表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
104/115

第104話「床の冷たさ」

綱が鳴らないまま、床だけが冷えていた。


朝の礼拝堂は、音より先に足裏の重さで分かる。ネアが入口の割れた石をまたいだとき、俺のいる袋の布が腰骨に押されて、かすかにこすれた。そこから流れてくるのは、薄い光の気配と、ネアの体に残った外の冷えだ。


『今日も来てるな』

「……うん」


ネアの返事は短い。けれど歩幅は、昨日より少しだけ小さかった。中にいる子を驚かせないためか、単に床の割れ目を避けているだけか、そのへんは分からない。分からないままにしておくほうが、たぶん近いこともある。


礼拝堂の奥で、縄がきしんだ。

鐘は鳴らない。上のほうで金具の震えが乾いて、すぐ黙る。その代わり、綱を引いた子の体重が床へ落ちた。小さな足の重みが、割れた石の目を通って地脈に触れる。


そこで、俺は気づいた。

床の温度が、場所で違う。


冷たい床と、もっと冷たい床があった。石なので寒暖にうるさいわけではない。前世で冷房の真下の席を引いた日くらいしか、温度差に文句を言った記憶もない。いや、あれは普通に文句を言った。石でも会社員でも、冷えは敵だ。


ただ、ここは空気の冷たさではなかった。

膝をつく位置だけ、底から冷えている。何度も何度も同じ場所に重さが置かれ、手が添えられ、立ち上がるたびに熱だけが細く抜けたような冷え方だった。量ではない。大勢か少数かでもない。場所が、そこだけ違っていた。


「また、鳴らない」


男の子の声がした。ネアの体に触れているせいで、声は布越しの震えとして届く。少し鼻にかかった、朝の水をまだ飲んでいない子どもの声だった。


「うん」

「でも、引く」

「……うん」


会話としては成立しているのか少し怪しい。けれど、男の子はそれで困っていないらしかった。ネアの短さに慣れた者だけが持つ、余白の使い方がある。俺はまだその検定に落ちそうになる。


男の子がまた綱を引いた。

腕の力は強くない。綱がこすれ、上で壊れた鐘が身じろぎだけをする。礼拝堂の外、壁の内側のどこかでは、朝を知らせる立派な鐘が鳴っているのかもしれない。ここまで届くのは、地脈の底で薄くほどけた余波だけだった。


大きな鐘は、遠くを集める。

この鐘は、ひとりを集めている。


そんなふうに言い切るのは、たぶん早い。俺は宗教評論家に転生したわけではない。石である。しかも動けない。だから、分かった顔で意味を貼るのはやめた。

男の子は綱から手を離した。床へ降りる足音が、冷たい場所のすぐ手前で止まる。


「ほうき、借りていい?」

「ある」


ネアが礼拝堂の端へ歩いた。布越しに、崩れた壁の明るさと、積まれた木片の形だけが混じってくる。そこに古いほうきが立てかけてあるらしい。柄を持ち上げたネアの指が少し固くなった。


『掃くのか』

「うん」


それ以上は言わなかった。

なぜ掃くのか。誰のためにきれいにするのか。言葉にすれば簡単に形がつく。でも、形がついた途端、ここの床にある冷たさとは別のものになりそうだった。


ネアはほうきを男の子に渡した。男の子の手が柄を受け取る。高さが違う。ネアより低い位置で木が鳴り、それから床をこする音が始まった。

乾いた砂が石の目から外へ押される。

掃くたび、床の冷たい場所が少しだけ広く触れた。汚れが落ちたからではない。上に積もったものがずれて、下にある温度が俺まで届きやすくなっただけだ。膝をつく場所。手を置く場所。立ち上がるとき、片方のつま先が力を入れる場所。


そこに、男の子の今朝の足では届かない高さの擦れがあった。

壁際の石の角。綱の下から少しずれたところ。何かを掛けた跡でも、荷物を引いた跡でもない。手のひらが、迷ってから置かれたような浅い冷え。男の子はそこを掃きながら、何も言わなかった。


ネアも、何も言わない。

俺も言わないことにした。


地脈を深くたどれば、たぶんもう少し分かる。誰が膝をついたのか。どれくらい前から冷えていたのか。祈りと呼ばれるものが、どこへ向いていたのか。そういうものを、床は完全には隠していない。

でも、それを横から拾うのは違う気がした。

俺は動けない。だからこそ、届いてしまうものがある。届くから全部読む、というのは能力の使い方ではなく、ただののぞき見に近い。転生もの百冊読んだ俺でも、そこは主人公特権にしてはいけないと分かる。たぶん。


