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「好きだ」と言えば君の恋が消えるので、幼馴染の告白を三年保留している

作者: シラフ
掲載日:2026/06/07

「私、瀬戸くんに告白された」


美緒はそう言って、俺のソーダアイスをひと口かじった。


ひと口にしては長かった。返ってきた棒には、青い氷がほとんど残っていない。


「聞いてる?」


「聞いてる。あと、それ俺の」


「陽太が何も言わないから溶けてた」


七月二十三日。市民プールの帰り道。


照り返しのきつい歩道で、美緒の濡れた髪から塩素のにおいがした。


瀬戸は同じクラスの男子だ。バスケ部で、授業中に寝なくて、誰かが休めば黒板の写真を送る。悪く言うところを探すほうが難しい。


「返事は」


「まだ。八月の夏祭りまで待ってもらった」


一か月ある、と考えた直後、美緒が続けた。


「それと、引っ越すことになった。八月三十一日に福岡」


今度は、手に残った棒まで落としかけた。


「急だな」


「お父さんの転勤。単身赴任の予定だったけど、おばあちゃんのこともあるから、みんなで行くって」


「そっか」


「うん」


美緒は俺が何かを返すまで待つ顔をした。


三年前、神社の石段の下で告白したときと同じ顔だった。


『好き。幼馴染じゃなくて、ちゃんと』


あの夏から、美緒は俺の返事を待っている。


俺も美緒が好きだ。


ただし、それを美緒に伝えた瞬間、美緒の恋は消える。


俺には、そういう呪いがある。


「陽太はさ」


美緒は空になった棒を指で回した。


「今度も、もう少し待ってって言う?」


「……瀬戸の返事を、俺に聞くなよ」


「そうじゃないよ」


「わかってる」


美緒は前を向いた。


俺たちの家は同じ方向にある。物心がついたころから、帰り道もずっと同じだった。


その道が、八月三十一日に途中で切れる。


黙っていれば、美緒は遠くへ行く。瀬戸の隣に行くかもしれない。


言えば、その場で俺を好きではなくなる。


三年前から避けてきた二つが、同時に俺の前へ来ていた。



呪いが初めて発動したのは、中学一年の冬だった。


相手は同じ図書委員の森下さんだ。


放課後の図書室でよく話した。好きな小説を貸し借りして、返すときには感想を書いた付箋を挟んだ。


ある日、返ってきた本に『私も好き』と書かれていた。


小説の話ではないと、その下の小さな字でわかった。


俺は家に帰ってから、何度も書き直したメッセージを送った。


『俺も、森下さんが好きです』


送信済みになった直後、画面の向こうから文字が消えた。


森下さんが送信を取り消したのだと思った。


翌朝、教室で話しかけると、森下さんは困った顔をした。


「ごめん。なんで私の好きな本、知ってるの?」


冗談ではなかった。


彼女は俺に告白したことも、半年間一緒に図書室を片づけたことも覚えていなかった。


貸していた本は、知らないうちに鞄へ入っていたと言って返された。見返しに残っていた二人分の付箋を、気味が悪そうに剥がしながら。


あとで祖母に聞いた。


祖母はしばらく黙ってから、台所の火を止めた。


「人を恋う言葉を、その人へ渡してはいけないよ。声でも、手紙でも、今の電話でも同じ」


「渡したら、どうなるの」


「向こうの恋心がなくなる。おまえとその人をつないでいた記憶も、いくつか持っていかれる」


祖母もそうだった。


祖父に一度だけ伝え、祖父は祖母との初めての旅行を忘れたらしい。


「治らないの」


「私は治し方を知らない」


祖母はそれだけ言った。


理由も、誰が始めたのかも教えてくれなかった。本当に知らないのかもしれない。


試す気にはなれなかった。


森下さんが俺を避けるようになったあとも、図書室の窓際に置いていた小さなサボテンだけは残った。


二人で百円ずつ出して買ったものだ。


彼女は、それを自分で買ったと思っていた。


呪いは何もかも消すわけではない。


だから、余計にたちが悪い。



「陽太、その箱は持っていくほう」


