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前世で猫を集めて死んだ男は、今度は魔物を放っておけない

作者: シラフ
掲載日:2026/06/13

前世の俺は、雨の駐車場で終電を逃した。

 車の下から、濡れた子猫が出てこなかったからだ。

 コンビニで買った焼き魚を少しずつちぎり、午前一時に捕まえた。家へ連れ帰ると、先にいた猫が子猫を舐め、俺は床で寝た。

 次の猫は、職場の裏口。

 その次は、雨水の流れる側溝。

 動物病院の前には、段ボール箱ごと置かれていた。

 見つけるたび、家賃と餌代を計算した。玄関を開けるたび、皿がひとつ増えた。

 最後には、六畳一間に七匹。

 俺の寝る場所は、布団の端に残った細長い部分だった。


 死んだ朝も、やることは同じだった。

 廊下の真ん中で寝る黒猫を踏まないよう、またごうとする。

 背後から走ってきた三毛を避ける。

 起き上がった黒猫へ足を下ろさないよう、体をひねる。

 開いていた玄関から落ち、階段も落ちた。

 最後に見えたのは、上からのぞき込む二匹の顔。

 踏まなくてよかった。

 そこで前世は終わった。


 次に生まれた世界には、猫がいない。

 代わりに森には魔物がいて、見つけたら近づくなと教えられた。

 俺はその教えを、十七歳の秋まで守った。

 橋の下から、子どもの咳みたいな音が聞こえるまでは。



 水桶を置き、草の斜面を下りる。

 橋脚のそばに、黒い塊。

 犬ほどの体に翼が生えている。片方は枝に挟まり、変な向きに折れていた。

 俺を見ると、そいつは牙を出した。


「分かった。近づかない」


 少し離れて座る。

 日が暮れかけている。水も汲めていない。

 帰って猟師を呼べばいい。けれど猟師が何を持ってくるかも、知っていた。

 昼の残りの干し肉を、一切れ投げる。

 黒い魔物は俺を睨んだまま食べた。

 もう一切れ、少し近くへ。それも食べる。

 三切れ目は、手から取った。


「枝だけ外すぞ」


 返事はない。

 枝をどけると、折れた翼が震えた。俺の腕にも牙が触れたが、噛まれなかった。

 細い板を拾い、上着の裾を裂く。

 添え木を巻き終える頃には、空が暗くなっていた。


「うちへ来るか」


 黒い魔物は動かない。

 抱き上げると、見た目よりずっと軽かった。

 腕の中では震えているのに、胸へ耳を当てると心臓だけが忙しい。

 その日の水汲みは失敗。

 小屋へ帰ると、俺の皿から肉を半分移した。

 ひとつだった皿が、ふたつになった。



「それは、何だ」


 翌朝、隣の畑のバルドさんが柵越しに聞いた。

 俺は黒い魔物の包帯を巻き直していた。そいつは肉を食べながら、バルドさんを見ている。


「橋の下にいました」

「場所ではなく、種類を聞いている」

「分かりません」

「名前は」


 濡れた黒い毛を見る。


「くろです」


 バルドさんは、黒い魔物と俺を交互に見た。


「もう少し考えなかったのか」

「前にも黒いのがいたので、呼びやすいです」

「前にも?」

「前世に」

「聞かなかったことにする」


 くろの翼が治るまで、ひと月かかった。

 最初の三日は、包帯を持つと牙を見せた。

 四日目には、自分から翼を差し出す。

 十日目から畑についてきた。

 二十日目には、俺が水桶を忘れると橋まで戻って教えてくれた。

 ひと月目の朝、包帯を外す。

 くろは地面を蹴り、空へ上がった。

 黒い翼が屋根を越え、森の上を大きく回る。


「今度は、落ちるなよ」


 姿が小さくなった。

 空の桶を持って小屋へ戻ると、入口の前にくろが座っていた。

 先に帰っている。

 その晩から、くろは俺の布団の足元で寝た。

 冬には体が大きくなり、足元ではなく、俺の足の上で寝た。


「重い」


 くろは目を閉じた。

 前世から、こういうときに退いてくれる者はいない。



 二匹目は、俺が拾わなかった。

 雪解けの朝、畑の芋が一本だけ抜かれていた。

 翌朝も一本。その次は二本。

 早起きして待つと、畝の間に丸い尻が見えた。フクロウみたいな体に、ウサギの耳がついている。


