きくなり、足元ではなく、俺の足の上で寝た。
「重い」
くろは目を閉じた。
前世から、こういうときに退いてくれる者はいない。
◇
二匹目は、俺が拾わなかった。
雪解けの朝、畑の芋が一本だけ抜かれていた。
翌朝も一本。その次は二本。
早起きして待つと、畝の間に丸い尻が見えた。フクロウみたいな体に、ウサギの耳がついている。
「それ、俺の芋なんだが」
丸い魔物は振り返り、かじりかけの芋を前足で押してきた。
「返せばいいと思ってないか」
もう一本掘り、俺の前へ転がす。
「増やせばいいとも思ってない」
そいつは自分の分を食べ始めた。
柵の外へ運んだ。昼には畝へ戻っている。
森の手前まで運んだ。夕方には屋根に乗っていた。
翌朝、屋根の上から、どん、と音がする。
その次の朝も、どん。
三日目には、その音で起きて朝飯を作った。
「まる。降りてこい」
丸い尻が煙突から見えた。
芋を盗みに来たはずなのに、いつからか俺を起こす係になっていた。
寝坊しなくなった代わりに、屋根は少しへこんだ。
三匹目は、村の井戸から引き上げた。
水が汲めないと呼ばれ、のぞき込む。
青い鱗の小さな生き物が、石壁のでっぱりに爪をかけていた。蛇に四本の足をつけたような姿で、水に落ちまいと必死になっている。
「井戸に住む魔物ではないのか」
後ろから、村長が聞いた。
「水が好きな顔には見えません」
「顔で分かるのか」
「今にも泣きそうです」
布を巻いた棒を差し入れる。
青い生き物は迷わず抱きついた。
地面へ下ろすと、俺の足を三周し、靴の上に乗る。
森へ向けて置いてみた。靴へ戻ってきた。
「帰らないみたいです」
「お前が連れて帰る顔をしているだけだ」
青いので、あおと呼んだ。
あおは井戸を怖がるくせに、川は好きだった。
毎夕、魚を一匹くわえて帰り、俺のまな板へ置く。
食卓に魚が増える。
まるが芋を持ってくるので、俺は働かなくても暮らせそうになった。
働かないと芋が全部かじられるため、畑には出た。
◇
四匹目には、最初から名前があった。
月に一度来る行商人が、大きな籠を背負って小屋へ来た。
「頼む。ころを預かってくれ」
籠の中では、角の生えた小熊みたいな魔物が丸まっている。
「病気ですか」
「健康だ」
「噛みますか」
「噛まん」
「何か壊しますか」
「何もしない」
行商人は籠の取っ手を握ったまま、しばらく離さなかった。
「本当に何もしないんだ。食って、寝て、たまに転がる」
ころが寝返りを打つ。
「それなら、一緒に旅をしても」
「俺が無理になった。冬の山道で、こいつを庇って歩くのが怖い」
行商人は籠の中へ手を入れ、ころの耳を一度なでた。
「荷を捨てても、たぶんこいつは捨てられん。だから雪が来る前に、ここへ置いていきたい」
よく分かっている。
俺は籠を受け取った。
扉を開けると、ころは転がり出て、かまどの前で止まる。
それから本当に何もしなかった。
翌月、行商人が来ると、ころは朝から道の方を向いていた。
行商人が座る。
ころは膝へ前足を一本だけ乗せた。
行商人も、日が傾くまで立たなかった。
五匹目と六匹目は、雨の夜に自分で来た。
窓を叩く音で目を覚ます。
戸を開けると、濡れた二匹が並んでいた。片方は薄い翼をもう片方へ傾け、雨を避けさせている。傾けている方が、よく濡れていた。
「入るか」
二匹は俺ではなく、くろを見た。
くろが翼を少し開く。
それを返事だと思ったらしく、二匹はかまどの前まで走り、重なって眠った。
翌朝、乾いた毛は白と灰色だった。
白い方をしろ、灰色の方をはいと呼ぶ。
雨の夜には、はいがしろへ翼を傾ける。晴れの日には、しろがはいの耳を舐めていた。
◇
六匹になった頃、村長が小屋へ来た。
庭では、くろが翼を干している。
まるは屋根から煙突をのぞき、あおは水桶からできるだけ離れて魚を食べていた。
