第92話「村道の足音」
最初に気づいたのは、床だった。
宿の床板が、ほんの少しだけ沈む。誰かが歩いたわけではない。ネアは窓際の壁にもたれて、膝の上で布袋の口を押さえている。下では宿の女が、皿を重ね、桶の水を捨て、戸口の金具を確かめていた。来客の準備は、朝になっても終わっていなかった。
その全部の下を、別の音が通った。
どん。
遠い。けれど重い。地面の奥から、石の俺にだけ先に触れる音だった。ネアの指が布袋の縁を握り直す。見えているのではない。触れているものが変わった。指先の力が、薄い布を通って俺に伝わった。
どん。
もう一つ。
二つでは足りない。間を置いて、また二つ。四つの重さが村道の土を踏んでいる。人の足ではない。荷車でもない。馬だ。廃都の外で聞いた、あの沈むような足音だった。
『来た、かも』
声に出す必要はなかったかもしれない。ネアはもう聞いていた。いや、聞く前から気づいていたのかもしれない。昨日、宿の女が何度も玄関を開け閉めし、客用の部屋に新しい布を入れ、火の残りを見ていた時から、村はすでに来るものを待っていた。
ネアは返事の代わりに、息を止めた。
下の厨房で、包丁の音が止まった。とん、とん、と続いていた細い刻みが、途中で切れる。水桶の縁に当たっていた柄杓も止まる。宿の女の足音だけが一歩進んで、そこで床板を鳴らさなくなった。
村の外から、馬の足音が近づいてくる。
どん、どん。
その間に、村の音が減っていく。通りで誰かが縄を引いた。きし、と繊維が鳴り、すぐ握り直す乾いた音がした。戸板の隙間も少しだけ動き、すぐ止まった。
俺は石なので、玄関の向こうに何が見えるかは分からない。分からないことが、今日は妙に大きい。ネアの膝は動かない。俺を抱えたまま、部屋の隅の空気に混じるようにじっとしている。
宿の女が階段の下から呼んだ。
「ネアちゃん」
用件までは言わない。来た、とも、隠れて、とも、出てきて、とも言わない。言葉を増やせば、その分だけ宿の中に怖さが広がると知っているみたいだった。
ネアはゆっくり立った。椅子の脚が床をこすらないように、片手で座面を押さえている。こういうところだけ、妙に器用だ。俺は布袋の中で少し傾いた。
『廊下まで?』
「……うん」
声は小さい。けれど震えてはいなかった。震えるには、まだ早い。何も起きていない。馬が近づいているだけだ。来客が来ると、昨日から分かっていただけだ。
分かっていたことが実際に足音を持つと、話は別になる。
廊下に出ると、宿の中が広くなった気がした。普段なら軋む板、咳払い、鍋の蓋がそれぞれ場所を作っている。今は何もない。音がないせいで、階段の下までの距離だけが伸びていた。
ネアは手すりには触れなかった。片手で布袋を押さえ、もう片方の手を壁に沿わせる。壁の木がひやりとしたらしく、指が一度だけ止まる。外の足音がまた近づいた。
どん。どん。
宿の前ではない。まだ村の入口だ。だが、入口で止まる重さと、宿の前で止まる重さは違う。廃都の石畳ほどはっきりしないが、馬が村道の固いところから踏み固められた土へ移ったのは分かった。
そこで、四つの足が止まった。
音が途切れた瞬間、村全体が息を呑んだ。
本当に、そうとしか言いようがない。向かいの家の戸板も、通りの縄も、離れた井戸のあたりにいた人の靴底も、全部が同じところで止まった。止まった音は聞こえないのに、止まったことだけが地面に残る。
ネアの喉が小さく動いた。
(石にも分かる沈黙は、だいたいよくない)
馬が鼻を鳴らした。低い息が村道に落ちる。金具が一つ揺れ、革が擦れる。誰かが鞍から降りたのか、重さが横に移った。足音はまだ一人ぶん。少なくとも、馬の顔も、乗っている人間の顔も、俺には見えない。
宿の女が玄関へ向かった。
一歩目は普通だった。二歩目から、慎重になった。床板のどこが鳴るか知っている歩き方だ。客を迎える足取りなのに、逃げ道を確かめる足取りにも聞こえた。
「はい」
玄関の内側で、宿の女が声を出す。扉を開ける前の声だった。外に向けた声で、村に向けた声でもある。私はここにいる。宿は開いている。そういう意味が、短い一語に入っていた。
返事はすぐには来なかった。
代わりに、馬が蹄を一つ鳴らした。
村道の土に混じった小石を踏んだ、鈍い音。畑の湿り、薪の粉、朝の残り火、そういう生活の上に、知らない重さが乗っている。
ネアは階段の途中で止まった。下りきらない。部屋へ戻らない。宿の女から見えるか見えないかの場所で、布袋を抱き直す。俺はその中で、ただ聞いている。
動けないことには慣れている。
慣れているはずなのに、扉一枚の向こうへ近づけないことが、今日は少しだけ腹立たしかった。いや、近づけたところで何ができるわけでもない。石が玄関に出たところで、客はたぶん困る。
宿の女が閂に手をかけた。
木が擦れる。金具が外れる。いつもならありふれた開店の音が、今日はやけに遅い。扉は一気に開かなかった。まず細く隙間を作り、外の空気を入れ、それから人一人ぶんだけ押し広げる。
外の音が入ってきた。
馬の息。革紐の揺れ。誰かの衣が少し擦れる音。遠くで、止まっていた包丁が一度だけ板に当たった。間違えて動いてしまったみたいな、弱い音だった。
それを合図にしたように、村が少しだけ戻る。誰かが縄を結び直す。桶の水面が揺れる。小さな子どもが言いかけ、すぐ大人に止められる。音は戻ったふりをしているだけだった。
「お待ちしておりました」
宿の女の声が、今度は少しだけ深くなった。客に向けた声だ。村の人間ではない相手へ、礼を崩さず、けれど近づきすぎない距離で投げる声。
外の人間が何かを言った。
低い。布と扉と距離を挟んで、言葉までは届かない。男か女かも決められない。ネアの耳が拾ったものが布越しに少しだけ流れてきたが、それでも輪郭だけだった。礼儀のある声。急いでいない声。ここに来る理由を持っている声。
俺は、その声が怖いと思った。怒鳴られたわけでもない。武器の音がしたわけでもない。むしろ丁寧だった。丁寧なものほど、逃げ道を先に塞ぐことがある。
ネアが一段だけ下りた。
ぎ、と板が鳴った。
その音に、外の声が止まった。
しまった、と俺が思う前に、宿の女が言葉を足した。
「二階のお客様です。昨夜からお泊まりで」
嘘ではない。けれど全部でもない。廃都から来たことも、石を抱えていることも、宿の女は言わなかった。
外の人間は、しばらく黙った。
馬がまた息を吐く。
それから、靴底が一歩だけ玄関の板を踏んだ。土から木へ。外から宿へ。境目を越える音だった。
ネアの手に力が入る。布袋の口が少しだけ閉じる。暗いも何も、俺はもともと見ていない。それでも、閉じられた感じだけは分かった。
『ネア』
呼んだだけになった。何を言えばいいのか、俺にも分からない。大丈夫、は違う。隠れろ、も違う。動くな、は俺が言うと少し腹が立つ。
ネアは返事をしなかった。
ただ、もう一段だけ下りた。
宿の女が息を整える。来客が内側に立つ。村道の足音は、もう聞こえない。止まった馬と、止まれない人間たちの気配だけが入口に溜まっている。
そして、まだ顔の見えない客が、こちらへ向かって口を開いた。
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——石より




