第97話「村の外れ」
朝、出る前に布包みを袋に入れた。石が二つ、並んだ。
水汲みは、いつもより少し早く終わった。
桶の底で水が揺れ、ネアの歩幅に合わせて小さく鳴る。井戸のまわりには、まだ朝の足音が残っていた。
いつもなら、そのまま家へ戻る。
石畳の欠けた道を通り、市場の横を抜けて、布の影がある壁際へ向かう。ネアの足は、そういう道順をよく知っていた。
けれど今日は、違った。桶を持ち替えた手の動きが、いつもの角を曲がらなかった。
『ネア?』
返事はなかった。返事の代わりに、袋の布が少し押された。俺の横で、もうひとつの石がかすかに当たる。
布包みの中身は、まだ黙っている。石が黙るのは普通だ。俺が普通ではないだけで。
ネアは井戸から遠ざかり、家のほうではない道を歩いた。
桶の水音が近くで揺れ、袋の底で石と石がずれた。ふたつある、というだけで、音の逃げ場が変わる。
袋の布は、ネアの腰に合わせて少し遅れて動いた。
「……少し、重い」
ネアが言った。責める声ではなかった。困った声でもない。ただ、重くなったものを重いと言っただけだ。
俺は返事をしなかった。返事をすると、俺が増えた荷物の代表みたいになる。代表になるには、石の肩書きが足りない。
道の硬さが変わった。
石畳の切れ目を越え、土の粒が靴裏に触れる。袋越しにも分かる。歩くたび、響きが丸くなる。
そこから先は、村の音が少しずつ薄くなった。
人の足音が減った。
井戸のまわりにあった桶の音も、誰かが戸を開ける音も、後ろへ下がっていく。
代わりに、細いものが揺れた。草か、畑の端の支柱か、俺には見えない。
けれど地面に伝わる震えは軽くなった。
人が何度も踏んだ道の硬さではない。足の下に、まだ踏まれきっていない土が残っている。
村の外れだ。
そう言われたわけではない。けれど、ここから先は人が踏む回数が違う。土の下が、少し広く息をしている。
ネアはそこで止まった。足音が切れ、桶の水だけが遅れて一度、内側で波を打った。
俺には、ネアが何を見ているのか分からない。
村の向こうに畑があるのか、道が続いているのか、空が大きく開けているのか。俺の世界に、そこは入ってこない。
ただ、ネアの体が少し前を向いたことは分かる。
袋の重さが、ほんの少しだけ傾いた。
外へ出る足ではない。境目の手前で、立っている足だ。そこで止まる足は、待つ足に少し似ていた。
誰かを待つのではない。自分が動き出すかどうかを、足の裏で測っているみたいだった。
『行くのか?』
聞いてから、少し早かったかもしれない。ネアは答えなかった。答えないまま、桶を置いた。
土が小さく沈む。桶の重さと、水の重さと、ネアの重さが、村の端の土に乗った。
それから袋の中にある、石ふたつ分の重さ。
風が通った、ような気配だけがあった。音にはならない。袋の布が一度だけ緩み、すぐにネアの腰で静かになった。
来訪者は去った。
布包みだけが残った。行き場がなくなったものは、袋の底に入れられて、こうして一緒に揺れている。
俺はその石を知らない。知らないのに、完全に知らないとも言えない。
触れた布越しに、冷えた沈黙だけが伝わってくる。
石は喋らない。喋らないまま、そこにある。俺が何かを言えるせいで、その普通さが少し重くなる。
(遠くの地脈が、まだ少し鳴っている)
それは村の下からではなかった。もっと遠い。ここより古く、ここより深く、まだ名前を呼ばれたくない場所の奥で、低く残っている。
廃都の方角だ。
方角、と言い切れるほど俺に目はない。けれど、あの沈み方を俺は知っている。壊れた石段の下で、何度も聞いた響きだ。
あれは呼んでいるのではない。残っているだけだ。
ネアは息を吸った。
たぶん、外の空気を少しだけ入れた。俺には匂いは来ない。ネアの胸が動き、袋の布がわずかに張った。
村の外の空気は、村の中と違うのだろう。
そういう違いを、俺はいつも他人の体で知る。
今回も、ネアの小さな呼吸が境目になった。越えるためではない。確かめるための、短い呼吸だった。
「……まだ」
ネアが言った。その先は続かなかった。続けない言葉のほうが、ネアには多い。
まだ、行かない。
まだ、戻る。
まだ、ここにいる。
どれでもありそうで、どれとも決められない。
ただ、足は境を越えなかった。
つま先の向きが変わり、袋の底で俺ともうひとつの石が軽く触れた。その触れ方は、合図でも返事でもない。
ただ、二つあるものが同じ袋に入っていると、引き返す時も同じだけ揺れる。
『戻るか』
ネアは小さくうなずいたらしい。俺には見えない。けれど、袋の口が少し沈み、桶の取っ手が持ち上がる音がした。
来た道を戻り始める。
土の響きが、また狭くなっていく。畑の端の軽い震えが遠のき、踏み慣れた道の硬さが戻ってくる。
最初の石畳に靴が乗った時、桶の水が小さく跳ねた。
村の音が近づく。
誰かの戸の音、遠い声、いつもの生活が、少し遅れてネアを迎えにくる。
石が二つになった。
荷物が少し重くなった。
それだけのことを、ネアは村の外れまで運んで、また村の中へ戻した。
外には出なかった。
出なかったことが、今日の歩いた距離だった。
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——石より




