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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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第98話「宿の食卓」


村の外れまで歩いて戻ったあと、ネアの足音は少し低くなっていた。

袋の中で布が沈む。拾ったものと買ったものと、宿へ戻る道で受け取った小さな包み。

重い、とは言わない。

言わないだけで、肩の動きがいつもより短い。俺は揺れの間隔でそれを知る。


宿の扉が開くと、木の床に何人分もの音が乗っていた。

椅子を引く音、器が触れる音、誰かが笑ってすぐ咳払いする音。昼の道より、こっちの方が人が多い。

ネアは入口で一度止まった。

宿の女が鍋の方から声を上げる。


「今日は賑やかだねえ。うちの宿でこんなになるの、珍しい」

「……うん」

返事はそれだけだった。

ネアは隅の席へ行き、荷物を足元へ下ろした。袋が床に触れて、俺の周りの布が少し楽になる。


食堂には旅人が数人いた。

長く歩いてきた者の靴音と、まだ歩き足りない者の声。どちらも木の床に混ざって、同じ部屋の音になっている。


「そこ、空いてるよ」

近くの誰かが言った。

ネアは小さく頭を下げたらしい。視線は分からないが、首の動きが布越しに伝わった。


「……ありがとう」

それで会話は終わった。

終わったのに、部屋の声は途切れない。別の卓で、明日の道だの川の浅さだの、馬の機嫌だのを話している。


宿の女が器を置いた。

木の卓に底が当たり、汁の揺れる音がした。ネアの鼻がかすかに動いて、温かい匂いが布越しに流れてくる。


煮た豆と、少し焦げた野菜。

塩は強くない。けれど歩いたあとには、それで十分だったのだろう。ネアの手が匙を持つ音がした。


「あんた、ひとりかい」

別の声が飛んできた。

悪気は薄い。食堂の音に乗った、ただの世間話だった。


ネアは匙を止めた。

止めた時間は短い。逃げるほどでも、喜ぶほどでもない、その間だけ。


「……うん」

「どちらまで?」


部屋の音が、そこだけ少し薄くなった。

聞いた本人は深く考えていない。旅人同士ならよくある問いなのだろう。


ネアは器の縁に指を添えた。

熱を確かめるような、答えを置く場所を探すような動きだった。


「……まだ決めてない」

それを聞いた旅人は、軽く笑った。

「そうかい。決めない旅もあるわな」


それ以上は来なかった。

押し込まない距離というものが、外の人間にもあるらしい。ありがたい、というより、食事が冷めない。


ネアは匙を動かした。

汁が小さく揺れ、豆が器の底を叩く。隣の卓では誰かが硬いパンを割り、乾いた音が二つに分かれた。


廃都の食卓は、もっと静かだった。

食べる者が少なく、器の数も少なく、火の前で聞こえる音は決まっていた。水、木、ネアの息。


ここでは、誰かが食べるたびに別の誰かが喋る。

鍋の蓋が鳴り、椅子が軋み、靴先が床を叩く。どれも必要以上に大きいのに、誰も驚かない。


ネアは黙って食べていた。

黙っていることが、この部屋では少しだけ目立つ。それでも誰かが笑えば、その笑いの端に紛れてしまう。


廃都では、沈黙は部屋の形そのものだった。

ここでは沈黙も席のひとつで、隣に声が座っている。押されるほどではない。逃げるほどでもない。


宿の女が鍋をかき混ぜた。

底をさらう丸い音がして、湯気が増えたのだろう、ネアの鼻がまた小さく反応する。


「ほら、あんた」

足音が近づいた。

卓の上に、もう一つ器が置かれる。さっきより軽い音。中身は汁ではなく、焼いた芋か何かだった。


「多いから食べな」

「……でも」

「いいんだよ。今日は人が多くて多めに作ったんだ。余らせるより、腹に入る方がいい」


宿の女の声は、断る隙間を残していなかった。

押しつけではなく、鍋の都合を言っているだけの声。そういう形なら、ネアも受け取りやすい。


ネアはしばらく黙った。

それから両手で器を寄せた。木の卓を滑る音が、俺のいる袋まで細く届く。


「……ありがとう」

「足りなかったら言いな」


宿の女はもう次の卓へ行った。

旅人の一人が「こっちにもそれ残ってないか」と言い、別の声が「働いてから言え」と返す。


笑い声が起きた。

大きい笑いではない。椅子の背にぶつかって、鍋の音に混ざって、少しだけ長く残る笑いだった。


ネアは追加の器に手を伸ばした。

芋は熱かったらしい。指が一度止まり、息が短く漏れる。布越しにも、口の中へ入った温かさが遅れて来た。


柔らかい。

焦げた皮の苦みが少しあって、中は甘い。俺が食べているわけではないのに、ネアの喉が動くたび、体の奥が静かになる。


食堂の声はまだ続いていた。

どの道がぬかるんでいるとか、隣町の橋が直ったとか、犬に弁当を取られたとか。重要そうで、そうでもない話ばかりだ。


そういう話が、器の間を行き来する。

廃都にはなかった音だ。ないから寂しい、と誰かが言ったわけではない。ただ、ここにはある。


「お嬢ちゃん、その袋、重そうだな」

最初に声をかけた旅人がまた言った。

ネアは足元の荷物に触れた。俺のいる布も少し押される。


「……少し」

「少しか。若いのは強いねえ」

「……重いのは、重い」


旅人が笑った。

今度の笑いはネアに向けて近すぎず、部屋全体に散った。ネアは何も足さない。足さなくても、それで足りた。


宿の女が遠くで「鍋、空けるよ」と言った。

誰かが器を差し出し、誰かが席をずらす。木と布と人の気配が、食堂の中でゆっくり動いた。


ネアは最後の芋を口に入れた。

少し遅れて、匙を器の横に置く。食べ終わった合図は小さいが、俺には十分大きい。


まだ決めてない。

さっきの答えが、器の底に残った温かさみたいにそこにあった。決まっていないことは空白ではないらしい。


この食堂の誰も、明日のネアを知らない。

ネア自身も、まだ知らない。それでも今夜は席があり、器があり、誰かが多いから食べなと言う。


宿の外では、夜の道が冷えているはずだった。

中では鍋の音がしている。ネアは荷物を足元に置いたまま、もう少しだけ席を立たなかった。


続きが気になった人は、⭐評価・ブックマークで追ってほしい。

——石より

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