「それ、俺の芋なんだが」


 丸い魔物は振り返り、かじりかけの芋を前足で押してきた。


「返せばいいと思ってないか」


 もう一本掘り、俺の前へ転がす。


「増やせばいいとも思ってない」


 そいつは自分の分を食べ始めた。

 柵の外へ運んだ。昼には畝へ戻っている。

 森の手前まで運んだ。夕方には屋根に乗っていた。

 翌朝、屋根の上から、どん、と音がする。

 その次の朝も、どん。

 三日目には、その音で起きて朝飯を作った。


「まる。降りてこい」


 丸い尻が煙突から見えた。

 芋を盗みに来たはずなのに、いつからか俺を起こす係になっていた。

 寝坊しなくなった代わりに、屋根は少しへこんだ。


 三匹目は、村の井戸から引き上げた。

 水が汲めないと呼ばれ、のぞき込む。

 青い鱗の小さな生き物が、石壁のでっぱりに爪をかけていた。蛇に四本の足をつけたような姿で、水に落ちまいと必死になっている。


「井戸に住む魔物ではないのか」


 後ろから、村長が聞いた。


「水が好きな顔には見えません」

「顔で分かるのか」

「今にも泣きそうです」


 布を巻いた棒を差し入れる。

 青い生き物は迷わず抱きついた。

 地面へ下ろすと、俺の足を三周し、靴の上に乗る。

 森へ向けて置いてみた。靴へ戻ってきた。


「帰らないみたいです」

「お前が連れて帰る顔をしているだけだ」


 青いので、あおと呼んだ。

 あおは井戸を怖がるくせに、川は好きだった。

 毎夕、魚を一匹くわえて帰り、俺のまな板へ置く。

 食卓に魚が増える。

 まるが芋を持ってくるので、俺は働かなくても暮らせそうになった。

 働かないと芋が全部かじられるため、畑には出た。



 四匹目には、最初から名前があった。

 月に一度来る行商人が、大きな籠を背負って小屋へ来た。


「頼む。ころを預かってくれ」


 籠の中では、角の生えた小熊みたいな魔物が丸まっている。


「病気ですか」

「健康だ」

「噛みますか」

「噛まん」

「何か壊しますか」

「何もしない」


 行商人は籠の取っ手を握ったまま、しばらく離さなかった。


「本当に何もしないんだ。食って、寝て、たまに転がる」


 ころが寝返りを打つ。


「それなら、一緒に旅をしても」

「俺が無理になった。冬の山道で、こいつを庇って歩くのが怖い」


 行商人は籠の中へ手を入れ、ころの耳を一度なでた。


「荷を捨てても、たぶんこいつは捨てられん。だから雪が来る前に、ここへ置いていきたい」


 よく分かっている。

 俺は籠を受け取った。

 扉を開けると、ころは転がり出て、かまどの前で止まる。

 それから本当に何もしなかった。

 翌月、行商人が来ると、ころは朝から道の方を向いていた。

 行商人が座る。

 ころは膝へ前足を一本だけ乗せた。

 行商人も、日が傾くまで立たなかった。


 五匹目と六匹目は、雨の夜に自分で来た。

 窓を叩く音で目を覚ます。

 戸を開けると、濡れた二匹が並んでいた。片方は薄い翼をもう片方へ傾け、雨を避けさせている。傾けている方が、よく濡れていた。


「入るか」


 二匹は俺ではなく、くろを見た。

 くろが翼を少し開く。

 それを返事だと思ったらしく、二匹はかまどの前まで走り、重なって眠った。

 翌朝、乾いた毛は白と灰色だった。

 白い方をしろ、灰色の方をはいと呼ぶ。

 雨の夜には、はいがしろへ翼を傾ける。晴れの日には、しろがはいの耳を舐めていた。



 六匹になった頃、村長が小屋へ来た。

 庭では、くろが翼を干している。

 まるは屋根から煙突をのぞき、あおは水桶からできるだけ離れて魚を食べていた。

 ころは村長の足元まで転がり、そこで止まる。


「増えたな」

「増えました」

「どうにかしてくれ」


 村長の後ろには、村人が何人か立っていた。

 納屋へ入るのが怖い。子どもが小屋へ遊びに来たがる。何の魔物か分からないものを、村の近くへ置くな。

 どれも、もっともな話だった。


「森へ返せないのか」


 くろは飛べる。

 まるは自分で来た。あおも川で暮らせるだろう。

