第102話「鳴らない鐘」
綱は手応えだけがあって、音にならなかった。
男の子がもう一度引く。やっぱり、ごつ、と鈍いものが頭の上で揺れただけだ。鐘はそこにある。あるのに、鳴らない。
(引いても鳴らないなら、それはもう紐だな)
俺は袋の底でそう思って、すぐに引っ込めた。子どもの前で言うことじゃないし、たぶん、誰の前でも言うことじゃない。
袋の口は、半分ほど開いていた。
ネアが歩くたびに、外の景色が布の隙間から切れ切れに入ってくる。俺に目はない。ネアが見ているものを、布越しに分けてもらっているだけだ。見ている、というより、ネアの肩のうしろから覗いている、に近い。
ネアは入り口の手前で足を止めていた。
さっきまで降っていた雨が、まだ軒の端から細く垂れている。屋根の半分が落ちたこの建物の、残っている方の下に、俺たちは雨をよけて入ってきた。
落ちた側からは、空がそのまま入ってくる。濡れた石の床が、入り口の光をぼんやり返していた。広いのに、がらんとして、人の気配は男の子ひとり分しかない。
ここは王都の外れだと、来る道で誰かが言っていた。
大きな門の手前で道が枝分かれして、人の流れから外れた方に、この礼拝堂はあった。看板も出ていない。雨に追われて飛び込んだら、たまたま屋根が半分残っていた、というだけの場所だ。
ネアが髪の先を指で払った。雨の滴が、ぱた、と床に落ちる。
それから袋を抱え直して、入り口のすぐ内側に立った。濡れた服のまま、すぐには動かない。たぶん、男の子の方を見ているからだ。出ていくきっかけを、なんとなく逃した、という顔でもある。
上を見たのは、ネアの方が先だった。
釣られて、俺のところにも天井の梁が流れてくる。鐘は、その梁の端から下がっていた。思っていたより小さい。ひびが一本、口の縁から上へ走っているのが、薄暗がりでも分かる。あれでは、いくら引いても鳴らないわけだ。
ネアの鼻が、ふ、と動いた。
袋越しに、雨を吸った石のにおいみたいなものが、薄く伝わってくる。古い建物が湿気を抱えこんだときの、あのこもった感じだ。俺には嗅げない。ネアが嗅いだものが、布の隙間から流れてくるだけだ。
男の子は俺たちに気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか、また綱に手をかけた。
細い腕で、体ごと体重をかける。綱がぴんと張って、鐘の口がわずかに傾く。それでも、ごつ、と鈍るだけだった。
「……それ、鳴らないよ」
ネアが言った。責めるふうでもない。事実を置いただけ、みたいな声だ。
男の子が振り返った。八つか、九つくらい。手のひらが綱の色に汚れている。
「うん。鳴らない」
あっさり認めて、それでも手は離さない。
「でも、引くと、下で返るんだ」
「下?」
「ここ」
男の子は足で床を、とん、と踏んだ。擦り減って、まんなかだけ色の違う石を。
俺はそのとき、地面の方を聞いていた。
鐘の側ではない。男の子が踏んだあたり——たぶん、長いこと人が膝をついてきたところ——から、細いものが上がってくる。
音と言っていいのか分からない。圧でもない。鐘が鳴らないぶんを、床がうっすら受け止めているような、そういう感じだった。
(……ここ、まだ動いてるのか)
鐘は割れて止まっているのに、床の方が、止まっていない。
もう一度、よく聞いてみた。
男の子が綱を引くと、ほんの少し遅れて、床の方がこたえる。鐘のかわりに、というより、鐘が鳴らせなかったぶんを、下の方が低く引き取っているみたいな間だった。鳴らない鐘の、落ちたところに耳を当てている感じ、と言えば近いかもしれない。
ネアが袋を少し持ち上げた。俺を、床の近くに寄せるみたいに。
『感じる?』
念話が来た。短い。
『……ああ』
俺も短く返した。説明できるものが、まだ何もなかったからだ。
床の下で何が起きているのか、どういう種類のものなのか、俺にも分からない。分からないものを、分かったふうに言うのはよくない。前世で何度かやって、何度か痛い目を見ている。
男の子はまた綱を引いた。ごつ、と鐘が鈍る。そのたびに、床のまんなかが、ほんのわずか返す。
