第100話「結び目の水音」
荷が持ち上がった瞬間、結び目の奥で水が鳴った。
ほんの短い音だった。
縄がこすれる音に混じって、井戸の底から返ってくるような、丸くて小さい響きが一つ。すぐに荷の重さへ押し込まれ、干し菜の束と、包み布と、誰かの手の力の中に紛れた。
俺はネアの腰布の内側で揺られていた。
石なので、揺られる以外の参加方法がない。
(出席だけは満点だな)
朝から村の広場は忙しかった。足音が土を踏み、荷を置く音が何度も低く返る。木箱の端が床板に当たり、縄がきしみ、誰かが「そっちは軽いぞ」と言った。
軽い、という言葉はたいてい信用できない。
ネアが少しだけ体を傾けた。腰布越しに、彼女の腹の力が固くなる。荷を持つつもりらしい。
『重いなら、無理するなよ』
「ない」
何がないのかは言わない。無理がないのか、重くないのか、俺の心配を受け取る気がないのか。三択のようで、たぶん全部だ。
ネアは小さな包みを一つ抱えた。布の中で乾いたものがこすれ、束の端がぱき、と鳴る。昨日まで軒下で吊られていた干し菜だ。あの荷紐が、今日は別の包みに回されている。
井戸縄だったもの。軒下で干し菜を結んだもの。そして今、誰かの昼過ぎの仕事を軽くするために使われているもの。
役職変更が早い。「ネア、こっちも頼めるか」
年配の女の声がした。村で何度か聞いた声だ。遠慮が混じる時は、最後の音が少しだけ上がる。「……うん」
ネアは包みを下ろし、もう一つの荷に手を伸ばした。彼女の指が縄に触れたらしい。布越しに伝わる力が変わった。結び目を探る時の、細かく止まりながら進む圧がある。
きゅ、と縄が鳴った。続いて、水音。今度は、さっきより近かった。
井戸から桶を上げる時の音ではない。あの深さ全部を連れてくるほど大きくもない。結び目の奥に残っていたものが、荷の重さに押されて少しだけ鳴った。そんな感じだった。
ネアの手が止まった。俺も、黙った。できることはあった。念話で何か言うことも、地脈の震えを追って、音の残りを探ることも。でも、ここで俺が拾い上げるものじゃない気がした。
残っているなら、そのまま荷の中に入っていけばいい。俺が名前をつけた瞬間、それは生活の音から少し外れる。
ネアの指が、結び目をもう一度押した。「まだ、残ってる」
声は低かった。誰に言ったのか分からないくらい、短かった。直後、結び目は荷の重みに沈んだ。水音はそこで欠けた。最後まで鳴りきらず、縄のきしみと、布の擦れる音と、隣で誰かが踏み替えた足音に吸われた。
それでよかった。たぶん、そういう残り方がある。
年配の女が近くで息を吐いた。
「ああ、前の縄か。まだ使えるかい」
「使える」
「助かるよ。新しいのは井戸に回したからねえ。こっちは少し古くても、結べりゃいい」
結べりゃいい。なんという強い評価基準。物の人生、だいたいそれで通るのかもしれない。いや石の俺が言うと妙な説得力が出る。出なくていい。
ネアは荷紐を締め直した。ぎゅ、と力が入る。俺のいる布まで、体の動きが伝わってきた。細い腕のはずなのに、結ぶ時だけ迷いが少ない。「そこ、固くしすぎなくていいよ。ほどく人が困る」「……うん」。
少し緩める。縄が小さく戻る。荷の中身が落ち着く。
そのたびに、かすかな水の気配があった。音と呼ぶには短い。気のせいと言うには、同じ場所で何度も戻る。
ネアは何も言わなかった。俺も言わなかった。
周りの人間は、ただ荷を作っている。古い縄を使い、ほどけないように結び、あとでほどけるように残す。誰かが「昼までに終わるか」と言い、別の誰かが「手があれば終わる」と返した。
手はある。俺にはない。そこはまあ、毎度のことだ。
ネアが荷を持ち上げると、結び目がまた鳴った。水音はもう短い。井戸の底の響きというより、桶の縁に残った一滴が、木に触れて消えるような音だった。
実際に一滴があるわけじゃない。俺は石だ。濡れ方を確かめる感覚はない。分かるのは、縄が湿りを覚えていた頃の重さと、乾いてからも消えないわずかな粘りだけだ。
それでも、あれは水だった。名前をつけずに済ませるには、少しだけ近すぎた。
「ネア、これ、向こうの家まで」
男の声がした。若い。荷を渡す時、腕から腕へ重さが移る気配があった。ネアは受け取った。体が沈む。
『重いだろ』
「重い」
そこは認めるんだ。『じゃあ、誰か呼ぶか』「いる」