「福岡って書いてあるだろ」


「それ、捨てるって意味」


「どういう略し方だよ」


「福岡市のごみ処理施設へ」


「嘘つけ」


美緒の部屋には、段ボールが七箱積まれていた。


持っていく。捨てる。陽太。保留。


俺の名前が書かれた箱を開けると、青い風鈴、古いゲームソフト、片目の塗装が剥げたペンギンのキーホルダーが入っていた。


「人を分類に使うな」


「陽太の家に置いとく物」


「勝手に決めるな」


「じゃあ捨てる?」


「それはもったいない」


「知ってた」


美緒は床に座って、本棚から漫画を抜いた。俺はその横で箱の底を補強した。


三年前に告白されてからも、美緒の部屋へ入ることは珍しくなかった。


机の二段目に菓子があることも、ベッドの下に小学校の卒業文集があることも知っている。


変えないようにしてきた。


美緒が俺を好きなままでいられるように。


「瀬戸、手伝いに来ないの」


聞くつもりはなかった。


美緒は漫画を持ったまま、こちらを見た。


「呼んでほしい?」


「俺が決めることじゃない」


「じゃあ聞かないでよ」


「悪い」


美緒は漫画を箱へ入れた。角が引っかかり、少し折れた。


「瀬戸くんには、引っ越すことを言った」


「それでも告白したのか」


「する前から知ってたよ。だから、遠距離でもいいって」


立派だと思った。


俺は同じ家まで数十メートルの距離で、三年も返事をしていない。


「瀬戸くん、いい人だよ」


「知ってる」


「私が三年前から別の人を待ってることも知ってる」


箱を押さえていた手に力が入った。


「言ったのか」


「名前は言ってない。でも、返事をもらえないまま福岡には行けないって言った」


「それで待つって?」


「うん。夏祭りまで。それで私がだめなら、あきらめるって」


瀬戸は、やはり悪く言えない。


美緒が俺の前に座った。膝が触れそうな距離だった。


「陽太。私が瀬戸くんと付き合っても、今までどおりでいてくれる?」


今までどおり。


俺が三年間守った言葉を、美緒は逃げ道として差し出した。


うなずけば、美緒は安心して瀬戸のところへ行ける。


首を振れば、その理由を聞かれる。


「箱、底抜けるぞ」


俺は立ち上がった。


美緒の返事はなかった。


廊下へ出る前に、机の上の写真が目に入った。


小学生の俺と美緒が、商店街のくじで当てたペンギンを両側から引っ張っている。


同じペンギンは、俺の名前が書かれた箱の中にある。


呪いが持っていく記憶を、こちらでは選べない。



瀬戸に呼び止められたのは、終業式のあとだった。


体育館から戻る生徒で廊下が詰まっているのに、瀬戸の周りだけ少し空いていた。背が高いせいだ。


「朝倉。少しいいか」


美緒の名字は水野で、俺は朝倉だ。


名前を呼ばれただけなのに、何を言われるかわかった。


俺たちは自販機の横へ移動した。


瀬戸は缶のスポーツ飲料を買い、開けずに持った。


「水野から、聞いた?」


「告白したことなら」


「そっか」


瀬戸は缶を見た。俺を責める顔ではなかった。


「水野が待ってる相手って、朝倉だよな」


否定できる。美緒は名前を言っていない。


けれど瀬戸は、答えを必要としていない目をしていた。


「だったら何だよ」


「祭りまでに、ちゃんと返事してやってほしい」


思っていた言葉と違った。


「おまえが言うのか」


「言う。待ってる人がいるまま付き合ってもらっても、たぶん俺がきつい」


瀬戸はようやく缶を開けた。炭酸でもないのに、少し中身が噴いた。


「それに、水野は断られるために待ってる感じがする」


「なんで」


「三年も待たせるやつが、今さらいい返事すると思えないだろ」


そのとおりだった。


俺がいい返事をすれば、美緒の気持ちは消える。


瀬戸は知らずに、正しいことを言っていた。


「俺が断ったら、おまえは美緒と付き合うのか」


「水野が決めることだ」


また、正しい。


正しいことばかり言われると、殴られるより腹が立つ。


