「好きだ」と言えば君の恋が消えるので、幼馴染の告白を三年保留している
「私、瀬戸くんに告白された」
美緒はそう言って、俺のソーダアイスをひと口かじった。
ひと口にしては長かった。返ってきた棒には、青い氷がほとんど残っていない。
「聞いてる?」
「聞いてる。あと、それ俺の」
「陽太が何も言わないから溶けてた」
七月二十三日。市民プールの帰り道。
照り返しのきつい歩道で、美緒の濡れた髪から塩素のにおいがした。
瀬戸は同じクラスの男子だ。バスケ部で、授業中に寝なくて、誰かが休めば黒板の写真を送る。悪く言うところを探すほうが難しい。
「返事は」
「まだ。八月の夏祭りまで待ってもらった」
一か月ある、と考えた直後、美緒が続けた。
「それと、引っ越すことになった。八月三十一日に福岡」
今度は、手に残った棒まで落としかけた。
「急だな」
「お父さんの転勤。単身赴任の予定だったけど、おばあちゃんのこともあるから、みんなで行くって」
「そっか」
「うん」
美緒は俺が何かを返すまで待つ顔をした。
三年前、神社の石段の下で告白したときと同じ顔だった。
『好き。幼馴染じゃなくて、ちゃんと』
あの夏から、美緒は俺の返事を待っている。
俺も美緒が好きだ。
ただし、それを美緒に伝えた瞬間、美緒の恋は消える。
俺には、そういう呪いがある。
「陽太はさ」
美緒は空になった棒を指で回した。
「今度も、もう少し待ってって言う?」
「……瀬戸の返事を、俺に聞くなよ」
「そうじゃないよ」
「わかってる」
美緒は前を向いた。
俺たちの家は同じ方向にある。物心がついたころから、帰り道もずっと同じだった。
その道が、八月三十一日に途中で切れる。
黙っていれば、美緒は遠くへ行く。瀬戸の隣に行くかもしれない。
言えば、その場で俺を好きではなくなる。
三年前から避けてきた二つが、同時に俺の前へ来ていた。
*
呪いが初めて発動したのは、中学一年の冬だった。
相手は同じ図書委員の森下さんだ。
放課後の図書室でよく話した。好きな小説を貸し借りして、返すときには感想を書いた付箋を挟んだ。
ある日、返ってきた本に『私も好き』と書かれていた。
小説の話ではないと、その下の小さな字でわかった。
俺は家に帰ってから、何度も書き直したメッセージを送った。
『俺も、森下さんが好きです』
送信済みになった直後、画面の向こうから文字が消えた。
森下さんが送信を取り消したのだと思った。
翌朝、教室で話しかけると、森下さんは困った顔をした。
「ごめん。なんで私の好きな本、知ってるの?」
冗談ではなかった。
彼女は俺に告白したことも、半年間一緒に図書室を片づけたことも覚えていなかった。
貸していた本は、知らないうちに鞄へ入っていたと言って返された。見返しに残っていた二人分の付箋を、気味が悪そうに剥がしながら。
あとで祖母に聞いた。
祖母はしばらく黙ってから、台所の火を止めた。
「人を恋う言葉を、その人へ渡してはいけないよ。声でも、手紙でも、今の電話でも同じ」
「渡したら、どうなるの」
「向こうの恋心がなくなる。おまえとその人をつないでいた記憶も、いくつか持っていかれる」
祖母もそうだった。
祖父に一度だけ伝え、祖父は祖母との初めての旅行を忘れたらしい。
「治らないの」
「私は治し方を知らない」
祖母はそれだけ言った。
理由も、誰が始めたのかも教えてくれなかった。本当に知らないのかもしれない。
試す気にはなれなかった。
森下さんが俺を避けるようになったあとも、図書室の窓際に置いていた小さなサボテンだけは残った。
二人で百円ずつ出して買ったものだ。
彼女は、それを自分で買ったと思っていた。
呪いは何もかも消すわけではない。
だから、余計にたちが悪い。
*
「陽太、その箱は持っていくほう」
「福岡って書いてあるだろ」
