第103話「擦り切れた綱」
朝の雨はやんでいた。
礼拝堂は半分しか屋根がない。残ったほうの下に俺は置かれていて、欠けた石床の冷たさが地脈を通して伝わってくる。
夜のあいだに溜まった水が、傾いた床のくぼみへ少しずつ寄っていく。
その細い音だけが、しばらく続いていた。建物としては、もう死にかけている。
柱の根元に、火を焚いた跡があった。
誰かが夜をしのいだのだろう。俺たちが初めてじゃない。雨の日にここへ逃げ込む者は、たぶんずっといる。
ここは王都の壁の外だ。
昨日、雨に追われて入った。壁の内側には立派な神殿があるらしいが、こっちは違う。屋根が落ちて、誰も直さないまま、雨と一緒に放っておかれた礼拝堂だ。
壁の内側からは、ときどき鐘の音が流れてくる。
本物の鐘だ。朝の決まった時間に、いくつも重なって鳴る。立派な神殿には、立派な鐘がある。ここの鐘は割れて、もう鳴らない。
ネアはもう起きていた。
壁ぎわに荷物を寄せて、布を畳んで、それから崩れた壁のそばの埃を箒で隅へ寄せている。誰に頼まれたわけでもない。
床の半分は屋根がないのだから、掃いても次の雨でまた濡れる。
それでもネアの手は止まらない。昨日の夜、雨宿りに入ってそのまま、なんとなく掃いているだけだ。
(律儀なやつだ)
口には出さなかった。掃除を理屈で説明されると、ネアはたいてい掃くのをやめる。だから黙っていた。
水を一口飲んで、ネアは干した菜の最後のひと束を半分に割った。
半分を自分の口に入れて、残りを布で包み直す。誰のためなのかは訊かない。
ここ何日か、ネアの荷物は軽い。
王都に入る手前で買い足すつもりが、雨で足止めを食っている。それでも半分は、いつもどおり残す。軽くなった荷物の中で、その半分だけが、前と同じ重さでそこにあった。
荷物の中で、その半分はいつも誰かのために残されている。
俺はそれを、布越しの重さで知っているだけだ。
廃都にいたころ、俺は守り神と呼ばれていた。
ここでは違う。誰も俺を必要としていないし、俺が何かを直せるわけでもない。ただ床に置かれて、通り過ぎるのを待っている石だ。それはそれで、悪くない。
必要とされないというのは、思っていたより静かだった。
廃都では、咳ひとつ、水音ひとつが、俺のところへ集まってきた。ここでは何も集まってこない。集まっていくのは、あの割れた鐘の下にだけだ。
「来た」
ネアが箒を止めずに言った。
入口の崩れた段を、子どもがひとり上ってくる。
昨日の子だ。膝の出たズボンで、靴は履いていない。俺たちのほうは見もしないで、まっすぐ奥へ歩いていく。向かう先は鐘の綱だった。
奥には、色の落ちた壁画があったらしい。
今は雨染みで、何が描いてあったのか分からない。人の形のようなものが、剥がれかけて並んでいる。子どもはそれにも目をやらず、綱の前で立ち止まった。慣れた足の止め方だった。
鐘は上で割れている。
半分になった金属が斜めにぶら下がっていて、あれを鳴らそうとするのはたぶん無理だ。それでも子どもは綱を両手で握って、下へ引いた。
音はしなかった。
綱が軋んだだけだ。古い麻が引かれたぶんだけ伸びて、また戻る。
そのかわり、と言っていいのか分からないが、床が低く受け止めた。
鐘ではなく、床のほうが。地脈を伝って、俺の下の石まで、その低い返りが届く。
(昨日と同じだ)
鐘は鳴らず、下のほうが代わりに沈む。順番が逆みたいな話だが、ここではそれが当たり前らしい。
ネアは箒を持ったまま、子どもを見ていた。
「鳴らないよ」
子どもが言った。引きながら、こちらを見もせずに。「でも、いいんだ」
「うん」
ネアはそれだけ言った。なんで毎朝来るの、とは訊かなかった。
子どもも答える気はなさそうだった。
引いて、戻して、また引く。それを何度か繰り返して、手を離す。
俺が気づいたのは、綱の白くなったところだ。
子どもの手が届くあたりが、ちょうど握りの幅で擦り切れている。麻の表面が毛羽立って、何本か切れかけていた。
一日二日でこうはならない。
誰かがここを、毎朝同じ高さで握ってきた。そのぶんだけ、綱が痩せている。
(けっこうな数、来てるな)
子どもひとりの朝でこうなるとは思えない。前にも誰かいたのか、それともこの子がずっと前から来ているのか。どっちにしろ、訊いても言わないだろうし、訊くのも違う気がした。
ネアが箒を壁に立てかけた。
子どものそばにしゃがんで、綱の擦り切れたあたりを指でなぞる。
「ここ、切れそう」
「知ってる」
「結んどく?」
