第101話「水音の残る村」
朝いちばんに鳴ったのは、井戸ではなかった。荷籠の底が土を押す音だった。きし、と短く沈んで、すぐに戻る。その下で、まだ乾ききらない縄がこすれた。
俺はネアの袋の奥で、その音を聞いた。井戸端からは離れている。村の端に近い小屋の前だ。水を汲む場所ではない。誰かが桶を下ろしたわけでもない。なのに、底の方で短く返るものがあった。
水そのものではない。井戸の深さでもない。もう、それを一つの場所に戻して考える方が遅い。村が動くと、どこかで鳴る。そういうものになっていた。
ネアは袋の口を指で押さえ直した。布越しに体温が近づく。昨日より少しだけ荷が増えている。干した布と、結び直した紐と、村の女が持たせてくれた固い包み。石の俺には重くないが、ネアの肩にはちゃんと重い。
「持てるか」
小屋の前で男が言った。声は眠そうで、でも手は先に動いている。籠を二つ並べ、古い縄を丸め、余った端を足で寄せた。
ネアは首を動かした気配だけを返した。
「……うん」
「無理なら一つ置いていけ。夕方までなら、ばあさんのところで預かる」
「持つ」
短い。いつもどおりだ。
男は少し黙ってから、笑ったような息を漏らした。
「そうか。なら、結び目だけ見せろ」
ネアは荷を下ろした。袋の中で俺も少し沈む。布と布の間に挟まれたまま、衝撃だけが柔らかく伝わってきた。男の指が紐を引く。きゅ、と鳴った。その音の後に、荷籠の底がまた小さく返した。
井戸縄を取り替えた日から、村の手はずっと忙しかった。汲むための縄、運ぶための紐、くくるための結び目。ひとつずつ別の役目に分かれて、けれどどこかで同じ音を持っていた。
最初は井戸の底からだけ聞こえた。次は桶から聞こえた。その次は縄から、荷から、誰かの手から。そして今は、どこから鳴ったのかを追う前に、別の場所で返る。
(広がりすぎると、もはや担当部署が分からない)
前世なら、こういうのは引き継ぎ表にしていた。誰が何を持ったか、どこで受け渡したか、責任者は誰か。この村には表がない。代わりに、足音がある。
小屋の奥から子どもが走ってきた。踏み方が軽い。すぐ後ろから、女の低い声が追う。
「まだ持つな。底を乾かしてからだって言ったろ」
「少しだけ」
「少しだけで底を割るやつがあるか」
「割ってない」
「割る前に言ってる」
会話の間に、籠が床板へ置かれた。とん、と鈍い音。そこへ細い紐が重なる。男の指が結び目を押し、女が別の荷を寄せる。音が増える。どれも井戸ではない。
それでも、水が深いところで返る時の短さだけが混じる。はっきり掴もうとすると逃げる。逃げた先で、また誰かの手元から返る。
俺は聞くだけだった。地脈に触れれば、たぶんもう少し拾える。井戸から伸びた振動の残り、村の下を通る湿った筋、縄の繊維に残る力の向き。そういうものを探る方法はある。
けれど、探らなかった。ここまで来たものを、俺が「ここだ」と名札に戻す必要はない。石がいちいち管理職みたいに出てくるな、という話でもある。
ネアの手が荷紐から離れた。
「大丈夫だな」
男が言った。
「……うん」
「ほどけたら、結び直せ。前に教えたやつでいい」
「分かる」
「分からなかったら、誰かに聞け」
「聞く」
そこで、女が別の包みを差し出した。重さは小さい。中身は布越しに硬く、角がある。
「道で食べる分。石の分はないよ」
『石に食事疑惑をかけないでほしい』
ネアの指が袋の上から俺を押した。軽く。黙れ、に近い。女は俺の声を聞いていない。ネアが少しだけ指を止めたので、それで何かを察したらしい。
「あんた、また石と話してるね」
「話してない」
『今まさに話している扱いを受けている』
「ない」
ネアは言い切った。
女は笑わず、ただ包みをネアの荷に押し込んだ。
「じゃあ、石が勝手に聞いてるんだろ。なら聞かせておきな。ここは、しばらくこのままだ」