 しろとはいには傷もない。

 返せない理由を探せば、たぶん見つからない。

 けれど、くろは俺の足へ翼をかぶせて寝る。

 まるは毎朝、屋根をへこませて起こす。

 あおは魚を食べずに持ち帰る。

 しろとはいを、また雨の外へ出すところだけは想像できなかった。


「すみません」


 それしか言えない。


「手放せないのか」

「はい」


 村人の顔が曇る。

 迷惑をかけたいわけではない。怖がるなとも言えない。

 明日の朝、皿を減らすために手を伸ばす。そこまで考えて、指が動かなくなった。


「小屋の周りから出さないようにします。柵も高くします」

「金はあるのか」

「少しずつやります」


 村長は長く黙った。


「三日後、男手を出す」

「え」

「今の柵では、出さないようにできんだろう」


 村人の一人が、余った材木を置いていくと言った。

 別の人は、子どもを近づけない札を書くという。

 三日後、俺が穴をひとつ掘る間に、村人たちは柱を四本立てる。

 バルドさんは柵板を打ちつけながら、まるが盗んだ芋の数を請求した。

 まるはその横で、別の芋を掘っていた。

 新しい柵ができた夕方、村の入口に札が立つ。


『魔物に勝手に触るな』


 その下に、小さな字が増えていた。


『触るなら本人に聞け』


 本人が俺なのか魔物なのか、村長に聞きそびれた。



 柵ができてから、村人が魔物を連れてくるようになった。

 最初は、パン屋の婆さんだった。

 納屋へ入り込んだ綿毛の塊を抱え、困った顔で立っている。


「追い出しても戻るんだよ」


 外へ置くと、綿毛は婆さんの頭を踏み台にして、俺の肩へ跳び乗った。

 婆さんは固いパンを一袋置き、何も言わずに帰った。

 七匹目になった綿毛は、夜になると俺の枕を使う。


 八匹目とは、森で薬草の取り合いになった。

 角の欠けた山羊みたいな魔物が、俺の籠から薬草だけを抜いて食べる。

 干し肉もパンも食べない。

 薬草をもう一束差し出すと、泣きそうな顔で飲み込んだ。

 俺が帰ろうとすると、少し離れてついてくる。

 止まると止まり、歩くと歩いた。

 小屋まで来たので、欠けた角へ薬を塗る。

 翌朝、玄関に薬草が一本置かれていた。

 食べる分とは別に、俺へ残したらしい。


 九匹目は、いつ来たのか分からなかった。

 市場から帰ると、壁際の籠が動く。

 持ち上げたら、籠のふりをしていた丸い魔物が足を出して逃げた。

 翌朝は椅子のふりをしている。

 座る前に気づけてよかった。


 十匹目は、村の子ティバが両手で運んできた。

 手の中には、黄色い毛玉。

 毛玉も震えていたが、ティバの指はもっと震えている。


「父ちゃんが、ここなら置いてもいいって」

「飼いたかったのか」

「うちは妹が小さいから、だめだって」


 正しい判断だと思う。

 何の魔物か分からないし、噛むかもしれない。


「名前は」

「ぬか。色が、ぬかみたいだから」


 黄色い毛の奥から、大きな目がふたつ出てきた。


「分かった。ぬかは、うちで預かる」

「捨てない?」


 ティバの指から、力が抜けない。

 俺は両手を下へ添えた。


「俺は、それができない」


 ようやく、ぬかがこちらへ移る。

 その日から、ティバは毎日小屋へ来た。

 ぬかに会いに来たとは言わず、くろに乗せてもらい、まると芋を掘る。

 帰り際にだけ、ぬかをなでた。

 ぬかも、ティバが来る時刻になると戸口で待つ。


 十一匹目は、納屋の隅から動かなかった。

 食事を置き、俺は帰った。

 次の日は少し近くへ置く。

 七日目に手から食べ、十日目に小屋までついてきた。

 小屋へ来てからも、そいつは隅が好きだった。

 夜になると、村へ続く道が見える柵の端へ座る。

 雨の日に毛布を持って隣へ座ると、遠い山道に行商人の灯りが見える。

 灯りが村へ着くまで、そいつはそこを離れなかった。

 次の晩から、柵の端にも水の皿を置いた。


 十二匹目は、夜中に窓の外から俺を見ていた。

 光る目が、窓いっぱいにふたつ。

 驚いて布団から落ちる。

