第93話「預かり物」
宿に人が来たのは昼前で、それからずっと、何もなかった。
夜になって、戸口の前で足音が止まった。
それだけで、部屋の中の空気が少し固くなる。俺はネアの胸元の布越しに、その変化だけを拾っていた。扉の外にいる相手の顔は分からない。背の高さも、年齢も、服の形も、俺には直接は届かない。
ただ、ネアが息を浅くしたのは分かった。
「……はい」
扉が開く音がした。木がこすれる軽い音と、敷居の向こうで誰かが姿勢を正す気配。客は無理に入ってこなかった。そこに立ったまま、まず礼をしたらしい。ネアの肩が少し下がった。
「夜分に失礼します。こちらに、ネア様はいらっしゃいますか」
名前を呼ばれた瞬間、ネアの指が布を押さえた。俺を隠すためというより、自分の胸の前に手を置いただけの動きだった。
「……私」
「あなたが」
相手の声は若くも老いてもいない。商人の声ほど滑らかではなく、兵士の声ほど固くもない。どこかで何度も同じ用件を運んできた人間の、無駄を削った声だった。
俺はその時点で嫌な感じがした。
無駄がない人間は、だいたい何かを持ってくる。良いものとは限らない。
来訪者は一度だけ間を置いた。確認している。ネアの顔ではなく、ネアの向こうにある何かを。
「廃都から来た方ですね」
その一言で、ネアが止まった。
廃都。
ここで、その言葉が出るとは思っていなかった。イシュラの名でもなく、古い街でもなく、ただ廃都。人が去り、水音だけが残り、ネアが戻って、俺がいた場所。
それを、この人間は知っている。
ネアは答えなかった。否定もしなかった。沈黙は短かったが、扉の前に置くには重すぎた。
「……誰」
やっと出た声は、問いというより、指先で包みを触る前のためらいに近かった。
来訪者は慌てなかった。
「名を出さないよう頼まれています。ですが、害のあるものではありません」
『ネア』
俺は短く呼んだ。止める言葉ではない。受け取れ、と言う言葉でもない。俺がここにいると伝えるだけで、他にできることはあまりない。
ネアの指が布の上で一度止まる。
「……廃都の、人?」
「廃都にいた方から、とだけ」
いた。
その言い方が、妙に引っかかった。住んでいる、ではない。知っている、でもない。いた。過去の場所に置いてきたような言葉だった。
廃都にいた人間。ネア以外に。あるいは、ネアが知っていてもここで名を出せない誰か。
扉の外で、布か紙がかすかに鳴った。相手が何かを差し出したのだろう。ネアの視界がそこへ落ちた気配が、布越しに伝わってきた。小さな包み。手のひらに収まるくらいの重さ。金属でも瓶でもない。中身までは分からない。
「預かり物です」
預かり物。
届け物でも遺品でもない。その言い方はずるい。受け取れば責任が生まれる。断れば、預けた誰かの手が宙に残る。
ネアは動かなかった。
俺は、何か言うべきか迷った。危ないかもしれない。廃都の名前を出せばネアが拒めないと知っている相手かもしれない。
けれど、俺には包みの中が分からない。来訪者の顔も分からない。分からないまま、ネアの手を止めるほどの理由もない。
動けないというのは、こういう時にいちばん不便だ。
「……誰から」
ネアがもう一度聞いた。
来訪者の返事は、少しだけ遅れた。
「申し訳ありません。私が受けた頼みは、あなたに渡すところまでです」
嘘をついているかどうかは分からない。ただ、言えることが本当にそこまでなのだとしたら、相手もまた預かっている。包みだけではない。名前を出さないという約束ごと。
廃都は、人がいない場所だった。少なくとも俺はそう思っていた。
でも今、扉の外に立つ人間は、その場所から伸びた糸を持っている。
ネアの手が上がった。
すぐには受け取らなかった。包みの前で、ほんの少し止まった。俺にはその止まり方が分かる。水を飲む前、知らない道へ曲がる前、昔の棚に手を伸ばす前。ネアは怖がっていない顔をするのが上手いが、身体はときどき正直だ。
「……分かった」
短い返事だった。
包みがネアの手に移った。
その瞬間、重さがこちらにも来た。実際の重さではない。ネアの腕に乗った分だけ、布越しに呼吸が変わる。小さいのに、簡単に懐へ入れられないもの。開ければ何かが始まると分かっているもの。
「今、開けますか」
来訪者が聞いた。
ネアは首を横に振ったらしい。声は出さなかった。
「承知しました。では、私はこれで」
「……待って」
ネアが呼び止めた。来訪者の足が止まる。
「あなたは、廃都を見た?」
それは珍しく、ネアのほうから踏み込んだ問いだった。知りたいのだと思う。警戒しているのもある。けれど、それだけではない。自分の帰った場所を、相手がどう知っているのか。誰の言葉で、どんな顔で、その名を運んできたのか。
来訪者はすぐには答えなかった。
「遠くからだけです」
「……そう」
「ただ」
相手の声が、そこで少しだけ低くなった。
「あそこを、まだそう呼ぶ方がいるのだと知りました」
そう呼ぶ。
廃都。
言葉は同じなのに、さっきとは少し違って聞こえた。壊れた場所を指すための名前ではなく、誰かが忘れずに持っていた名前のように。
ネアは返事をしなかった。
来訪者もそれ以上は言わなかった。床板のきしみが一つ、二つ。扉が閉まる。外の足音は廊下の向こうへ小さくなり、やがて消えた。
部屋に残ったのは、ネアと俺と、開けられていない包みだった。
ネアは扉の前から動かなかった。手の中の包みを持ったまま、指をほどくでもなく、握りしめるでもなく、ただそこに置いている。
人は小さなものを持ったまま、ずいぶん遠くを見ることがある。俺にはその遠くが見えない。けれど、ネアの呼吸が廃都のほうへ向いているのは分かった。
『開けないのか』
聞いてから、少しだけ余計だったかもしれないと思った。
ネアはすぐに答えなかった。包みを胸の前に寄せる。俺のいる布と、包みが近くなる。間にネアの指があり、体温があり、沈黙があった。
「……夜にする」
それだけだった。
今ではない。
昼の光があるところでも、誰かが来たばかりの扉の前でもない。ネアはそう決めた。中身を見ないまま受け取るのは、逃げではない気がした。開ける場所を選んでいる。驚くためではなく、崩れないために。
俺はそれ以上聞かなかった。
包みの中に何があるのか。誰が頼んだのか。なぜ今なのか。疑問は、床に落ちた影みたいに足元へ溜まっていく。俺はそれを踏むことも払うこともできない。
ネアはようやく扉から離れた。
一歩。もう一歩。
包みはまだ、手の中にあった。
廃都から来た方ですね。
さっきの声が、部屋のどこかに残っている。
廃都を知っている人間がいる。
そのことだけで、包みはまだ開いていないのに、もう中身の一部を見せてしまっている気がした。
刺さった人は、⭐評価かコメントを置いていってほしい。
——石より