ころは村長の足元まで転がり、そこで止まる。
「増えたな」
「増えました」
「どうにかしてくれ」
村長の後ろには、村人が何人か立っていた。
納屋へ入るのが怖い。子どもが小屋へ遊びに来たがる。何の魔物か分からないものを、村の近くへ置くな。
どれも、もっともな話だった。
「森へ返せないのか」
くろは飛べる。
まるは自分で来た。あおも川で暮らせるだろう。
しろとはいには傷もない。
返せない理由を探せば、たぶん見つからない。
けれど、くろは俺の足へ翼をかぶせて寝る。
まるは毎朝、屋根をへこませて起こす。
あおは魚を食べずに持ち帰る。
しろとはいを、また雨の外へ出すところだけは想像できなかった。
「すみません」
それしか言えない。
「手放せないのか」
「はい」
村人の顔が曇る。
迷惑をかけたいわけではない。怖がるなとも言えない。
明日の朝、皿を減らすために手を伸ばす。そこまで考えて、指が動かなくなった。
「小屋の周りから出さないようにします。柵も高くします」
「金はあるのか」
「少しずつやります」
村長は長く黙った。
「三日後、男手を出す」
「え」
「今の柵では、出さないようにできんだろう」
村人の一人が、余った材木を置いていくと言った。
別の人は、子どもを近づけない札を書くという。
三日後、俺が穴をひとつ掘る間に、村人たちは柱を四本立てる。
バルドさんは柵板を打ちつけながら、まるが盗んだ芋の数を請求した。
まるはその横で、別の芋を掘っていた。
新しい柵ができた夕方、村の入口に札が立つ。
『魔物に勝手に触るな』
その下に、小さな字が増えていた。
『触るなら本人に聞け』
本人が俺なのか魔物なのか、村長に聞きそびれた。
◇
柵ができてから、村人が魔物を連れてくるようになった。
最初は、パン屋の婆さんだった。
納屋へ入り込んだ綿毛の塊を抱え、困った顔で立っている。
「追い出しても戻るんだよ」
外へ置くと、綿毛は婆さんの頭を踏み台にして、俺の肩へ跳び乗った。
婆さんは固いパンを一袋置き、何も言わずに帰った。
七匹目になった綿毛は、夜になると俺の枕を使う。
八匹目とは、森で薬草の取り合いになった。
角の欠けた山羊みたいな魔物が、俺の籠から薬草だけを抜いて食べる。
干し肉もパンも食べない。
薬草をもう一束差し出すと、泣きそうな顔で飲み込んだ。
俺が帰ろうとすると、少し離れてついてくる。
止まると止まり、歩くと歩いた。
小屋まで来たので、欠けた角へ薬を塗る。
翌朝、玄関に薬草が一本置かれていた。
食べる分とは別に、俺へ残したらしい。
九匹目は、いつ来たのか分からなかった。
市場から帰ると、壁際の籠が動く。
持ち上げたら、籠のふりをしていた丸い魔物が足を出して逃げた。
翌朝は椅子のふりをしている。
座る前に気づけてよかった。
十匹目は、村の子ティバが両手で運んできた。
手の中には、黄色い毛玉。
毛玉も震えていたが、ティバの指はもっと震えている。
「父ちゃんが、ここなら置いてもいいって」
「飼いたかったのか」
「うちは妹が小さいから、だめだって」
正しい判断だと思う。
何の魔物か分からないし、噛むかもしれない。
「名前は」
「ぬか。色が、ぬかみたいだから」
黄色い毛の奥から、大きな目がふたつ出てきた。
「分かった。ぬかは、うちで預かる」
「捨てない?」
ティバの指から、力が抜けない。
俺は両手を下へ添えた。
「俺は、それができない」
ようやく、ぬかがこちらへ移る。
その日から、ティバは毎日小屋へ来た。
ぬかに会いに来たとは言わず、くろに乗せてもらい、まると芋を掘る。
帰り際にだけ、ぬかをなでた。
ぬかも、ティバが来る時刻になると戸口で待つ。
十一匹目は、納屋の隅から動かなかった。
食事を置き、俺は帰った。
次の日は少し近くへ置く。
七日目に手から食べ、十日目に小屋までついてきた。