「それ、捨てるって意味」
「どういう略し方だよ」
「福岡市のごみ処理施設へ」
「嘘つけ」
美緒の部屋には、段ボールが七箱積まれていた。
持っていく。捨てる。陽太。保留。
俺の名前が書かれた箱を開けると、青い風鈴、古いゲームソフト、片目の塗装が剥げたペンギンのキーホルダーが入っていた。
「人を分類に使うな」
「陽太の家に置いとく物」
「勝手に決めるな」
「じゃあ捨てる?」
「それはもったいない」
「知ってた」
美緒は床に座って、本棚から漫画を抜いた。俺はその横で箱の底を補強した。
三年前に告白されてからも、美緒の部屋へ入ることは珍しくなかった。
机の二段目に菓子があることも、ベッドの下に小学校の卒業文集があることも知っている。
変えないようにしてきた。
美緒が俺を好きなままでいられるように。
「瀬戸、手伝いに来ないの」
聞くつもりはなかった。
美緒は漫画を持ったまま、こちらを見た。
「呼んでほしい?」
「俺が決めることじゃない」
「じゃあ聞かないでよ」
「悪い」
美緒は漫画を箱へ入れた。角が引っかかり、少し折れた。
「瀬戸くんには、引っ越すことを言った」
「それでも告白したのか」
「する前から知ってたよ。だから、遠距離でもいいって」
立派だと思った。
俺は同じ家まで数十メートルの距離で、三年も返事をしていない。
「瀬戸くん、いい人だよ」
「知ってる」
「私が三年前から別の人を待ってることも知ってる」
箱を押さえていた手に力が入った。
「言ったのか」
「名前は言ってない。でも、返事をもらえないまま福岡には行けないって言った」
「それで待つって?」
「うん。夏祭りまで。それで私がだめなら、あきらめるって」
瀬戸は、やはり悪く言えない。
美緒が俺の前に座った。膝が触れそうな距離だった。
「陽太。私が瀬戸くんと付き合っても、今までどおりでいてくれる?」
今までどおり。
俺が三年間守った言葉を、美緒は逃げ道として差し出した。
うなずけば、美緒は安心して瀬戸のところへ行ける。
首を振れば、その理由を聞かれる。
「箱、底抜けるぞ」
俺は立ち上がった。
美緒の返事はなかった。
廊下へ出る前に、机の上の写真が目に入った。
小学生の俺と美緒が、商店街のくじで当てたペンギンを両側から引っ張っている。
同じペンギンは、俺の名前が書かれた箱の中にある。
呪いが持っていく記憶を、こちらでは選べない。
*
瀬戸に呼び止められたのは、終業式のあとだった。
体育館から戻る生徒で廊下が詰まっているのに、瀬戸の周りだけ少し空いていた。背が高いせいだ。
「朝倉。少しいいか」
美緒の名字は水野で、俺は朝倉だ。
名前を呼ばれただけなのに、何を言われるかわかった。
俺たちは自販機の横へ移動した。
瀬戸は缶のスポーツ飲料を買い、開けずに持った。
「水野から、聞いた?」
「告白したことなら」
「そっか」
瀬戸は缶を見た。俺を責める顔ではなかった。
「水野が待ってる相手って、朝倉だよな」
否定できる。美緒は名前を言っていない。
けれど瀬戸は、答えを必要としていない目をしていた。
「だったら何だよ」
「祭りまでに、ちゃんと返事してやってほしい」
思っていた言葉と違った。
「おまえが言うのか」
「言う。待ってる人がいるまま付き合ってもらっても、たぶん俺がきつい」
瀬戸はようやく缶を開けた。炭酸でもないのに、少し中身が噴いた。
「それに、水野は断られるために待ってる感じがする」
「なんで」
「三年も待たせるやつが、今さらいい返事すると思えないだろ」
そのとおりだった。
俺がいい返事をすれば、美緒の気持ちは消える。
瀬戸は知らずに、正しいことを言っていた。
「俺が断ったら、おまえは美緒と付き合うのか」
「水野が決めることだ」
また、正しい。
正しいことばかり言われると、殴られるより腹が立つ。