 外へ出ると、ロバより大きな毛むくじゃらが座っていた。大きな体を縮め、申し訳なさそうに耳を伏せている。

 前足には、折れた枝が刺さっていた。


「見せてみろ」


 枝を抜き、傷を洗って布を巻く。

 終わると、毛むくじゃらは俺を鼻先で持ち上げ、小屋の中へ運んだ。


「自分で歩ける」


 床へ下ろされた。

 翌朝、毛むくじゃらは棚の上にいた。

 どうやって乗ったのかは、今も分からない。



 十二匹になっても、朝にすることはあまり変わらなかった。

 皿を並べる。

 あおが運んだ魚を焼く。

 まるが勝手に掘った芋から、かじられていない部分を切り出す。

 ころは食事が始まるまで動かない。始まってからも、皿の方を向くだけで動かなかった。

 俺が運ぶ。


 村人も、少しずつ小屋へ寄るようになった。

 最初は柵の外から見ているだけ。

 次は、余った野菜を置いてすぐ帰る。

 やがて畑仕事の帰りに柵へ腰をかけ、くろの翼の陰で水を飲むようになった。

 まるが芋を掘りすぎれば、バルドさんが後ろから埋める。

 あおが魚を運べば、パン屋の婆さんが香草をのせて焼いた。

 欠けた角の魔物が置く薬草は、村長の腰へよく効く。

 怖くないものになったわけではない。

 それでも、名前を呼ぶ声は増えた。


 夏の終わり、俺は熱を出した。

 朝、まるが屋根で跳ねても起きられない。

 餌の皿は空だった。

 畑へ出なければならない。水もない。薪も少ない。

 布団から腕を出すと、ころがその上へ転がってくる。


「どいてくれ」


 動かない。

 反対側から起きようとすると、くろが翼で押し戻した。


「今日は、やることが多いんだ」


 自分でも驚くほど、かすれた声が出る。

 くろは鼻先を俺の額へつけた。

 それから戸口へ行き、爪で戸を叩き始める。

 屋根では、まるが何度も跳ねた。


「屋根が抜ける」


 言い終わる前に、戸が開く。

 ティバが顔を出し、俺を見るなり村へ走っていった。

 ぬかは枕元へ残り、俺の頬へ黄色い体を押しつける。

 冷たい鼻先だった。


 しばらくすると、パン屋の婆さんとバルドさん、それに村長まで来た。


「畑はやっておく」

「水は青いのが運び始めてるよ」

「井戸は怖いはずなんですが」

「川から来てる。ずいぶん遠回りだねえ」


 窓の外を見る。

 あおが小さな桶をくわえ、庭を横切っていた。

 水をこぼさないよう、いつもの倍ほどゆっくり歩いている。

 枕元には魚が置かれ、足元には薬草が三本並ぶ。

 いつも玄関へ一本だけ置く魔物が、その日は布団の横から動かない。

 婆さんが薬草を煎じる。

 村長は空の皿へ餌を入れた。

 バルドさんは戸口に立ち、入ろうとするまるを三度押し返す。


「寝床が壊れる」

「もう屋根がへこんでいる」

「それは元からです」

「元からではない」


 熱は二日で下がった。

 三日目に外へ出ると、畑の草は抜かれ、水桶は満ち、薪まで割られている。

 誰がどこまでやったのか聞いたが、村人はそれぞれ別の者を指す。


「俺は畑だけだ」

「薪は黒いのが割ったんじゃないか」

「くろが割ると、粉になります」


 薪は、実際に半分ほど粉になっていた。

 残り半分は、同じ長さにきれいに揃っている。

 その晩、熱は下がったのに、誰も元の寝床へ戻らない。

 ころは腕の上。

 ぬかは首元。

 綿毛は枕を全部使っている。

 くろの翼が、戸口から入る風をふさいだ。

 重くて、暑い。

 起き上がろうとすると、ころが少しだけ転がり、また腕の上で止まる。


 四日目、畑へ出ようとした。

 戸口には、バルドさんが立っていた。


「もう治りました」

「見れば分かる」

「では、畑へ」

「今日は俺の畑を手伝え」


 言われた通り隣の畑へ行くと、やることは残っていなかった。

 草は抜かれ、畝も整っている。

 バルドさんは俺へ空の籠を持たせ、そのまま小屋へ戻った。

 庭では、村人たちが新しい餌台を作っていた。

 十二枚の皿を並べても、まだ端に余裕がある長さ。


「数が合わなくなったら、継ぎ足せ」


 村長が言う。

