第104話「床の冷たさ」
綱が鳴らないまま、床だけが冷えていた。
朝の礼拝堂は、音より先に足裏の重さで分かる。ネアが入口の割れた石をまたいだとき、俺のいる袋の布が腰骨に押されて、かすかにこすれた。そこから流れてくるのは、薄い光の気配と、ネアの体に残った外の冷えだ。
『今日も来てるな』
「……うん」
ネアの返事は短い。けれど歩幅は、昨日より少しだけ小さかった。中にいる子を驚かせないためか、単に床の割れ目を避けているだけか、そのへんは分からない。分からないままにしておくほうが、たぶん近いこともある。
礼拝堂の奥で、縄がきしんだ。
鐘は鳴らない。上のほうで金具の震えが乾いて、すぐ黙る。その代わり、綱を引いた子の体重が床へ落ちた。小さな足の重みが、割れた石の目を通って地脈に触れる。
そこで、俺は気づいた。
床の温度が、場所で違う。
冷たい床と、もっと冷たい床があった。石なので寒暖にうるさいわけではない。前世で冷房の真下の席を引いた日くらいしか、温度差に文句を言った記憶もない。いや、あれは普通に文句を言った。石でも会社員でも、冷えは敵だ。
ただ、ここは空気の冷たさではなかった。
膝をつく位置だけ、底から冷えている。何度も何度も同じ場所に重さが置かれ、手が添えられ、立ち上がるたびに熱だけが細く抜けたような冷え方だった。量ではない。大勢か少数かでもない。場所が、そこだけ違っていた。
「また、鳴らない」
男の子の声がした。ネアの体に触れているせいで、声は布越しの震えとして届く。少し鼻にかかった、朝の水をまだ飲んでいない子どもの声だった。
「うん」
「でも、引く」
「……うん」
会話としては成立しているのか少し怪しい。けれど、男の子はそれで困っていないらしかった。ネアの短さに慣れた者だけが持つ、余白の使い方がある。俺はまだその検定に落ちそうになる。
男の子がまた綱を引いた。
腕の力は強くない。綱がこすれ、上で壊れた鐘が身じろぎだけをする。礼拝堂の外、壁の内側のどこかでは、朝を知らせる立派な鐘が鳴っているのかもしれない。ここまで届くのは、地脈の底で薄くほどけた余波だけだった。
大きな鐘は、遠くを集める。
この鐘は、ひとりを集めている。
そんなふうに言い切るのは、たぶん早い。俺は宗教評論家に転生したわけではない。石である。しかも動けない。だから、分かった顔で意味を貼るのはやめた。
男の子は綱から手を離した。床へ降りる足音が、冷たい場所のすぐ手前で止まる。
「ほうき、借りていい?」
「ある」
ネアが礼拝堂の端へ歩いた。布越しに、崩れた壁の明るさと、積まれた木片の形だけが混じってくる。そこに古いほうきが立てかけてあるらしい。柄を持ち上げたネアの指が少し固くなった。
『掃くのか』
「うん」
それ以上は言わなかった。
なぜ掃くのか。誰のためにきれいにするのか。言葉にすれば簡単に形がつく。でも、形がついた途端、ここの床にある冷たさとは別のものになりそうだった。
ネアはほうきを男の子に渡した。男の子の手が柄を受け取る。高さが違う。ネアより低い位置で木が鳴り、それから床をこする音が始まった。
乾いた砂が石の目から外へ押される。
掃くたび、床の冷たい場所が少しだけ広く触れた。汚れが落ちたからではない。上に積もったものがずれて、下にある温度が俺まで届きやすくなっただけだ。膝をつく場所。手を置く場所。立ち上がるとき、片方のつま先が力を入れる場所。
そこに、男の子の今朝の足では届かない高さの擦れがあった。
壁際の石の角。綱の下から少しずれたところ。何かを掛けた跡でも、荷物を引いた跡でもない。手のひらが、迷ってから置かれたような浅い冷え。男の子はそこを掃きながら、何も言わなかった。
ネアも、何も言わない。
俺も言わないことにした。
地脈を深くたどれば、たぶんもう少し分かる。誰が膝をついたのか。どれくらい前から冷えていたのか。祈りと呼ばれるものが、どこへ向いていたのか。そういうものを、床は完全には隠していない。
でも、それを横から拾うのは違う気がした。
俺は動けない。だからこそ、届いてしまうものがある。届くから全部読む、というのは能力の使い方ではなく、ただののぞき見に近い。転生もの百冊読んだ俺でも、そこは主人公特権にしてはいけないと分かる。たぶん。
『そこ、冷たいな』