「朝倉は、水野のことどう思ってるんだ」


自販機が低く鳴った。


本人に告げなければ、呪いは発動しない。瀬戸に言うことはできる。


それでも、口に出せなかった。


どこかで美緒へ届くかもしれない言葉は、もう怖かった。


「それ、美緒に聞かせる気か」


「言わない」


瀬戸は即答した。


嘘をついているようには見えなかった。


「なら、好きだよ」


声にした途端、喉の奥が痛んだ。


美緒へ向けていない言葉は、何も奪わない。


廊下の向こうで、美緒が友達と笑っていた。こちらには気づいていない。


「だったら言えよ」


瀬戸の声には、初めて怒りが混じった。


「言えないんだ」


「三年待たせてる理由になるか、それ」


「なるんだよ」


説明しても信じないと思った。


信じられなくて当然だ。森下さんの記憶から消えたものは、俺以外の誰にも証明できない。


けれど、このまま瀬戸を悪者にしておくのは違った。


「俺が恋愛の意味で好きだと本人に伝えると、相手の気持ちが消える」


瀬戸は黙った。


「俺を好きだったことと、俺との大事な記憶がいくつか消える。声でも文字でも同じ。前に一度、起きた」


言い終えるまで、瀬戸は笑わなかった。


「それ、水野は知ってるのか」


「知らない」


「なんで言わない」


「言って信じられるか」


「今の俺よりは、信じるだろ」


瀬戸は噴きこぼれた缶を制服の裾で拭いた。


「返事できない理由を言うだけなら、告白じゃないんだろ」


その可能性は、何度も考えた。


呪いを説明すれば、美緒は待つと言うかもしれない。


自分の恋が消えるのを恐れて、俺には何も言わせないかもしれない。


そうして福岡へ行っても、何年でも俺を待つかもしれない。


それは、三年保留した今よりましなのか。


「水野が信じるか、待つか、忘れてもいいと思うか。おまえが一人で全部決めるなよ」


瀬戸は飲み物を一気に飲んだ。


「俺は祭りで返事を聞く。そこは譲らない」


「わかってる」


「あと、その話が嘘だったら、普通に最低だからな」


「それもわかってる」


瀬戸は空き缶を捨て、先に教室へ戻った。


美緒とすれ違うとき、いつもの調子で手を上げていた。


美緒も手を上げた。


その自然さが、俺にはできないことのように見えた。



八月に入ってから、美緒は毎日のようにうちへ来た。


母さんが作りすぎたそうめんを食べて、俺の課題を写そうとして、見つかって怒られた。


コンビニで新しいアイスを見つければ、二つ買った。美緒は必ず俺の味もひと口欲しがった。


今までと同じ日が、あと何日あるのかだけは毎朝減った。


俺は一冊のノートを作った。


美緒と初めて会った日。小学校の帰りに迷って、二人で交番へ行った日。商店街でペンギンを取り合った日。


写真を貼り、日付を書き、何があったかを書いた。


呪いが発動したあと、森下さんに同じものを渡そうとしたことがある。


けれど、知らない相手との思い出を並べられた彼女は、怖がった。


だから、渡せば解決するものではない。


それでも書いた。


何を持っていかれるかわからないなら、残せるものを増やすしかなかった。


「何それ」


美緒が背後からのぞき込み、俺はノートを閉じた。


「課題」


「写真貼る課題なんかないでしょ」


「自由研究」


「高校二年生の?」


「自由だから」


「見せて」


美緒が手を伸ばす。俺はノートを頭の上まで持ち上げた。


「やだ」


「なんで」


「まだ途中」


「完成したら見せてくれる?」


完成したら。


それは、俺が美緒に伝えたあとだ。


「たぶん」


「また保留」


美緒は奪うのをやめた。


いつもならソファの端へ戻るのに、その日は俺の前に立ったままだった。


「瀬戸くんと話した?」


「少し」


「何を」


「本人に聞けよ」


「私のことなのに?」


「美緒のことだから」


自分でも、ひどい答えだと思った。


美緒はテーブルに置かれた麦茶を飲んだ。氷は全部溶けていた。


「陽太って、私のためみたいな顔して、何も選ばせてくれないよね」