 俺が返事をする前に、くろが翼で餌台を押し、壁際へ少し動かした。

 あおがその下へ水皿を運ぶ。

 まるは真ん中の皿へ芋を置いた。

 ころだけは、古い皿の前から動かない。

 俺は古い皿ごと抱え、新しい餌台の端へ移した。

 ころは一度転がり、俺の靴へ背中をつけて止まった。



 秋の夜、くろが帰ってこなかった。

 いつもなら、夕飯の匂いがする前には屋根へ降りる。

 空が暗くなっても、羽音がしない。


「くろ」


 庭で呼ぶ。

 返事はなかった。

 灯りを持って森へ入る。

 まるが前を走り、あおが川沿いを探す。

 しろとはいは木々の間を飛び、ころまで転がりながらついてきた。

 ぬかは俺の襟へ潜り込んでいる。

 夜露で靴が濡れた。

 枝で腕を切った。

 森へ返せないのか、と村長に聞かれた日のことが浮かぶ。

 飛べるようになった朝、くろは一度空へ消えた。

 あのとき持っていた空の桶より、今の手の方がずっと冷たい。


「くろ!」


 喉が痛くなるまで呼ぶ。

 村の方から明かりが来た。

 バルドさんと村長、それに何人もの村人が松明を持っている。


「森の奥は俺たちが見る」

「でも」

「お前は川へ行け。あれは橋の下にいたんだろう」


 夜通し探した。

 見つからない。

 明け方、小屋へ戻る。

 入口の前に、くろが座っていた。

 泥だらけで、片方の翼に木の葉をつけている。

 その足元には、見たことのない大きな牙が転がっていた。


「くろ」


 灯りを落とし、翼を開かせる。

 足を触り、腹を見て、口の中まで確かめた。

 傷はない。

 そこで膝から力が抜けた。

 冷えた地面へ座り込むと、くろが胸へ頭を押しつけてくる。

 泥で服が濡れる。

 俺は両腕を回し、そのまま動けなかった。

 あとから戻った村人たちは、牙を見た。

 誰も、それが何の牙かは言わない。

 村長だけが、自分の外套を俺とくろの背へかけた。



 長老が古い本を抱えて来たのは、その数日後だった。

 庭では、くろの背にティバが乗っている。

 まるは屋根で寝ていた。

 あおは井戸を避けるため、大きく遠回りして歩いている。

 長老は色のあせた挿絵を見せた。


「これは黒翼の王獣。竜を狩る魔物だ」

「翼が、くろに似てますね」

「似ているのではない。あれだ」


 くろはティバを乗せたまま、庭をゆっくり回っていた。


「人を乗せられるんですね」

「そこではない」


 長老は次の頁をめくる。

 水を割って進む、青い長い獣が描かれていた。


「これは水底の主。川一本を干上がらせるとある」

「あおは井戸を怖がります」

「知りたくなかった」


 長老は本を閉じた。


「ほかにも十匹います」

「知りたくない」


 二度言って帰った。

 その日の夕方、村長が入口の札の下へ、大きな字を足した。


『村にも勝手に入るな』


「商人まで来なくなりませんか」

「礼儀のある商人なら、先に声をかける」


 月に一度の行商人は、村の入口でくろへ会釈をした。

 くろも片方の翼を少し上げる。

 行商人はころ用の赤い布を抱え、小屋まで歩いた。

 ころは道の真ん中で待っていた。



 兵士が来たのは、冬前の晴れた日だった。

 俺は庭で、新しい薪棚を作っている。

 剣は持っていない。

 魔法も使えない。

 手にあるのは、釘を打つための金槌だけ。


 村の入口から、馬の蹄と怒鳴り声が聞こえた。

 続いて、ティバの叫び声。


「おじさん!」


 ティバが走ってくる。

 頬に泥がつき、片方の靴がない。

 胸には、ぬかがしがみついていた。

 黄色い毛の奥で、大きな目が震えている。

 その後ろから、見慣れない鎧の兵士が三人、馬で追ってきた。


「止まれ! その金色の霊獣を渡せ!」


 ティバが庭へ転がり込む。

 俺は金槌を置く暇もなく、両腕で受け止めた。

 ぬかがティバと俺の胸の間で鳴く。

 潰していないか確かめようとしゃがむと、ティバが俺の服をつかんだ。


「ぬかを、持っていくって」


 兵士の馬が柵の前で止まる。

 ぬかはティバの胸から離れない。

 俺はふたりを小屋へ入れようとした。