小屋へ来てからも、そいつは隅が好きだった。
夜になると、村へ続く道が見える柵の端へ座る。
雨の日に毛布を持って隣へ座ると、遠い山道に行商人の灯りが見える。
灯りが村へ着くまで、そいつはそこを離れなかった。
次の晩から、柵の端にも水の皿を置いた。
十二匹目は、夜中に窓の外から俺を見ていた。
光る目が、窓いっぱいにふたつ。
驚いて布団から落ちる。
外へ出ると、ロバより大きな毛むくじゃらが座っていた。大きな体を縮め、申し訳なさそうに耳を伏せている。
前足には、折れた枝が刺さっていた。
「見せてみろ」
枝を抜き、傷を洗って布を巻く。
終わると、毛むくじゃらは俺を鼻先で持ち上げ、小屋の中へ運んだ。
「自分で歩ける」
床へ下ろされた。
翌朝、毛むくじゃらは棚の上にいた。
どうやって乗ったのかは、今も分からない。
◇
十二匹になっても、朝にすることはあまり変わらなかった。
皿を並べる。
あおが運んだ魚を焼く。
まるが勝手に掘った芋から、かじられていない部分を切り出す。
ころは食事が始まるまで動かない。始まってからも、皿の方を向くだけで動かなかった。
俺が運ぶ。
村人も、少しずつ小屋へ寄るようになった。
最初は柵の外から見ているだけ。
次は、余った野菜を置いてすぐ帰る。
やがて畑仕事の帰りに柵へ腰をかけ、くろの翼の陰で水を飲むようになった。
まるが芋を掘りすぎれば、バルドさんが後ろから埋める。
あおが魚を運べば、パン屋の婆さんが香草をのせて焼いた。
欠けた角の魔物が置く薬草は、村長の腰へよく効く。
怖くないものになったわけではない。
それでも、名前を呼ぶ声は増えた。
夏の終わり、俺は熱を出した。
朝、まるが屋根で跳ねても起きられない。
餌の皿は空だった。
畑へ出なければならない。水もない。薪も少ない。
布団から腕を出すと、ころがその上へ転がってくる。
「どいてくれ」
動かない。
反対側から起きようとすると、くろが翼で押し戻した。
「今日は、やることが多いんだ」
自分でも驚くほど、かすれた声が出る。
くろは鼻先を俺の額へつけた。
それから戸口へ行き、爪で戸を叩き始める。
屋根では、まるが何度も跳ねた。
「屋根が抜ける」
言い終わる前に、戸が開く。
ティバが顔を出し、俺を見るなり村へ走っていった。
ぬかは枕元へ残り、俺の頬へ黄色い体を押しつける。
冷たい鼻先だった。
しばらくすると、パン屋の婆さんとバルドさん、それに村長まで来た。
「畑はやっておく」
「水は青いのが運び始めてるよ」
「井戸は怖いはずなんですが」
「川から来てる。ずいぶん遠回りだねえ」
窓の外を見る。
あおが小さな桶をくわえ、庭を横切っていた。
水をこぼさないよう、いつもの倍ほどゆっくり歩いている。
枕元には魚が置かれ、足元には薬草が三本並ぶ。
いつも玄関へ一本だけ置く魔物が、その日は布団の横から動かない。
婆さんが薬草を煎じる。
村長は空の皿へ餌を入れた。
バルドさんは戸口に立ち、入ろうとするまるを三度押し返す。
「寝床が壊れる」
「もう屋根がへこんでいる」
「それは元からです」
「元からではない」
熱は二日で下がった。
三日目に外へ出ると、畑の草は抜かれ、水桶は満ち、薪まで割られている。
誰がどこまでやったのか聞いたが、村人はそれぞれ別の者を指す。
「俺は畑だけだ」
「薪は黒いのが割ったんじゃないか」
「くろが割ると、粉になります」
薪は、実際に半分ほど粉になっていた。
残り半分は、同じ長さにきれいに揃っている。
その晩、熱は下がったのに、誰も元の寝床へ戻らない。
ころは腕の上。
ぬかは首元。
綿毛は枕を全部使っている。
くろの翼が、戸口から入る風をふさいだ。
重くて、暑い。
起き上がろうとすると、ころが少しだけ転がり、また腕の上で止まる。
四日目、畑へ出ようとした。
戸口には、バルドさんが立っていた。