返す言葉がなかった。


瀬戸と同じことを言われた。


「三年前もそう。待ってって言われたから、待つしかなかった」


「嫌なら待たなくてよかった」


「それを陽太が言うの?」


美緒の声は大きくなかった。


だから、逃げられなかった。


「好きな人に待ってって言われて、待たないの難しいよ」


その恋を守るためだった。


本当のことを言えば、美緒は今ここで俺を好きではなくなる。かといって黙っていても、好きなまま苦しませるだけだ。


結局、俺はどちらも選ばずに、三年分を美緒へ押しつけてきた。


「ごめん」


「それも、答えじゃない」


美緒は鞄を持って帰った。


忘れていったヘアゴムが、テーブルの端に残っていた。


ノートには、今日のことを書かなかった。



夏祭りの日、美緒は白い浴衣で来た。


金魚の模様が、歩くたびに帯の下で隠れたり出たりした。


「遅い」


「まだ七時前」


「俺が待った」


「知らないよ」


神社の石段の上には屋台の明かりが続いていた。焼きそばのソースと蚊取り線香のにおいが混じっている。


三年前、美緒はこの石段の下で俺に告白した。


今日は瀬戸が、祭りの終わりに返事を聞く。


「瀬戸は」


「友達と来てる。九時に鳥居のところ」


美緒は時間まで教えた。


俺に残されたのは二時間だった。


「金魚すくいしよう」


「福岡まで持っていけないだろ」


「陽太の家に置く」


「またかよ」


「嫌ならいい」


「嫌とは言ってない」


美緒は一枚目のポイを、水へ入れた瞬間に破った。


「下手すぎる」


「今日、紙が弱い」


「金魚に触ってもないぞ」


「陽太やって」


渡されたポイで、俺は赤い金魚を一匹すくった。


美緒は店のおじさんから袋を受け取り、しばらく水の中を見ていた。


「これも忘れるのかな」


心臓が強く鳴った。


「何を」


「今日のこと。引っ越したら忙しいし、新しい学校だし」


「美緒」


「何」


「話がある」


美緒は金魚の袋を胸の前で持ち直した。


俺たちは人の少ない社務所の裏へ回った。屋台の明かりが届かず、提灯の赤だけが木の幹に揺れている。


最初の花火が上がった。


腹に響く音が遅れて届いた。


「三年前、返事しなかった理由を話す」


美緒はうなずかなかった。


「俺が、恋愛の意味で誰かを好きだって本人に伝えると、その人の気持ちが消える」


自分の声が、遠く聞こえた。


「俺を好きだった気持ちと、俺との大切な記憶が、いくつか消える。前に一度、そうなった」


美緒の顔を見られなかった。


金魚の袋が、小さく鳴った。


「それで、三年?」


「うん」


「私が信じないと思った?」


「信じても、困るだろ」


「だからって」


美緒はそこで言葉を切った。


怒ると思っていた。作り話だと言われるとも思っていた。


美緒はしゃがみ込み、金魚の袋を地面に置いた。


「じゃあ、陽太が返事をしたら、私は陽太を好きじゃなくなるの」


「たぶん」


「三年前のことも忘れる?」


「何を忘れるかは、わからない」


「全部じゃない?」


「全部だったことはない」


「なんで知ってるの」


「前に、起きたから」


美緒は俺を見た。


森下さんの名前は聞かなかった。


「私には、選ばせないつもりだった?」


「……うん」


「最低」


「うん」


「そこで認めないでよ」


美緒は浴衣の袖で目元を押さえた。袖に薄く化粧がついた。


「私が瀬戸くんと付き合えば、陽太は安心?」


「安心はしない」


「でも、忘れない」


「うん」


「陽太のことを好きなまま、別の人と付き合うの?」


「それは」


「私が決めることだよ」


また、同じ言葉だった。


瀬戸に言われたときより痛かった。


美緒は立ち上がった。


「私、陽太に返事してほしい」


「聞いたら消える」


「わかってる」


「今までのこと、忘れるかもしれない」


「わかってないよ。怖いよ」


美緒の声が震えた。