「朝倉は、水野のことどう思ってるんだ」
自販機が低く鳴った。
本人に告げなければ、呪いは発動しない。瀬戸に言うことはできる。
それでも、口に出せなかった。
どこかで美緒へ届くかもしれない言葉は、もう怖かった。
「それ、美緒に聞かせる気か」
「言わない」
瀬戸は即答した。
嘘をついているようには見えなかった。
「なら、好きだよ」
声にした途端、喉の奥が痛んだ。
美緒へ向けていない言葉は、何も奪わない。
廊下の向こうで、美緒が友達と笑っていた。こちらには気づいていない。
「だったら言えよ」
瀬戸の声には、初めて怒りが混じった。
「言えないんだ」
「三年待たせてる理由になるか、それ」
「なるんだよ」
説明しても信じないと思った。
信じられなくて当然だ。森下さんの記憶から消えたものは、俺以外の誰にも証明できない。
けれど、このまま瀬戸を悪者にしておくのは違った。
「俺が恋愛の意味で好きだと本人に伝えると、相手の気持ちが消える」
瀬戸は黙った。
「俺を好きだったことと、俺との大事な記憶がいくつか消える。声でも文字でも同じ。前に一度、起きた」
言い終えるまで、瀬戸は笑わなかった。
「それ、水野は知ってるのか」
「知らない」
「なんで言わない」
「言って信じられるか」
「今の俺よりは、信じるだろ」
瀬戸は噴きこぼれた缶を制服の裾で拭いた。
「返事できない理由を言うだけなら、告白じゃないんだろ」
その可能性は、何度も考えた。
呪いを説明すれば、美緒は待つと言うかもしれない。
自分の恋が消えるのを恐れて、俺には何も言わせないかもしれない。
そうして福岡へ行っても、何年でも俺を待つかもしれない。
それは、三年保留した今よりましなのか。
「水野が信じるか、待つか、忘れてもいいと思うか。おまえが一人で全部決めるなよ」
瀬戸は飲み物を一気に飲んだ。
「俺は祭りで返事を聞く。そこは譲らない」
「わかってる」
「あと、その話が嘘だったら、普通に最低だからな」
「それもわかってる」
瀬戸は空き缶を捨て、先に教室へ戻った。
美緒とすれ違うとき、いつもの調子で手を上げていた。
美緒も手を上げた。
その自然さが、俺にはできないことのように見えた。
*
八月に入ってから、美緒は毎日のようにうちへ来た。
母さんが作りすぎたそうめんを食べて、俺の課題を写そうとして、見つかって怒られた。
コンビニで新しいアイスを見つければ、二つ買った。美緒は必ず俺の味もひと口欲しがった。
今までと同じ日が、あと何日あるのかだけは毎朝減った。
俺は一冊のノートを作った。
美緒と初めて会った日。小学校の帰りに迷って、二人で交番へ行った日。商店街でペンギンを取り合った日。
写真を貼り、日付を書き、何があったかを書いた。
呪いが発動したあと、森下さんに同じものを渡そうとしたことがある。
けれど、知らない相手との思い出を並べられた彼女は、怖がった。
だから、渡せば解決するものではない。
それでも書いた。
何を持っていかれるかわからないなら、残せるものを増やすしかなかった。
「何それ」
美緒が背後からのぞき込み、俺はノートを閉じた。
「課題」
「写真貼る課題なんかないでしょ」
「自由研究」
「高校二年生の?」
「自由だから」
「見せて」
美緒が手を伸ばす。俺はノートを頭の上まで持ち上げた。
「やだ」
「なんで」
「まだ途中」
「完成したら見せてくれる?」
完成したら。
それは、俺が美緒に伝えたあとだ。
「たぶん」
「また保留」
美緒は奪うのをやめた。
いつもならソファの端へ戻るのに、その日は俺の前に立ったままだった。
「瀬戸くんと話した?」
「少し」
「何を」
「本人に聞けよ」
「私のことなのに?」
「美緒のことだから」
自分でも、ひどい答えだと思った。
美緒はテーブルに置かれた麦茶を飲んだ。氷は全部溶けていた。