ネアの足元で、別の足音が近づいた。子どもの足だ。大人より土を叩く幅が狭い。子どもが「半分持つ」と言い、「端」とネアが返す。「うん」。
子どもが荷の端を持った。重さが少し分かれる。縄が張り、結び目が二人の間で小さく鳴った。水音はさらに短くなった。今度は、聞き逃してもおかしくないくらいだった。だがネアの指が一瞬だけ縄を押したので、彼女も気づいたのだと思う。子どもは気づかない。
子どもが「これ、どこの?」と言った。「奥」「奥の家? じゃあ、先に置いてくる」「……うん」。
子どもは荷の端を持ったまま歩き出した。ネアも合わせる。二人分の足音が、揃いそうで揃わない。荷が揺れるたびに、干し菜の束が布の中で小さく当たった。
結び目は、その真ん中にいた。
井戸から離れ、軒下から離れ、今は誰かの家へ向かう途中にいる。縄にとっては移動だ。俺にとっては、運ばれているものが運ばれているだけなので、だいぶ複雑な入れ子になっている。石が荷物論を始めると長い。やめよう。
道の途中で、年配の男が声をかけた。「その荷、置き場は分かるか」
「……たぶん」
「たぶんか。まあ、音のする方でいい。みんな集めてる」
音のする方。村では、場所をそうやって言うことが多くなった。鍋を叩く音、薪を割る音、井戸を使う音、布をはたく音。どれも場所の名前みたいに働く。
廃都で、音が場所になる日が来るとは思わなかった。いや、俺が思わなかっただけで、街はずっとそうだったのかもしれない。人が減って、音が減って、場所の呼び名だけが薄くなっていただけで。
ネアは返事をせずに進んだ。子どもが少し遅れた。荷の端が下がり、結び目に力が偏る。ぎし、と鳴った。
水音は、もうほとんど縄の音と区別がつかなかった。それでも消えた感じはしなかった。前の仕事を抱えたまま、今の仕事に混じったのだ。井戸の深さを主張するのをやめて、荷を保つ方へ回った。
こういう変わり方は、たぶん強い。「ここ?」「うん」
ネアが荷を下ろす。床板が受け止める。二人の手から重さが抜け、縄がゆるんだ。結び目は最後に、こ、と鳴った。
水音か、木の音か、縄の戻る音か。もう分からない。分からないまま、荷はそこに置かれた。
奥から女の声がした。「ありがとう。そこに置いといて。あとで分けるから」
「……うん」
「ネア、帰りに空の籠を持っていってくれる? 井戸のそばに返したいんだ」
ネアの肩が、少し動いた。
井戸のそば。荷紐は戻らない。井戸縄には戻らない。けれど、空の籠は井戸へ戻る。縄が結んだ荷は別の家に届き、ほどかれ、中身が分けられる。ほどいた人の手に、ほんの少し水の音が残るかもしれない。それを俺が確かめる必要はない。
『行くのか』「行く」
ネアは空の籠を受け取った。籠は軽かった。軽いものを持つ時、彼女の体は少しだけ雑になる。重いものを持つ時の方が丁寧だ。
重い方が大事にされるのは、荷物としては少し納得がいかないかもしれない。俺は石なので、かなり大事にされている側だ。重いだけで評価されている可能性がある。
外へ出る時、後ろで荷紐がほどかれる音がした。きゅ、という締まり。ぱさ、という布。そして、聞き取れるかどうかのところで、こぼれるような水音。
ネアは振り向かなかった。俺も呼び止めなかった。音は荷の中に残ったまま、誰かの手でほどかれて、また別の束へ渡っていくのだろう。
井戸の水音は、井戸から少し離れた。軒下の結び目からも、少し離れた。その代わり、ほどく人の手元と、運ぶ人の腕と、置かれた荷の重さの中に入った。
ネアが籠を抱え直す。竹の編み目が指に当たる音がした。空の籠は軽いのに、何かを入れる前から用事を持っている。
広場へ戻る道で、村の音がいくつも重なった。誰かが縄を結ぶ。誰かが鍋を置く。誰かが井戸へ向かう。ネアはその間を黙って歩いた。俺は布越しに、彼女の体温と足の運びだけを受け取っていた。
結び目の水音は、もう追えなかった。けれど、ときどき縄が鳴るたびに、どれかがそうかもしれないと思った。村はその程度の曖昧さで回っていた。
井戸のそばで、空の籠が置かれた。誰かが礼を言った。ネアは「……うん」とだけ返した。そのあと、別の荷が持ち上がる音がした。縄が締まり、誰かが「そっちは昼まで」と言い、別の誰かが「先に運ぶ」と返す。
結び目はまた、どこかで働き始めた。水音はもう、そこにあると決めつけられるほどは鳴らない。それでも、荷が動くたび、村のどこかで短く返った。
この話が好きだったなら、⭐評価で教えてほしい。
——石より