「もう治りました」
「見れば分かる」
「では、畑へ」
「今日は俺の畑を手伝え」
言われた通り隣の畑へ行くと、やることは残っていなかった。
草は抜かれ、畝も整っている。
バルドさんは俺へ空の籠を持たせ、そのまま小屋へ戻った。
庭では、村人たちが新しい餌台を作っていた。
十二枚の皿を並べても、まだ端に余裕がある長さ。
「数が合わなくなったら、継ぎ足せ」
村長が言う。
俺が返事をする前に、くろが翼で餌台を押し、壁際へ少し動かした。
あおがその下へ水皿を運ぶ。
まるは真ん中の皿へ芋を置いた。
ころだけは、古い皿の前から動かない。
俺は古い皿ごと抱え、新しい餌台の端へ移した。
ころは一度転がり、俺の靴へ背中をつけて止まった。
◇
秋の夜、くろが帰ってこなかった。
いつもなら、夕飯の匂いがする前には屋根へ降りる。
空が暗くなっても、羽音がしない。
「くろ」
庭で呼ぶ。
返事はなかった。
灯りを持って森へ入る。
まるが前を走り、あおが川沿いを探す。
しろとはいは木々の間を飛び、ころまで転がりながらついてきた。
ぬかは俺の襟へ潜り込んでいる。
夜露で靴が濡れた。
枝で腕を切った。
森へ返せないのか、と村長に聞かれた日のことが浮かぶ。
飛べるようになった朝、くろは一度空へ消えた。
あのとき持っていた空の桶より、今の手の方がずっと冷たい。
「くろ!」
喉が痛くなるまで呼ぶ。
村の方から明かりが来た。
バルドさんと村長、それに何人もの村人が松明を持っている。
「森の奥は俺たちが見る」
「でも」
「お前は川へ行け。あれは橋の下にいたんだろう」
夜通し探した。
見つからない。
明け方、小屋へ戻る。
入口の前に、くろが座っていた。
泥だらけで、片方の翼に木の葉をつけている。
その足元には、見たことのない大きな牙が転がっていた。
「くろ」
灯りを落とし、翼を開かせる。
足を触り、腹を見て、口の中まで確かめた。
傷はない。
そこで膝から力が抜けた。
冷えた地面へ座り込むと、くろが胸へ頭を押しつけてくる。
泥で服が濡れる。
俺は両腕を回し、そのまま動けなかった。
あとから戻った村人たちは、牙を見た。
誰も、それが何の牙かは言わない。
村長だけが、自分の外套を俺とくろの背へかけた。
◇
長老が古い本を抱えて来たのは、その数日後だった。
庭では、くろの背にティバが乗っている。
まるは屋根で寝ていた。
あおは井戸を避けるため、大きく遠回りして歩いている。
長老は色のあせた挿絵を見せた。
「これは黒翼の王獣。竜を狩る魔物だ」
「翼が、くろに似てますね」
「似ているのではない。あれだ」
くろはティバを乗せたまま、庭をゆっくり回っていた。
「人を乗せられるんですね」
「そこではない」
長老は次の頁をめくる。
水を割って進む、青い長い獣が描かれていた。
「これは水底の主。川一本を干上がらせるとある」
「あおは井戸を怖がります」
「知りたくなかった」
長老は本を閉じた。
「ほかにも十匹います」
「知りたくない」
二度言って帰った。
その日の夕方、村長が入口の札の下へ、大きな字を足した。
『村にも勝手に入るな』
「商人まで来なくなりませんか」
「礼儀のある商人なら、先に声をかける」
月に一度の行商人は、村の入口でくろへ会釈をした。
くろも片方の翼を少し上げる。
行商人はころ用の赤い布を抱え、小屋まで歩いた。
ころは道の真ん中で待っていた。
◇
兵士が来たのは、冬前の晴れた日だった。
俺は庭で、新しい薪棚を作っている。
剣は持っていない。
魔法も使えない。
手にあるのは、釘を打つための金槌だけ。
村の入口から、馬の蹄と怒鳴り声が聞こえた。
続いて、ティバの叫び声。
「おじさん!」
ティバが走ってくる。
頬に泥がつき、片方の靴がない。
胸には、ぬかがしがみついていた。
黄色い毛の奥で、大きな目が震えている。
