第105話「鳴らない朝」
雨は止んでいた。
そう分かったのは、ネアが礼拝堂の入り口で足を止めなかったからだ。昨日までなら、割れた敷居の前で一度、靴底をこすっていた。泥を落とすためだ。今日はその小さな抵抗がない。
俺はネアの腰袋に入っていた。布越しに、ネアの見ている朝が薄く流れてくる。屋根の抜けたところから入る光が、昨日より低い位置を通っている。ネアの首が少し上を向いた。
半分残った屋根。割れた鐘。欠けた石床。
雨上がりの朝に、礼拝堂はいつもより広く感じられた。いや、俺が広いと感じたわけではない。ネアの足音が、奥まで行く前に一度ほどけた。壁に当たって返る音が、昨日より軽い。
ネアは荷物を下ろした。
俺も、石床の端に置かれた。布の外へ出ると、世界は目ではなく下から来る。床板ではない。石。割れ目。そこに薄くたまった砂。ネアの膝が近くに落ちると、その重さが細い線になって伝わった。
箒が動き出す。
枝を束ねただけの箒だ。先がそろっていないから、石床の欠けたところを通るたびに引っかかる。ネアは引っ張らない。少し戻して、角度を変えて、また押す。
そういう動きは、言葉より長く残る。
「……よし」
よし、ではないと思う。床の砂はまだある。壁際には細かい欠片もある。けれどネアの「よし」は、終わったという意味ではなく、始められるという意味に近かった。
礼拝堂の外から、足音が来た。
軽い。けれど急いではいない。毎朝、同じくらいの速さで近づいてくる子どもの足だ。割れた敷居の手前で一度止まり、そこから二歩、小さく跳ねる。
男の子だった。
「おはよ」
「……ん」
ネアの返事は短い。けれど箒は止まらなかった。男の子もそれで足りるらしい。彼は奥へ行き、垂れた綱の下に立った。
鐘は割れている。
誰かがそう説明しなくても、この場所にいるものは知っている。金属の腹に走った裂け目は、引けば引くほど音を逃がす。高いところで何かが揺れても、朝を告げる声にはならない。
男の子が綱を握った。
一度目。
石床に、細い震えが走った。綱から梁へ、梁から壁へ、壁から床へ。途中で何度も弱まり、最後に俺の下まで来るころには、ほとんど息だけになっていた。
鐘は鳴らない。
二度目。
今度は、梁のどこかで小さな金具が鳴った。音というより、針の先で石を突いたみたいな一点の震えだ。男の子は気づかない。ネアも顔を上げただけで、何も言わなかった。
綱が戻る時、天井の欠けた縁から入った光が揺れた。ネアがそれを目で追った。布越しではないので、俺には光そのものは分からない。ただ、ネアのまぶたの動きと、息を止める短さだけが来る。
その瞬間、床に置かれた小さな石片が動いた。
鐘の震えではない。もっと低い。礼拝堂の奥、壊れた台座の下から一度だけ押し返すような揺れだった。石片は欠けた床の溝で止まった。止まった場所が、古い傷の端に重なる。
ネアの箒がそこで止まった。
男の子は綱を離した。掌を服でこすり、割れた鐘を見上げる位置に首を傾ける。毎朝の動きだ。鳴らないことを確かめるために来ているのか、鳴らないと知っているから来ているのか、その境目はもう薄い。
「今日もだめ」
「うん」
会話はそれだけだった。
けれど男の子はすぐ帰らなかった。綱の下で少し背伸びをして、手の届くところを探る。結び目ではない。擦り切れたところでもない。もっと上、子どもの指では届ききらない高さだ。
指先が空をつかんで、すぐ落ちた。
ネアは箒を壁に立てかけた。代わりに、台座のそばへ行く。床に散った石片を一つずつ寄せ、溝に落ちた小さいものだけ拾った。
拾い方が、昨日までと違った。今日は、動いた石片から先に拾う。説明はない。俺にも聞かない。拾った石片を掌の中で転がし、壊れた台座の横へ置く。
そこは、朝の光がしばらく当たる場所だったらしい。
ネアの視界から、白く抜けた床の一部が流れてきた。石片を置くと、その白いところが少し欠ける。光の上に影が乗る。乗った影はすぐ動かず、床の傷に沿って細く伸びた。
俺は何も言わなかった。
言うことがない、というより、言った瞬間に違うものになる。ここでは、鳴らない鐘を鳴らす必要がない。鳴らないことを毎朝確かめに来る子どもがいて、それを掃きながら受け入れるネアがいる。
それだけで、石の側は忙しい。
男の子が床にしゃがんだ。
「それ、なに」
「石」
男の子は首をかしげてからもう一度聞いた。「石は知ってる」
「欠けた」
ネアの説明は短い。短すぎる。けれど男の子は笑ったように息を吐いた。笑い声は大きくならなかった。ここでは、声を大きくすると壊れたところまで揺れそうだった。
壁内のほうから、遠い鐘が来た。
立派な鐘だ。ここからでも、地面を通って分かる。重い金属が規則正しく打たれ、石の道を長く伝ってくる。震えは太く、途中で途切れない。壁の内側では、朝がきちんと呼ばれている。
男の子が顔をそちらへ向けた。
ネアも、少しだけ動きを止めた。
俺は、遠い鐘の震えと、この礼拝堂の割れた鐘の震えを並べて受けた。片方はまっすぐ届く。片方は何度も欠け、擦れ、床の溝で迷ってから来る。
重いほうが、よく届く。