『そこ、冷たいな』


言ってから、少し雑だったかもしれないと思った。床が冷たいと言われても、普通は返事に困る。俺が石だから許される話題である。

ネアは足を止めた。男の子もほうきを止める。


「石、冷たいの分かるの?」

『床からなら、少しな。全部じゃない』

「へえ」


男の子は感心したように言った。怖がるでも、ありがたがるでもない。便利そうな道具を見つけた顔、かもしれない。ネアの視線が一瞬だけ袋に落ちたので、たぶんそういう顔をしていたのだろう。


「じゃあ、ここは?」


男の子が床を指で押した。布越しに、ネアの目がその動きを拾う。割れた石の継ぎ目、冷たい場所の端。小さな指先の触れ方が、そこだけ新しい熱を落とした。


『冷たい』

「ここは?」

『少し温い』

「こっちは?」

『冷たい。あと、そこは割れてるから指を入れるな』

「入れないよ」


本当か。子どもは「入れないよ」と言いながら入れる生き物ではないのか。俺の前世知識が偏っている可能性はあるが、割れ目に指を入れたくなる気持ちだけは分かる。石としては分かりたくなかった。


ネアがしゃがんだ。

袋が膝の上に移り、布の向こうで体温が近くなる。ネアの手は床に触れなかった。代わりに、自分の膝の横に袋を置いた。俺のいるあたりだけ、少し温い。礼拝堂の床が冷えすぎているせいで、ネアの体温がやけにはっきりした。


「寒い?」

男の子が聞いた。

「ない」


ネアはそう言ったが、肩の奥がほんの少し固まっていた。寒くない、の中には、寒いと言うほどではない、が混じることがある。俺はそれを知っている。

石になってから知ったのではなく、前世の会議室でもたぶん知っていた。ただ、あのころは知っているふりだけして、上着を貸すほど気が利かなかった。


『少し座っていけ』

「……うん」


ネアは反論しなかった。

男の子が掃く音だけが残った。砂が集まる。欠けた木片が端へ寄る。鳴らない鐘の下で、床だけが少しずつ見えるようになっていく。


見える、というのはネアの目を借りた言い方だ。俺自身には色も形もない。ただ、床の冷え方は分かる。掃かれたところから、古い温度の差が細く立ち上がる。人が膝をついた場所は、ほかより冷たい。人が手を置いた場所は、その周りだけわずかに温い。

冷たさは消えていないし、温さのほうも、まだ残っている。

どちらも主張はしない。ここで何があったと叫ぶでもない。ただ、そこに触れるものがあれば、指先や膝へ、温度の差として伝わるだけだ。返事ではなく、床の癖みたいに。


男の子が砂を入口の外へ出した。最後に、綱の真下をもう一度だけ掃く。ほうきの先が、さっきの浅い冷えに触れた。子どもの手ではない高さ。そこをなぞってから、彼は少しだけ柄を持ち直した。


「ここも、冷たい?」

『少し』

「ふうん」


それだけだった。

俺は、それ以上言わなかった。ネアも聞かなかった。男の子は答えを待つ顔をしていない。問いを置いて、自分で床を掃いているだけだった。

やがて、彼はほうきを壁に戻した。


「明日も来る」

「うん」

「鐘、鳴らないけど」

「……うん」

「掃くと、なんか、いいから」


言ってから、男の子は少し黙った。誰が来るのか、何のためなのか、そこまでは言わない。言わないまま、入口の割れた石を越えて外へ出ていく。軽い足音が離れ、地脈の上から薄く消えた。


ネアはしばらく座っていた。

礼拝堂の中に、遠い鐘の余波が届いた。立派な音ではない。地脈の底で崩れた、硬い震えの切れ端だ。ここの鐘は鳴らない。けれど、その下の床には、誰かが来る前に冷えた場所と、来たあとに少し温くなる場所がある。


『帰るか』

「まだ」


珍しく、すぐ返ってきた。

ネアは袋を膝に置き直した。布越しの体温が、床から来る冷たさとぶつかる。俺はその間に挟まって、どちらも選べないままいた。石なので、選ぶほど器用ではない。


少しして、ネアが立った。

床の冷たい場所に、彼女の膝の熱が短く残った。それは祈りではなかったと思う。たぶん、ただ座っていただけだ。けれど礼拝堂の床は、ただ座った熱も、雑に捨てたりはしなかった。

出口へ向かうネアの足音が、割れた石を避ける。背中の袋が揺れて、外の冷えがまた布越しに入ってくる。


鐘は、今日も鳴らなかった。

その下の床だけが、少しだけ温くなっていた。

⭐とかブックマークがあると、動けない石でもちょっと浮く。

次回「鳴らない朝」もよろしく。鐘より床のほうが働いている気がする。


——石より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