その後ろから、見慣れない鎧の兵士が三人、馬で追ってきた。
「止まれ! その金色の霊獣を渡せ!」
ティバが庭へ転がり込む。
俺は金槌を置く暇もなく、両腕で受け止めた。
ぬかがティバと俺の胸の間で鳴く。
潰していないか確かめようとしゃがむと、ティバが俺の服をつかんだ。
「ぬかを、持っていくって」
兵士の馬が柵の前で止まる。
ぬかはティバの胸から離れない。
俺はふたりを小屋へ入れようとした。
けれどティバの片足には靴がなく、膝から血が出ている。
抱き上げるために立ち位置を変える。
気づけば、俺だけがふたりの前に残っていた。
右手には金槌。
左手は、ティバの頭へ伸ばしたまま。
「どけ。お前には関係ない」
兵士が言う。
ぬかが、ティバの胸でさらに小さくなる。
渡せば終わるのかもしれない。
前世の雨の夜にも、帰ればよかった。
職場の裏口でも、見なかったことにできる。
階段から落ちる朝だって、猫を踏んでいれば俺は立っていた。
俺の足は、また動かなかった。
背後で戸が開く。
くろが出てきた。
縁側で寝ていたころが、珍しく起き上がる。
屋根から、どん、と音がして、まるが降りた。
あおは井戸を避けながら庭へ入ってくる。
小屋の陰、納屋の隅、梁の上。
いつも勝手な場所にいる者たちが、こちらを見ていた。
俺は、ぬかを見た。
「うちの子が、追われてるみたいなんだけど」
それだけ言った。
最初に立ったのは、くろだった。
黒い翼が開く。
庭も兵士も、大きな影へ入った。
まるが地面へ降り、その丸い体が兵士の馬より大きく膨らむ。
あおが喉を鳴らすと、井戸の水が柱になって空へ上がった。
本人が一番驚き、俺の後ろへ隠れる。
欠けていた角から芽が伸び、枝分かれして兵士の頭上を覆った。
しろとはいが重なって光る。
小さな輪郭が消え、空に長い影がふたつ走った。
ころは一度だけ転がる。
地面が低く鳴り、三頭の馬が座り込んだ。
綿毛は俺の肩で毛を逆立てる。
籠のふりをしていた者は、いつの間にか兵士の背後で荷車のふりをしていた。
隅を好む者は、村へ続く道をふさいでいる。
大きな毛むくじゃらは棚から降りた。
一度も地面へ触れず、兵士たちの横へ座る。
十二匹。
誰も、俺の合図を待っていなかった。
兵士たちは剣を抜かなかった。
馬から転げ落ち、来た道を走って戻っていく。
追いかけたのは、くろだけだった。
ほかの者は、もう興味をなくしている。
まるは屋根へ戻った。
あおは水柱を見上げたまま、俺の服へ爪をかけていた。
ころは赤い布の上で丸くなる。
しろとはいは、小さな二匹へ戻って互いの翼を舐め始めた。
「終わったの?」
ティバが、ぬかを抱いたまま聞いた。
「たぶん」
俺にも分からない。
しゃがんで、ティバの膝を洗う。
布を巻き終える頃、くろが戻ってきた。
口に、見慣れない軍旗をくわえている。
「それは返してきなさい」
くろは嫌そうな顔をした。
ティバが笑う。
ぬかが腕の中で跳ねた。
俺はそこでようやく、金槌を地面へ置いた。
◇
夜になり、人が帰る。
軍旗は村長が物置へしまった。
ティバの膝の布は、ぬかと同じ黄色にした。
戸を閉め、火を落とす。
暗い部屋を寝床まで歩く。
足元には誰かいるので、今度はちゃんと確かめる。
ころをまたぎ、くろの翼をよけ、布団へ入った。
枕には綿毛が先に寝ている。
まるが屋根で一度跳ね、あおが水皿から逃げる音がした。
窓の外で、小さな音がする。
起き上がると、くろも顔を上げた。
部屋のあちこちで、十二匹ぶんの目が開く。
窓を開ける。
透明な、手のひらほどの生き物が、窓枠の上で震えていた。
俺が手を差し出す前に、くろの翼が背中からかぶさる。
ころが足首へ転がり、枕の綿毛が空いた場所をひとつ作った。
透明な生き物は、その場所へ飛び込んだ。
くろの翼に押され、俺も布団の真ん中へ戻った。