 けれどティバの片足には靴がなく、膝から血が出ている。

 抱き上げるために立ち位置を変える。

 気づけば、俺だけがふたりの前に残っていた。

 右手には金槌。

 左手は、ティバの頭へ伸ばしたまま。


「どけ。お前には関係ない」


 兵士が言う。

 ぬかが、ティバの胸でさらに小さくなる。

 渡せば終わるのかもしれない。

 前世の雨の夜にも、帰ればよかった。

 職場の裏口でも、見なかったことにできる。

 階段から落ちる朝だって、猫を踏んでいれば俺は立っていた。

 俺の足は、また動かなかった。


 背後で戸が開く。

 くろが出てきた。

 縁側で寝ていたころが、珍しく起き上がる。

 屋根から、どん、と音がして、まるが降りた。

 あおは井戸を避けながら庭へ入ってくる。

 小屋の陰、納屋の隅、梁の上。

 いつも勝手な場所にいる者たちが、こちらを見ていた。


 俺は、ぬかを見た。


「うちの子が、追われてるみたいなんだけど」


 それだけ言った。


 最初に立ったのは、くろだった。

 黒い翼が開く。

 庭も兵士も、大きな影へ入った。

 まるが地面へ降り、その丸い体が兵士の馬より大きく膨らむ。

 あおが喉を鳴らすと、井戸の水が柱になって空へ上がった。

 本人が一番驚き、俺の後ろへ隠れる。

 欠けていた角から芽が伸び、枝分かれして兵士の頭上を覆った。

 しろとはいが重なって光る。

 小さな輪郭が消え、空に長い影がふたつ走った。

 ころは一度だけ転がる。

 地面が低く鳴り、三頭の馬が座り込んだ。

 綿毛は俺の肩で毛を逆立てる。

 籠のふりをしていた者は、いつの間にか兵士の背後で荷車のふりをしていた。

 隅を好む者は、村へ続く道をふさいでいる。

 大きな毛むくじゃらは棚から降りた。

 一度も地面へ触れず、兵士たちの横へ座る。


 十二匹。

 誰も、俺の合図を待っていなかった。


 兵士たちは剣を抜かなかった。

 馬から転げ落ち、来た道を走って戻っていく。

 追いかけたのは、くろだけだった。

 ほかの者は、もう興味をなくしている。

 まるは屋根へ戻った。

 あおは水柱を見上げたまま、俺の服へ爪をかけていた。

 ころは赤い布の上で丸くなる。

 しろとはいは、小さな二匹へ戻って互いの翼を舐め始めた。


「終わったの?」


 ティバが、ぬかを抱いたまま聞いた。


「たぶん」


 俺にも分からない。

 しゃがんで、ティバの膝を洗う。

 布を巻き終える頃、くろが戻ってきた。

 口に、見慣れない軍旗をくわえている。


「それは返してきなさい」


 くろは嫌そうな顔をした。

 ティバが笑う。

 ぬかが腕の中で跳ねた。

 俺はそこでようやく、金槌を地面へ置いた。



 夜になり、人が帰る。

 軍旗は村長が物置へしまった。

 ティバの膝の布は、ぬかと同じ黄色にした。


 戸を閉め、火を落とす。

 暗い部屋を寝床まで歩く。

 足元には誰かいるので、今度はちゃんと確かめる。

 ころをまたぎ、くろの翼をよけ、布団へ入った。

 枕には綿毛が先に寝ている。

 まるが屋根で一度跳ね、あおが水皿から逃げる音がした。


 窓の外で、小さな音がする。

 起き上がると、くろも顔を上げた。

 部屋のあちこちで、十二匹ぶんの目が開く。

 窓を開ける。

 透明な、手のひらほどの生き物が、窓枠の上で震えていた。

 俺が手を差し出す前に、くろの翼が背中からかぶさる。

 ころが足首へ転がり、枕の綿毛が空いた場所をひとつ作った。

 透明な生き物は、その場所へ飛び込んだ。

 くろの翼に押され、俺も布団の真ん中へ戻った。

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― 新着の感想 ―
読んで真っ先に思った感想は優しいお話だなと思いました。 主人公は猫だけではなく生き物全てに優しいんだろうなと。私自身も猫が2匹いますが、かなり前に猫とか動物を側に置いたら生き物全てに情が湧くようになる…
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