「忘れたくない。陽太のこと、好きじゃなくなりたくない。でも、このまま福岡に行って、ずっと返事を待つのも嫌」


花火が続けて上がった。


赤と白の光が、美緒の頬の涙を何度も照らした。


「私が忘れたあと、陽太はどうするの」


答えは決めてきた。


決めたのに、口にするとずるくなる気がした。


「もう一回、好きになってもらえるようにする」


「それ、私が絶対好きになるみたいに聞こえる」


「違う。ならなくても、する」


「何を」


「アイス買ったり。宿題見せたり。福岡まで行ったり」


「地味」


「悪かったな」


美緒は泣きながら、少し笑った。


「今までと同じじゃん」


「今までは、言わないためにやってた」


俺は鞄からノートを出した。


表紙には何も書いていない。美緒は両手で受け取った。


最初のページを開き、すぐ閉じた。


「これ、あの自由研究?」


「途中だけど」


「読んだら、思い出せる?」


「わからない。前は、怖がられた」


「そっか」


美緒はノートを帯と胸の間へ挟んだ。


「じゃあ、忘れた私が怖がったら、ちゃんと離れてね」


「わかった」


言いたくなかった。


それでも、そこだけは美緒が決めることだった。


「瀬戸くんには、私から断る。今の私が決めたって、忘れないうちに言う」


「待ってもらわなくていいのか」


「待ってもらって、忘れた私が瀬戸くんを好きになるかもしれないよ」


胸の奥が縮んだ。


美緒は、少し意地悪な顔をした。


「嫌?」


「嫌だ」


「やっと言った」


九時を知らせる町内放送が鳴り始めた。


鳥居の向こうに、瀬戸らしい背の高い影が見えた。


美緒はそちらへ一度だけ手を上げた。瀬戸は動かずに待っている。


「陽太」


美緒が俺の手を取った。


「返事、してください」


指が冷たかった。


三年前も、きっと同じだった。俺は美緒の手を取らなかったから、知らなかった。


「美緒が好きだ」


言った瞬間、美緒の指から力が抜けた。


風が止んだ。


花火の音も、人の声も、そのまま聞こえている。それなのに、美緒の目から俺だけが消えたのがわかった。


美緒は手を引き、二人の間を見た。


「……朝倉くん?」


幼馴染を、名字で呼んだ。


息ができなかった。


美緒は自分の頬に触れた。涙がついた指を、不思議そうに見つめる。


「私、なんで泣いてるの」


「今、俺が」


好きだと言った、と繰り返すことはできない。


もう美緒の中に恋情がなければ、発動しないかもしれない。それでも試せなかった。


「告白した」


「私に?」


「うん」


「ごめんなさい」


美緒は反射のように言った。


覚悟していた言葉だった。


覚悟は、役に立たなかった。


「うん」


美緒は周りを見回した。置かれた金魚の袋、俺の鞄、自分の浴衣。


「待って。私、朝倉くんとお祭りに来たの?」


「そう」


「瀬戸くんに返事するはずで」


「それは覚えてる?」


「うん。でも、なんで朝倉くんと」


三年前の告白だけではない。


美緒の中から、俺と祭りへ来る理由までなくなっていた。


俺は地面の金魚を拾い、美緒へ渡した。


「これ、美緒が取った」


「水野です」


「知ってる」


声が変になった。


美緒は警戒しながら袋を受け取った。そのとき、帯に挟んだノートが落ちた。


「それも、美緒の」


「私の字じゃない」


「俺が書いた」


美緒は表紙を開いた。


一ページ目には、幼稚園の入園式の写真を貼ってある。


泣いている俺の手を、美緒が引っ張っていた。


『水野美緒。隣の家。初めて会った日から、勝手に俺の手を引く』


美緒は次のページをめくった。


小学校の運動会。商店街のペンギン。中学の入学式。何でもない帰り道。


「これ、全部」


「俺と美緒」


「でも、知らない」


「うん」


美緒の手が止まった。


去年の夏、二人で市民プールへ行った日のページだった。


写真の中の美緒は、俺のソーダアイスをかじって笑っている。


「私、これ覚えてる」


顔を上げた。


