第96話「来訪者はもういない」
昨日、石を見た。今朝は、別のことがあった。
朝は、先に廊下から来た。
宿の床板を踏む足音が二つ、三つ。
桶の縁が柱に当たり、誰かが小さく謝る声がした。
昨日までそこに混じっていた馬具の硬い音はない。
革を引く音も、馬が床を蹴る重い揺れもない。
宿の朝から、一つだけ抜けている。
ネアはしばらく起きていた。
寝台の上で身じろぎをして、俺の入った袋を膝へ寄せる。
布越しに伝わる指先は冷えていた。
明日、見る。
そう言った朝が、もう来ていた。
部屋の隅には布包みが置かれている。
昨日のまま、ほどかれず、隠されすぎもせず、ただそこにあった。
石片も留め具も、夜のあいだに何かへ変わったわけではない。
変わったのは、外のほうだった。
廊下の向こう、来訪者が使っていた部屋の前が静かすぎる。
扉の下を抜ける気配がない。
荷を結ぶ音も、革を締め直す音もない。
朝の水を頼む声もない。
誰かがいるはずの空間だけが、先に空いていた。
ネアは袋を持って立った。
床板が一枚だけ鳴る。
俺はその揺れを受けて、部屋の薄い寒さを知った。
窓の隙間から入る光までは分からない。
ただ、ネアの息が少しだけ短くなった。
布包みの前で、ネアの足が止まる。
昨日なら、そこにはまだ渡した人間の気配がつながっていた。
宿のどこかにいて、食堂へ降りるかもしれない。
今朝は、その先が切れている。
ネアはしゃがまなかった。
見るだけで足を戻し、戸口へ向かう。
水汲みの桶を手にした時、手首の動きが一拍だけ遅れた。
石片を確認した朝にしては、ひどく普通の支度だった。
普通にしないと、朝が始まらない。
そんな動き方だった。
階下へ降りると、宿の朝の音が近くなった。
椀が重なり、火の世話をする棒が灰を掻く。
誰かのくしゃみが壁の向こうで跳ねた。
音はすぐ日常に沈む。
俺たちだけが、沈みそこねている。
桶の底が、ネアの膝に軽く当たった。
「あの方、朝早く出ていかれたよ」
宿の女の声は、鍋の蓋を持ち上げるついでに落ちてきた。
たいした報せではない。
泊まった客が朝に出る。それだけなら、宿では毎日のことだ。
だから余計に、重かった。
重さを置く場所がないまま、ネアは桶を持って止まる。
返事をするための間だけがあった。
けれど言葉は出てこない。
水のない桶の底だけが、かすかに揺れた。
宿の女はそれを気にした様子もない。
「名前も聞かなかったね。まあ、ちゃんとした人だったけど」
宿の女は続けて、また別の椀を取った。
その声に疑いはない。
惜しむほど近くもなく、忘れるほど遠くもない客の扱いだった。
来訪者は、宿の朝の中でそれくらいの場所を占めていた。
それから消えた。
誰かの朝を壊すほどではないまま、いなくなった。
ネアはうなずかなかった。
否定もしない。
桶の持ち手を握り直し、少しだけ視線を落とす。
俺には見えないが、その先に何があるかは分かる。
部屋に残した布包みだ。
水場へ向かう廊下は短い。
昨日より短くなったわけではない。
それなのに、歩くたびに戻る場所だけが遠くなる。
預けた人間がいない荷物は、置き忘れに近づいていく。
ネアは井戸のそばで桶を置いた。
縄が擦れ、水が底で揺れる音が布越しに届く。
朝の水は冷たく、手の動きも少し硬い。
それでもネアは一度で汲み上げた。
余計なことを言わない手つきだった。
言わないまま、必要なことだけを済ませていく。
帰り道、宿の女は別の客に粥の話をしていた。
さっきの報せはもう流れている。
椀の音、灰の音、戸の開く音。
誰かがいなくなっても、宿はそのまま朝を続ける。
それは冷たさではない。
宿という場所が、そうできているだけだ。
部屋へ戻ると、布包みはまだそこにあった。
当たり前だ。
布は歩かない。石片は呼ばない。留め具は名乗らない。
ただ、置かれたものは、置いた者が消えると急に重くなる。
ネアは桶を下ろした。
水が揺れ、床板に小さな振動が広がる。
俺の入った袋を寝台の上へ戻し、彼女は布包みの前に立った。
開けるためではない。
隠すためでもない。
指先が、布の端に触れた。
押すほどでも、撫でるほどでもない。
そこにあるかを確かめる、一度だけの接触だった。
「……うん」
それだけだった。
ネアは手を離した。
布包みは、触れられる前と同じ形で残る。
同じ形なのに、もう昨日のものではなかった。
渡されたものではある。
けれど、返す相手が宿の中にいない。
(渡した側は、もうここにいない)
言葉にすれば、ただの事実だ。
けれど事実は時々、石より重い。
預けられた理由も、留め具の正体も、誰も知らないまま残る。
知らないものは、知らないまま部屋の隅に座った。
ネアは朝食にも降りなかった。
パンを少しだけ割り、水を飲む。
俺の袋を膝に置いたまま、布包みへはもう触れない。
離した手を、また戻さないことだけが返事だった。
宿の外では馬車が一台、別の客を乗せて出ていった。
その揺れは来訪者のものではない。
似た音でも、つながる先が違う。
廊下に残る静けさだけが、昨日の続きのふりをしていた。
石片は、布の中にある。
廃都の欠片だったものが、知らない宿の部屋に置かれている。
誰かが持ってきた。
けれど、誰かはもういない。
だからその欠片は、急に行き場をなくした。
ネアは桶の水を小さな椀へ移した。
その手つきは丁寧で、いつもより少し遅い。
壊れ物を扱う遅さではない。
答えのないものを急がせない遅さだった。
俺は動けない。
布包みへ近づくことも、開くことも、追うこともできない。
だから、ここに残るものの重さだけを受ける。
来訪者の部屋は空いた。
宿の女はそのうち床を拭き、次の客を入れるだろう。
名前を聞かなかった客の話は、昼までには薄くなる。
でも布包みは薄くならない。
ネアは最後に、布包みを壁際へ少し寄せた。
ほんの少しだけ。
邪魔にならない場所へ移しただけの動きだった。
けれどそれで、部屋の中の何かが決まった。
置かれたものは、捨てられなかった。
預けた人間はいない。正体も分からない。行き場もまだない。
それでも、ネアの部屋に残った。
朝は続いた。
椀の音も、桶の水も、廊下の足音も、何も知らない顔で流れていく。
その端に、廃都の欠片が一つ、行き先をなくして沈んでいた。
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——石より