子どもは少し考えて、首を横に振った。
「鳴らすわけじゃないから。引ければいい」
ネアは、そう、と小さく言って、それ以上はしなかった。
直したほうがいいに決まっている、という顔ではなかった。
引ければいいなら、引ければいいのだ。ネアはそういうところを、人より早く飲み込む。
引ければいい、というのは、案外むずかしい願いだ。
鳴らしたいのを、引ければいいに削る。そこまでの朝の数を、俺は知らないし、知らなくていい。
俺は床の返りを聞いていた。
子どもが綱を引くたびに、床が鈍く沈む。その圧が、いつもひとつではない気がした。
一回の引きに、薄い返りがいくつも重なって、地脈の奥のほうで溶けていく。
床がここで何度も押されてきた、その押された跡が、まだ消えずに残っているような。古いものと新しいものが、同じ高さで並んでいる。
数えようとして、やめた。
何回ぶんの跡なのか、数えられる気がしない。一人の朝でも、十人の朝でも、床は同じ低さで返している。多いか少ないかを、床のほうは区別していないらしかった。
(……まだ、残ってる)
何が、とは自分でも分からない。綱の擦り切れか、床の下の何かか。考えかけて、やめた。
床の下に何があるのか、地脈の通り道を一本作って奥まで意識を伸ばせば、たぶん読めるのだろう。
割れた鐘の下で、ずっと積もってきた何かが。
やめておいた。
俺がそれをすると、この床は俺のために返すことになる。子どもの綱に返しているものを、横から覗くことになる。
それは、なんというか、違う。
読めるからといって、読んでいいものでもない。動けない石にも、それくらいの分別はある。
子どもは綱から手を離した。
手のひらを見て、それから天井の割れた鐘を見上げた。
「鳴ったら、もう来ない」
ぽつりと言った。誰に言うでもなく。「鳴らないから、来る」
ネアは何も言わなかった。
子どもの隣で、同じように割れた鐘を見上げていた。
俺の知っているネアは、こういうとき言葉を探さない。ただ隣にいる。ネアは、それができる。
鳴ったらもう来ない、というのが本当かどうかは分からない。
ただ、鳴らないものへ毎朝手を伸ばすのは、俺にも少し分かる気がした。廃都で、返事のない水音を、俺もずっと聞いていたから。
子どもの腹が小さく鳴った。
ネアが布の包みを差し出した。さっき半分に割った、菜のもう半分だ。子どもは少しだけためらって、受け取った。
礼は言わなかったが、口に入れる前に、ネアの顔をちらと見た。
ネアもそれだけで満足したらしく、また箒のほうへ戻っていった。
子どもは菜をかじって、半分食べると、残りをまた布に包もうとした。
「全部、食べていい」とネア。子どもは手を止めて、少し考えた。「半分でいい」。誰かの分を残す手つきだった。どこで覚えたのかは、分からないままだった。
「明日も来る」
食べ終えて、子どもが立ち上がった。
「うん」
それだけで、子どもは段を下りていく。靴のない足が、濡れた石を踏む音が遠ざかっていった。
掃いたばかりの隅に、また入口から風が埃を運んでくる。
ネアはそれを見たが、箒は取りに戻らなかった。
床の返りが、まだ細く続いていた。
子どもの手が離れたあとも、引かれた綱がゆっくり止まっていくぶんだけ、床がその揺れを飲んでいる。
やがて止まる。
止まると、礼拝堂はまた水の集まる音だけになった。
「掃く意味、ないかもね」
ネアが崩れた壁を見て言った。屋根の半分がないのだから、掃いても次の雨でまた濡れる。
「でも、来たとき、きれいなほうがいいでしょ」
誰が、とは言わなかった。
あの子が、なのか、来るかどうかも分からない誰かのことなのか。
ネアはまた箒を取って、掃きはじめた。
俺は綱の擦り切れたところを、もう一度思い返していた。
あれは、鳴らすための痕じゃない。鳴らないと分かっていて、それでも握ってきた手の痕だ。
痕は、握った理由までは教えてくれない。
ただ、握られた回数のぶんだけ、そこにある。
壁の内側で、また鐘が鳴った。
いくつも重なった、立派な音だ。ここまでは、ほとんど届かない。子どもはもう、その音のしないほうへ歩いていったあとだった。
子どもの足音は、もう聞こえなくなっていた。
ネアの箒が、濡れていない側の床を、ひと掃きずつ進んでいく。
次も読みたくなったら、⭐評価かブックマークを置いていってくれると、石は嬉しい。
鐘の話はまだ続く。次回「床の冷たさ」。ネアが何を掃いているのか、俺もよく分かっていない。
——石より