「陽太って、私のためみたいな顔して、何も選ばせてくれないよね」
返す言葉がなかった。
瀬戸と同じことを言われた。
「三年前もそう。待ってって言われたから、待つしかなかった」
「嫌なら待たなくてよかった」
「それを陽太が言うの?」
美緒の声は大きくなかった。
だから、逃げられなかった。
「好きな人に待ってって言われて、待たないの難しいよ」
その恋を守るためだった。
本当のことを言えば、美緒は今ここで俺を好きではなくなる。かといって黙っていても、好きなまま苦しませるだけだ。
結局、俺はどちらも選ばずに、三年分を美緒へ押しつけてきた。
「ごめん」
「それも、答えじゃない」
美緒は鞄を持って帰った。
忘れていったヘアゴムが、テーブルの端に残っていた。
ノートには、今日のことを書かなかった。
*
夏祭りの日、美緒は白い浴衣で来た。
金魚の模様が、歩くたびに帯の下で隠れたり出たりした。
「遅い」
「まだ七時前」
「俺が待った」
「知らないよ」
神社の石段の上には屋台の明かりが続いていた。焼きそばのソースと蚊取り線香のにおいが混じっている。
三年前、美緒はこの石段の下で俺に告白した。
今日は瀬戸が、祭りの終わりに返事を聞く。
「瀬戸は」
「友達と来てる。九時に鳥居のところ」
美緒は時間まで教えた。
俺に残されたのは二時間だった。
「金魚すくいしよう」
「福岡まで持っていけないだろ」
「陽太の家に置く」
「またかよ」
「嫌ならいい」
「嫌とは言ってない」
美緒は一枚目のポイを、水へ入れた瞬間に破った。
「下手すぎる」
「今日、紙が弱い」
「金魚に触ってもないぞ」
「陽太やって」
渡されたポイで、俺は赤い金魚を一匹すくった。
美緒は店のおじさんから袋を受け取り、しばらく水の中を見ていた。
「これも忘れるのかな」
心臓が強く鳴った。
「何を」
「今日のこと。引っ越したら忙しいし、新しい学校だし」
「美緒」
「何」
「話がある」
美緒は金魚の袋を胸の前で持ち直した。
俺たちは人の少ない社務所の裏へ回った。屋台の明かりが届かず、提灯の赤だけが木の幹に揺れている。
最初の花火が上がった。
腹に響く音が遅れて届いた。
「三年前、返事しなかった理由を話す」
美緒はうなずかなかった。
「俺が、恋愛の意味で誰かを好きだって本人に伝えると、その人の気持ちが消える」
自分の声が、遠く聞こえた。
「俺を好きだった気持ちと、俺との大切な記憶が、いくつか消える。前に一度、そうなった」
美緒の顔を見られなかった。
金魚の袋が、小さく鳴った。
「それで、三年?」
「うん」
「私が信じないと思った?」
「信じても、困るだろ」
「だからって」
美緒はそこで言葉を切った。
怒ると思っていた。作り話だと言われるとも思っていた。
美緒はしゃがみ込み、金魚の袋を地面に置いた。
「じゃあ、陽太が返事をしたら、私は陽太を好きじゃなくなるの」
「たぶん」
「三年前のことも忘れる?」
「何を忘れるかは、わからない」
「全部じゃない?」
「全部だったことはない」
「なんで知ってるの」
「前に、起きたから」
美緒は俺を見た。
森下さんの名前は聞かなかった。
「私には、選ばせないつもりだった?」
「……うん」
「最低」
「うん」
「そこで認めないでよ」
美緒は浴衣の袖で目元を押さえた。袖に薄く化粧がついた。
「私が瀬戸くんと付き合えば、陽太は安心?」
「安心はしない」
「でも、忘れない」
「うん」
「陽太のことを好きなまま、別の人と付き合うの?」
「それは」
「私が決めることだよ」
また、同じ言葉だった。
瀬戸に言われたときより痛かった。
美緒は立ち上がった。
「私、陽太に返事してほしい」
「聞いたら消える」
「わかってる」
「今までのこと、忘れるかもしれない」
「わかってないよ。怖いよ」
美緒の声が震えた。