言ってから、少し雑だったかもしれないと思った。床が冷たいと言われても、普通は返事に困る。俺が石だから許される話題である。
ネアは足を止めた。男の子もほうきを止める。
「石、冷たいの分かるの?」
『床からなら、少しな。全部じゃない』
「へえ」
男の子は感心したように言った。怖がるでも、ありがたがるでもない。便利そうな道具を見つけた顔、かもしれない。ネアの視線が一瞬だけ袋に落ちたので、たぶんそういう顔をしていたのだろう。
「じゃあ、ここは?」
男の子が床を指で押した。布越しに、ネアの目がその動きを拾う。割れた石の継ぎ目、冷たい場所の端。小さな指先の触れ方が、そこだけ新しい熱を落とした。
『冷たい』
「ここは?」
『少し温い』
「こっちは?」
『冷たい。あと、そこは割れてるから指を入れるな』
「入れないよ」
本当か。子どもは「入れないよ」と言いながら入れる生き物ではないのか。俺の前世知識が偏っている可能性はあるが、割れ目に指を入れたくなる気持ちだけは分かる。石としては分かりたくなかった。
ネアがしゃがんだ。
袋が膝の上に移り、布の向こうで体温が近くなる。ネアの手は床に触れなかった。代わりに、自分の膝の横に袋を置いた。俺のいるあたりだけ、少し温い。礼拝堂の床が冷えすぎているせいで、ネアの体温がやけにはっきりした。
「寒い?」
男の子が聞いた。
「ない」
ネアはそう言ったが、肩の奥がほんの少し固まっていた。寒くない、の中には、寒いと言うほどではない、が混じることがある。俺はそれを知っている。
石になってから知ったのではなく、前世の会議室でもたぶん知っていた。ただ、あのころは知っているふりだけして、上着を貸すほど気が利かなかった。
『少し座っていけ』
「……うん」
ネアは反論しなかった。
男の子が掃く音だけが残った。砂が集まる。欠けた木片が端へ寄る。鳴らない鐘の下で、床だけが少しずつ見えるようになっていく。
見える、というのはネアの目を借りた言い方だ。俺自身には色も形もない。ただ、床の冷え方は分かる。掃かれたところから、古い温度の差が細く立ち上がる。人が膝をついた場所は、ほかより冷たい。人が手を置いた場所は、その周りだけわずかに温い。
冷たさは消えていないし、温さのほうも、まだ残っている。
どちらも主張はしない。ここで何があったと叫ぶでもない。ただ、そこに触れるものがあれば、指先や膝へ、温度の差として伝わるだけだ。返事ではなく、床の癖みたいに。
男の子が砂を入口の外へ出した。最後に、綱の真下をもう一度だけ掃く。ほうきの先が、さっきの浅い冷えに触れた。子どもの手ではない高さ。そこをなぞってから、彼は少しだけ柄を持ち直した。
「ここも、冷たい?」
『少し』
「ふうん」
それだけだった。
俺は、それ以上言わなかった。ネアも聞かなかった。男の子は答えを待つ顔をしていない。問いを置いて、自分で床を掃いているだけだった。
やがて、彼はほうきを壁に戻した。
「明日も来る」
「うん」
「鐘、鳴らないけど」
「……うん」
「掃くと、なんか、いいから」
言ってから、男の子は少し黙った。誰が来るのか、何のためなのか、そこまでは言わない。言わないまま、入口の割れた石を越えて外へ出ていく。軽い足音が離れ、地脈の上から薄く消えた。
ネアはしばらく座っていた。
礼拝堂の中に、遠い鐘の余波が届いた。立派な音ではない。地脈の底で崩れた、硬い震えの切れ端だ。ここの鐘は鳴らない。けれど、その下の床には、誰かが来る前に冷えた場所と、来たあとに少し温くなる場所がある。
『帰るか』
「まだ」
珍しく、すぐ返ってきた。
ネアは袋を膝に置き直した。布越しの体温が、床から来る冷たさとぶつかる。俺はその間に挟まって、どちらも選べないままいた。石なので、選ぶほど器用ではない。
少しして、ネアが立った。
床の冷たい場所に、彼女の膝の熱が短く残った。それは祈りではなかったと思う。たぶん、ただ座っていただけだ。けれど礼拝堂の床は、ただ座った熱も、雑に捨てたりはしなかった。
出口へ向かうネアの足音が、割れた石を避ける。背中の袋が揺れて、外の冷えがまた布越しに入ってくる。
鐘は、今日も鳴らなかった。
その下の床だけが、少しだけ温くなっていた。
⭐とかブックマークがあると、動けない石でもちょっと浮く。
次回「鳴らない朝」もよろしく。鐘より床のほうが働いている気がする。
——石より