男の子には聞こえていないのかもしれない。でも「下で返る」と言ったのは、嘘じゃないと思う。聞こえなくても、手のひらの下に来るものはある。膝をついたときの冷たさとか、石の擦り減り方とか。そういうもので、この子は知っているんだろう。
男の子の引き方には、急ぐところがなかった。
引いて、待って、また引く。鳴らないと分かっているものを、こんなに落ち着いて引ける子を、俺はあまり知らない。何かを期待しているというより、毎日そうしている、という手つきだった。
「いつも来るの」
ネアが聞いた。
「毎日。朝に一回」
「鳴らないのに」
「うん」
男の子は綱を、今度は引かずに、ただ握った。
「鳴ったら、たぶん、もういいんだと思う」
意味が、すぐには取れなかった。ネアも黙っていた。
鳴ったら、もういい。——鳴らないから、来る。そういうことらしい。俺はそれを、半分も分かっていない。
分かっていないまま、悪くないと思った。子どもの理屈は、たまにこっちの理屈より先に行っている。
床の擦り減り方を見ていると、ここに膝をついた人は、ひとりやふたりじゃなかったんだろうと思う。
まんなかだけ深く窪んで、つるりとしている。屋根が落ちる前は、たぶん、もっと人が来た。今は男の子が、その窪みのいちばん深いところに、ひとりで立っている。
雨の残りが、落ちた屋根の側から細く垂れていた。濡れた床に当たって、ちいさく跳ねる。
鐘は鳴らない。けれど、この建物は、しずまりかえっているわけでもなかった。垂れる水の音がある。男の子が綱を握り直すときの、布の擦れる音がある。それから、俺にだけ届く、床の下のあの細い返り。
ネアが、袋の口を少しだけ広げた。外の光が入ってくる。
「……止まってない」
そう言った。俺に向けてか、自分にか、男の子にか、よく分からない言い方だった。
言ったあとで、ネアはすぐに「雨、上がりそう」と続けた。さっきの言葉を、自分で薄めるみたいに。
俺はそれでいい気がした。
重く置きすぎると、たぶん、この場所には合わない。鐘が鳴らないくらいの音量で、ちょうどよかった。
男の子が綱から手を離した。
「もう帰る。母さんが待ってるから」
「そう」
「あんたたちは?」
「……雨宿り」
ネアが言うと、男の子は少し笑った。
「鐘は鳴らないけど、雨はしのげるよ。屋根、半分はあるし」
言って、落ちた屋根の側を避けて、外へ出ていった。
濡れた石を踏む足音が、だんだん遠くなる。途中で一度、跳ねるみたいな音が混じったから、水たまりでも飛び越えたんだろう。足音が消えても、しばらく、誰もいない感じだけが残った。
俺は、鐘のことを少し考えた。
引けば鳴らせる、という気は、しなくもない。地面の側から押し上げてやれば、ひびの入った金属でも、一度くらいは音になるのかもしれない。やってやれないことは、たぶん、ない。
でも、やらなかった。
鳴ったら、もういい——と、あの子は言った。だったら、俺が鳴らすのは違う。
鳴らないままの方を、あの子は毎日、選んで握りに来ている。そこに石が横から手を出すのは、ただのお節介だ。
(鳴らせるのに鳴らさないって、わりと初めてかもしれないな)
動けない俺が、動かさない方をわざわざ選ぶ。妙な話だった。前世なら、たぶん全力で鳴らしにいって、それで満足していたと思う。
ネアが俺を袋の奥へ戻した。
床のまんなかは、もう何も返していない。男の子がいなくなって、綱が揺れなくなったからだ。鐘も床も、ひとまずしずかになった。
それでも、消えたわけじゃない。引けばまた、下が低くこたえる。明日の夕方、あの子がここに立てば。
それがどこから来ているのか、俺はまだ知らない。知らないまま、明日もここで同じことが起きるんだろう、という気だけがあった。
『行くの?』
俺は念話で聞いた。
『……もうちょっといる』
ネアは入り口の段に腰を下ろした。
濡れた袖を軽く絞って、膝の上に置く。雨はもう、ほとんど上がっている。落ちた屋根の側から、薄い光が、床の窪んだあたりに落ちていた。ちょうど、男の子がさっき踏んでいたところだ。
光は、別に何も返さなかった。
それでも俺は、その明るいところを、しばらく聞いていた。
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——石より