「忘れたくない。陽太のこと、好きじゃなくなりたくない。でも、このまま福岡に行って、ずっと返事を待つのも嫌」
花火が続けて上がった。
赤と白の光が、美緒の頬の涙を何度も照らした。
「私が忘れたあと、陽太はどうするの」
答えは決めてきた。
決めたのに、口にするとずるくなる気がした。
「もう一回、好きになってもらえるようにする」
「それ、私が絶対好きになるみたいに聞こえる」
「違う。ならなくても、する」
「何を」
「アイス買ったり。宿題見せたり。福岡まで行ったり」
「地味」
「悪かったな」
美緒は泣きながら、少し笑った。
「今までと同じじゃん」
「今までは、言わないためにやってた」
俺は鞄からノートを出した。
表紙には何も書いていない。美緒は両手で受け取った。
最初のページを開き、すぐ閉じた。
「これ、あの自由研究?」
「途中だけど」
「読んだら、思い出せる?」
「わからない。前は、怖がられた」
「そっか」
美緒はノートを帯と胸の間へ挟んだ。
「じゃあ、忘れた私が怖がったら、ちゃんと離れてね」
「わかった」
言いたくなかった。
それでも、そこだけは美緒が決めることだった。
「瀬戸くんには、私から断る。今の私が決めたって、忘れないうちに言う」
「待ってもらわなくていいのか」
「待ってもらって、忘れた私が瀬戸くんを好きになるかもしれないよ」
胸の奥が縮んだ。
美緒は、少し意地悪な顔をした。
「嫌?」
「嫌だ」
「やっと言った」
九時を知らせる町内放送が鳴り始めた。
鳥居の向こうに、瀬戸らしい背の高い影が見えた。
美緒はそちらへ一度だけ手を上げた。瀬戸は動かずに待っている。
「陽太」
美緒が俺の手を取った。
「返事、してください」
指が冷たかった。
三年前も、きっと同じだった。俺は美緒の手を取らなかったから、知らなかった。
「美緒が好きだ」
言った瞬間、美緒の指から力が抜けた。
風が止んだ。
花火の音も、人の声も、そのまま聞こえている。それなのに、美緒の目から俺だけが消えたのがわかった。
美緒は手を引き、二人の間を見た。
「……朝倉くん?」
幼馴染を、名字で呼んだ。
息ができなかった。
美緒は自分の頬に触れた。涙がついた指を、不思議そうに見つめる。
「私、なんで泣いてるの」
「今、俺が」
好きだと言った、と繰り返すことはできない。
もう美緒の中に恋情がなければ、発動しないかもしれない。それでも試せなかった。
「告白した」
「私に?」
「うん」
「ごめんなさい」
美緒は反射のように言った。
覚悟していた言葉だった。
覚悟は、役に立たなかった。
「うん」
美緒は周りを見回した。置かれた金魚の袋、俺の鞄、自分の浴衣。
「待って。私、朝倉くんとお祭りに来たの?」
「そう」
「瀬戸くんに返事するはずで」
「それは覚えてる?」
「うん。でも、なんで朝倉くんと」
三年前の告白だけではない。
美緒の中から、俺と祭りへ来る理由までなくなっていた。
俺は地面の金魚を拾い、美緒へ渡した。
「これ、美緒が取った」
「水野です」
「知ってる」
声が変になった。
美緒は警戒しながら袋を受け取った。そのとき、帯に挟んだノートが落ちた。
「それも、美緒の」
「私の字じゃない」
「俺が書いた」
美緒は表紙を開いた。
一ページ目には、幼稚園の入園式の写真を貼ってある。
泣いている俺の手を、美緒が引っ張っていた。
『水野美緒。隣の家。初めて会った日から、勝手に俺の手を引く』
美緒は次のページをめくった。
小学校の運動会。商店街のペンギン。中学の入学式。何でもない帰り道。
「これ、全部」
「俺と美緒」
「でも、知らない」
「うん」
美緒の手が止まった。
去年の夏、二人で市民プールへ行った日のページだった。
写真の中の美緒は、俺のソーダアイスをかじって笑っている。
「私、これ覚えてる」