大きい鐘は大きく鳴る。割れていないものは割れていない音を出す。壁の内側にあるものは、壁の外まで届くように作られている。
ただ、ここで綱を引く腕の重さが、それより軽いと決まったわけではない。
礼拝堂には、鳴らなかった後だけが残った。
男の子はもう一度だけ綱を引いた。
今度は強くなかった。朝の役目というより、結び目がほどけていないかを確かめる動きだ。綱が戻る。擦れた繊維が梁の下でこすれ、細いざらつきが床へ落ちる。
ネアの手が伸びた。
男の子が帰った後だった。
昼前、雲が動いたらしく、ネアの視界に入る光の位置が変わった。床の白い帯が綱の影を斜めに拾い、その影が擦り切れたところで一度乱れた。
ネアはそこで止まった。
箒を持つ手ではない。空いた手で、綱の傷んだところに触れた。子どもの手が毎朝握る場所より、少し上。今の男の子が背伸びしても届ききらなかったあたりだ。
ネアは引かなかった。
ただ指を当て、繊維の向きに沿って一度なぞった。綱は古く、触れられた分だけ細かく震えた。その震えが梁へ上がらず、逆に床へ降りてくる。
俺の下で、石床が浅く返した。
鐘の代わりではない。答えでもない。もっと手前の、何かが触れたという事実だけの返りだ。けれどその返りは、雨の後の砂より長く残った。
ネアは何も言わない。
言えば、男の子にも聞こえたかもしれない。もういない子に向ける言葉は、この礼拝堂では壁に当たって戻るだけだ。ネアはそれを知っているみたいに、口を閉じたまま綱から手を離した。
その後、ネアは壊れた台座の周りを掃いた。
石片をどかし、砂を寄せ、昨日濡れた布を屋根の残った梁にかけ直す。雨宿りが数日続いただけだ。それでもネアは、朝を一度通した場所をそのままにしない。
昼を過ぎると、人の足は減った。
外の道を荷車が通るたび、車輪の震えが床の端に触れる。壁内へ行くもの。壁内から出るもの。どちらも礼拝堂には寄らない。寄らないまま、遠い鐘のあった方角へ震えを運んでいく。
ネアは入口の欠けた敷居に座った。
パンを割る音がした。自分の分を小さくして、残りを布に包む。男の子に渡すためか、後で自分が食べるためか、そういうことを俺は決めない。ネアの手つきは、分けることに慣れていた。
『食べないのか』
「あとで」
俺は黙った。石が食事の配分に口を出すと、だいたいろくなことにならない。
ネアは俺を袋に戻さなかった。
石床の端に置いたまま、礼拝堂の中を何度か行き来した。足音の場所で分かる。入口。台座。綱の下。壁際。欠けた屋根の真下。
そのたびに、朝の光が動いたらしい。ネアの影が床を横切り、石片の置かれた場所で短く止まる。俺には影は見えない。ただ、ネアの足がそこで少し遅くなる。
夕方に近づく前、男の子がもう一度来た。
朝とは違う足音だった。走ってきて、敷居の前で止まり、息を整えずに中へ入る。何かを持っている。軽いものだ。布に包まれた細い木片が、歩くたび腰に当たっていた。
「これ」
男の子はそれを差し出した。
ネアが受け取る。木片ではなく、小さな楔だった。折れた板から削ったのだろう。綱を壁に掛ける釘の下に挟むには、足りる。
「使う?」
「……使う」
二人で綱を直すには、言葉が少なすぎた。
それでも作業は進んだ。男の子が綱を持ち上げる。ネアが楔を差す。うまく入らない。もう一度抜く。角度を変える。男の子が爪で余分な木を削る。ネアが黙って待つ。
楔が入った。
綱は前より少しだけ壁から離れた。擦り切れたところが、石の角に当たりにくくなる。鐘は直っていない。鳴らない朝は、明日もたぶん鳴らない。
男の子はそれでも満足したように、綱を一度だけ引いた。
割れた鐘は鳴らなかった。
代わりに、楔が壁の中で小さく鳴った。木と石が噛み合う、短い震えだった。朝の鐘には遠い。壁内の鐘にも遠い。けれど今度の震えは、床の溝で迷わず、まっすぐ俺の下まで来た。
ネアの息が少し止まる。
男の子が言った。
「鳴った?」
ネアはしばらく答えなかった。
鐘は鳴っていない。そこは間違えられない。割れたものは割れたままだ。朝を呼ぶには足りない。壁内まで届くはずもない。
「少し」
ネアはそう言った。
男の子は、もう一度綱を見た。今度は引かなかった。引けば同じ震えが返るとは限らない。そういうことも、たぶん子どもは知っている。
帰り際、彼は敷居のところで振り返った。
「また明日」
「うん」
明日。
その言葉が礼拝堂の中に落ちると、床は何も返さなかった。返さなくてもいい言葉なのかもしれない。約束は、鳴らなくても来る。
ネアは男の子が出ていった後も、しばらく綱の下にいた。
それから俺を拾い、腰袋に戻した。布越しに、最後の光が細くなっていく。屋根の欠けたところから入ったそれは、壊れた台座の横に置かれた石片を一度だけなぞり、床の傷で途切れた。
夜になる前、遠い鐘がまた鳴った。
壁内の鐘は、朝と同じように重く届いた。こちらの割れた鐘は黙っていた。けれど壁に挟まった小さな楔だけが、遅れて一度、かすかに震えた。
礼拝堂の中に、鳴らなかった朝の続きがあった。
鳴らないものの横で、少しだけ鳴ったものがありました。☆評価・ブックマーク、次回もよろしくお願いします——石より。