「プールは友達と行ったと思ってた。でも、このアイス。青くて、舌を見せ合って」


記憶は消えきっていなかった。


俺がいた場所だけが、雑に抜かれている。


美緒はノートを閉じた。知らない男の前で泣くのをこらえる顔をした。


「朝倉くんは、私の何だったの」


「幼馴染」


「それだけ?」


聞かれても、もう恋情は告げられない。


俺は三年前、美緒に言わせたままにした言葉を思い出した。


「美緒が、俺の返事を三年待ってた」


「三年?」


「今日、返事をした」


美緒はノートを抱えた。


「それで、私は忘れたの」


「うん」


「そうなるって、知ってた?」


「知ってた」


「ひどい」


「うん」


「また認める」


それは、美緒がさっき言った言葉だった。


覚えてはいない。ただ、同じところで怒った。


俺は笑いそうになって、失敗した。


美緒はそんな俺を見て、少しだけ眉を寄せた。


「これ、読んでもいい?」


「美緒のために書いた」


「読んだら、思い出さなきゃだめ?」


「思い出さなくていい」


「朝倉くんを、また好きにならなきゃだめ?」


喉が詰まった。


「ならなくていい」


美緒はうなずいた。


鳥居の下から瀬戸が歩いてきた。


こちらの様子を見て、足を速める。


「水野?」


「瀬戸くん。ごめん、私、ちょっと変で」


美緒は瀬戸を覚えている。


当たり前なのに、胸が痛んだ。


瀬戸は俺を見た。俺がうなずくと、すぐに意味を理解した。


「送る」


瀬戸が美緒へ言った。


「でも、返事」


「今日はいい。家まで送る」


美緒は迷ってから、うなずいた。


俺の家も同じ方向だった。


けれど、一緒には行かなかった。


美緒はノートと金魚を抱え、何度か振り返りながら瀬戸と石段を下りていった。


最後に振り返ったとき、俺たちが幼馴染だったころの顔を探してしまった。


そこにあったのは、知らない同級生を気にする顔だけだった。



美緒が引っ越すまでの一週間、俺は会わなかった。


会いに行かなかった、が正しい。


ノートを読んだ美緒が怖がったら離れると約束した。連絡がない以上、こちらから行くことはできなかった。


八月三十一日の朝、隣の家の前に引っ越しトラックが止まった。


カーテンの隙間から見ていると、美緒の父親と作業員が段ボールを運んでいた。


青い風鈴も、ペンギンも、金魚も、美緒が持っていくことになったらしい。


俺の家に置かれるはずだったものは、一つも来なかった。


十一時を過ぎ、トラックが先に出た。


美緒の家の玄関が閉まる音がした。


見送りには行かなかった。


行く理由を、美緒は覚えていない。


スマートフォンが鳴った。


美緒からだった。


メッセージには、写真が一枚ついていた。


車の後部座席。膝の上に、あのノートとペンギンのキーホルダーが置かれている。


『ノート、全部読んだ』


次の文が来るまで、長かった。


『まだ朝倉くんのことは好きじゃないです』


わかっていた。


文字で読んでも、やはり痛かった。


『でも、知らないままにするのは嫌でした』


『福岡に着いたら、金魚の水槽を買います。朝倉くんがすくったらしいので、飼い方を教えてください』


窓の外で、車のエンジンがかかった。


俺はカーテンを開けた。


美緒を乗せた車が、隣の家の前から動き出す。


後部座席の窓が開き、美緒がこちらを見つけた。


手を振るまでに少し迷ってから、ノートを窓越しに持ち上げた。


俺はスマートフォンへ返事を打った。


長い文を書いて、消した。


また好きになってほしいとは書けない。待っていてとも書けない。


だから、金魚が今日食べる餌の量だけを送った。


車が角を曲がる直前、美緒からもう一通届いた。


『あと、次に会ったら、最初から友達になってください』


帰り道は、もう同じ方向にはなかった。


それでも俺は、福岡までの運賃を調べながら、空になった隣の家をしばらく見ていた。

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