顔を上げた。
「プールは友達と行ったと思ってた。でも、このアイス。青くて、舌を見せ合って」
記憶は消えきっていなかった。
俺がいた場所だけが、雑に抜かれている。
美緒はノートを閉じた。知らない男の前で泣くのをこらえる顔をした。
「朝倉くんは、私の何だったの」
「幼馴染」
「それだけ?」
聞かれても、もう恋情は告げられない。
俺は三年前、美緒に言わせたままにした言葉を思い出した。
「美緒が、俺の返事を三年待ってた」
「三年?」
「今日、返事をした」
美緒はノートを抱えた。
「それで、私は忘れたの」
「うん」
「そうなるって、知ってた?」
「知ってた」
「ひどい」
「うん」
「また認める」
それは、美緒がさっき言った言葉だった。
覚えてはいない。ただ、同じところで怒った。
俺は笑いそうになって、失敗した。
美緒はそんな俺を見て、少しだけ眉を寄せた。
「これ、読んでもいい?」
「美緒のために書いた」
「読んだら、思い出さなきゃだめ?」
「思い出さなくていい」
「朝倉くんを、また好きにならなきゃだめ?」
喉が詰まった。
「ならなくていい」
美緒はうなずいた。
鳥居の下から瀬戸が歩いてきた。
こちらの様子を見て、足を速める。
「水野?」
「瀬戸くん。ごめん、私、ちょっと変で」
美緒は瀬戸を覚えている。
当たり前なのに、胸が痛んだ。
瀬戸は俺を見た。俺がうなずくと、すぐに意味を理解した。
「送る」
瀬戸が美緒へ言った。
「でも、返事」
「今日はいい。家まで送る」
美緒は迷ってから、うなずいた。
俺の家も同じ方向だった。
けれど、一緒には行かなかった。
美緒はノートと金魚を抱え、何度か振り返りながら瀬戸と石段を下りていった。
最後に振り返ったとき、俺たちが幼馴染だったころの顔を探してしまった。
そこにあったのは、知らない同級生を気にする顔だけだった。
*
美緒が引っ越すまでの一週間、俺は会わなかった。
会いに行かなかった、が正しい。
ノートを読んだ美緒が怖がったら離れると約束した。連絡がない以上、こちらから行くことはできなかった。
八月三十一日の朝、隣の家の前に引っ越しトラックが止まった。
カーテンの隙間から見ていると、美緒の父親と作業員が段ボールを運んでいた。
青い風鈴も、ペンギンも、金魚も、美緒が持っていくことになったらしい。
俺の家に置かれるはずだったものは、一つも来なかった。
十一時を過ぎ、トラックが先に出た。
美緒の家の玄関が閉まる音がした。
見送りには行かなかった。
行く理由を、美緒は覚えていない。
スマートフォンが鳴った。
美緒からだった。
メッセージには、写真が一枚ついていた。
車の後部座席。膝の上に、あのノートとペンギンのキーホルダーが置かれている。
『ノート、全部読んだ』
次の文が来るまで、長かった。
『まだ朝倉くんのことは好きじゃないです』
わかっていた。
文字で読んでも、やはり痛かった。
『でも、知らないままにするのは嫌でした』
『福岡に着いたら、金魚の水槽を買います。朝倉くんがすくったらしいので、飼い方を教えてください』
窓の外で、車のエンジンがかかった。
俺はカーテンを開けた。
美緒を乗せた車が、隣の家の前から動き出す。
後部座席の窓が開き、美緒がこちらを見つけた。
手を振るまでに少し迷ってから、ノートを窓越しに持ち上げた。
俺はスマートフォンへ返事を打った。
長い文を書いて、消した。
また好きになってほしいとは書けない。待っていてとも書けない。
だから、金魚が今日食べる餌の量だけを送った。
車が角を曲がる直前、美緒からもう一通届いた。
『あと、次に会ったら、最初から友達になってください』
帰り道は、もう同じ方向にはなかった。
それでも俺は、福岡までの運賃を調べながら、空になった隣の家をしばらく見ていた。