このまま。言い方は雑だった。けれど、そこに大きな約束は入っていない。井戸を守るとか、忘れないとか、そういう言葉でもない。朝に荷をくくる。底を乾かす。水を汲む。子どもを止める。ほどけた紐を結ぶ。その続きとして、このまま。
ネアは包みの位置を確かめ、肩を入れ直した。袋が上がる。俺の下で布が張り、ネアの歩き出す準備が体温と一緒に伝わった。
村の道には、もう何人かが出ていた。俺には姿は分からない。けれど、足の重さは違う。片方だけ沈む老人の歩き方。荷を担いでいる男のゆっくりした踏み方。まだ眠さが残る子どもの小さな跳ね。
その全部の間に、縄が鳴る。ぎし、とか。きゅ、とか。たまに、底の方で短く、ぽんと返る。
井戸端まで来ると、音は増えた。桶が下ろされる前に、誰かが手を打った。濡れた縄を握り直す音。滑らないように足を置く音。桶の縁が石に当たる音。それから、深いところへ落ちる長い沈黙。沈黙の終わりに、水が返る。
それは井戸の音だった。だけど、もう井戸だけの音ではなかった。
桶が上がる前に、離れた場所で籠が置かれた。井戸の返事と、籠の底の返事がずれたまま重なる。重なったのに、ひとつにはならない。この村は、うまく揃わない。揃わないまま、続いている。
ネアが井戸端で止まった。誰かが声をかける。
「もう行くのか」
ネアはすぐには答えなかった。袋越しの体温が少し沈む。肩から荷を下ろすほどではない。ただ、足が止まっている。
その間にも、桶は上がっていた。待つための静けさは作られない。村の朝は、誰か一人の返事より先に進む。
「……うん」
「昼までいてもいいぞ」
「行く」
「そうか」
その人は引き止めなかった。桶を引く手も止めなかった。縄が手の中でこすれ、井戸の底から上がってくる水の重さが、村の朝へ混じった。
別れの言葉は少なかった。というより、村は別れのために動きを止めなかった。それでいいのだと思う。
俺たちが来る前から、ここには井戸があった。俺たちが去った後も、縄は乾き、また濡れ、誰かが結び直す。桶は落ち、上がり、荷は運ばれる。その中に、ほんの少しだけ俺たちが混じった。混じったものは、たぶんもう取り分けられない。
『ネア』
「……なに」
『聞こえるか』
ネアは答えなかった。
井戸の縄がきしむ。遠くで籠が置かれる。誰かが包みを受け取り、紐の端を指で押した。老人が杖をつく。子どもが叱られて、足音を少し小さくする。
ネアの指が袋の上に乗った。答えの代わりに、そこだけ温かくなる。聞こえている。それだけで足りた。村の端へ向かう道は、踏まれるたびに細かく沈んだ。荷の重さがネアの肩に乗り、俺のいる袋も揺れる。
井戸の音は遠ざかる。遠ざかった分だけ、他の音が前に出た。戸を押す音。木の器を重ねる音。布を絞る音。誰かが荷紐を引いた。どれも違う。それでも、短く返るところだけが似ている。どこまでが井戸で、どこからが村なのか。もう、分けるのはやめた。
ネアは一度だけ立ち止まった。振り返ったのかどうかは分からない。俺には分からない。ただ、袋の中で体温の向きが少し変わり、足音が止まった。背後で桶が上がる。誰かが水を移す。縄が緩む。荷籠の底が土を押す。それぞれの音が、それぞれの場所で鳴った。
村は、俺たちを見送るために鳴っているわけではない。生活しているだけだ。その方が、ずっと残る。
ネアはまた歩き出した。村の音は薄くならなかった。ただ、俺たちの下で鳴る道の音と、後ろで続く水の音が、少しずつ別の距離になっていく。
石の俺は動けない。だから、運ばれる。運ばれながら聞いた。井戸の底にあったものが、誰かの手の中へ、足元へ、荷の結び目へ移って、もう戻らないこと。それで終わらないこと。
村の端で、ネアの荷紐がきゅっと鳴った。その音に、後ろのどこかで水が短く返った。
ネアは何も言わなかった。俺も、黙っていた。次の道の土が、静かに重さを受けた。
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——石より




