村に来る人
「客用の布、どこへしまったっけ」
宿の女が、床板の上を何度も往復していた。
朝の水を運び終えて戻ると、空き部屋の戸は開け放たれていた。薄い寝布が外され、床を掃く箒の先が板の継ぎ目を細かく叩いている。
ネアが袋を肩から下ろさないまま聞いた。
「客、来るの」
「来るかもしれない、だね。隣村を出たって話だけ先に来たよ」
宿の女は棚の戸を開け、器を二つ重ねて出した。
「昼に着くのか、夕方になるのか、それとも道を間違えて明日になるのか。分からないから、先に掃いておくのさ」
『来なかったら?』
「来なかったら、部屋がきれいになる」
ネアが少し考えた。
「得」
「そういうこと」
来るかどうか分からない人のために、村ではもう箒が動いている。
よそ者本人より、支度の方が先に着いたらしい。
ネアは空き部屋の端へ寄せられた水差しを持った。
「汲む?」
「頼めるかい。井戸では縄を替えるって騒いでるから、使えるうちに一杯だけね。昼飯は出すよ」
「やる」
返事が速い。
客より昼飯の方が、もう村に着いていた。
◆
井戸のまわりには、朝より多くの足が集まっていた。
水を汲みに来た足ではない。同じ場所に立ったまま動かず、時々、井戸の縁へ重さをかけている。木の棒が地面へ置かれ、太い縄の束がその横へ落ちた。
「旅の子、今なら一杯だけ汲めるよ」
昨日から井戸端にいる女が声をかけてきた。
「そのあと古い縄を外すからね。今日の夕方までは、みんな家の水でしのぐんだ」
別の男が言う。
「だから朝に多めに汲んだだろ。足りない家は言えよ。来客用だからって飲まずに取っとくなよ」
「客に空の器を出すわけにもいかないだろ」
「村の者が喉を渇かせてまで飲む客なら、井戸へ返してこい」
女たちが笑った。
ネアは水差しを井戸のそばへ置いた。土に細い重さが落ちる。
「縄、来たの」
「朝の塩荷車が持ってきたよ。頼んだのはずっと前だけど、よそ者が来るかもしれない日に届くなんてね」
「間に合った」
「まだ誰も来てないけどね」
古い縄が軸に掛かったまま、最後の桶を下ろしていく。
木がきしみ、擦れた縄が長く鳴った。途中で細くなったところを通るたび、手元の震えが少し乱れる。
桶が水を受けた。
朝と同じように、深いところから返りが来る。
けれど今日は、縄を持つ人たちが声を止めていた。最後まで切れずに上がるかを、みんなで聞いているらしい。
「ゆっくりだぞ」
「分かってる。急かすな」
「急かしてない。切れたら困ると言ってる」
「それを急かすと言うんだよ」
声は普通の長さだった。
その下で、水の返りだけがいつもより長く残った。
ネアが袋の上へ手を置く。
『聞こえてる』
「似てる?」
『似てる』
短く答えると、ネアの指が離れた。
桶は無事に上がり、水差しへ傾けられた。水の重さが容器の底を叩き、ネアの指に冷たさが移る。その指が袋の口を閉じる時、俺にも少しだけ触れた。
「それを宿へ運んだら戻っておいで。縄を替える手は多い方がいい」
女が言った。
「できること、ある?」
「あるよ。大人が結び目を作ってる間、余った縄が転がらないよう踏んでおくんだ」
「踏む」
「得意そうだね」
俺よりは、たぶん得意だ。
ネアは満ちた水差しを抱えた。
井戸から宿へ向かう途中、村の外へ続く土に、重い振動が一度だけ落ちた。
荷車より狭い。
人の足より深い。
馬かもしれない。
ネアの歩幅が短くなった。
宿へ進む足は止まらなかったが、体の向きだけが村道の方へ残る。
『気になるか』
「少し」
『確かめに行く?』
ネアは水差しを抱え直した。
「先に水」
また、それだった。
俺は地面に置いてもらえば、道の振動を今より拾える。近づいている足の数くらいなら、分かるかもしれない。
頼むこともできた。
けれど水差しは客用で、その中身は今、ネアが運んでいる。
来る人を確かめるために、来る人の水を道へ置くのも変な話だ。
俺は袋の中に残った。
道の振動は、もう続かなかった。
◆
古い縄を外すと、井戸は急に静かになった。
木の軸から重さが消え、いつも垂れていた縄が地面へ長く置かれている。村人たちは傷んだところを指で確かめながら、使える部分と使えない部分に分けていた。
「全部捨てるのかい」
「細いところは無理だ。残りは畑で束を縛るのに使える」
「短く切るなら、うちにも少しくれ。戸の留め具が緩いんだ」
「先に井戸の分を測ってからだぞ。お前らに渡すと、必要な長さまで持っていくだろ」
「信用がないねえ」
「昨日、棒を一本持っていった家が何を言う」
「返したよ。短くなったけど」
「それを返したとは言わん」
ネアは新しい縄の端を靴で押さえていた。
結び目を作る男の手が動くたび、太い縄が土の上で少しずつ引かれる。ネアの足へ力が入り、その震えが袋まで上がってきた。
水を汲んでいる時とは違う。
桶もない。軸も回らない。人の声は井戸の上にあるのに、深いところへ落ちる重さがない。
それでも、井戸の底で水が動いた。
夜に聞いた音より短い。
朝に紛れた音より、近い。
古い縄を外したことで、井戸の中から何かが減った。その空いたところを通るように、水の返りが上がってくる。
廃都の井戸で、縄を干していた日の音を思い出した。
いつだったか、ネアが濡れた縄を壁に掛け、桶だけを縁に置いていた。あの日も井戸は使われず、深いところの音だけが少し違って聞こえた。
同じではない。
ただ、使う道具を外された時まで似ている。
『ネア』
「なに」
『縄がない時も、似てる』
ネアの靴が新しい縄を押さえたまま止まった。
「廃都も?」
『ああ』
ネアは足元の縄を踏み直した。
それから、古い縄が置かれた方へ手を伸ばしたらしい。擦れた繊維に指が触れる。そのざらつきが、袋越しにわずかに流れてきた。
「まだ、残ってる」
誰に言ったのかは分からなかった。
古い縄の使える部分かもしれない。
廃都で聞いた音かもしれない。
男が結び目を引き締めた。
「旅の子、そっちをもう少し踏んでてくれ。今放すと、せっかくの縄が全部井戸へ行く」
「分かった」
ネアの足へ、また力が入った。
話はそこで縄の方へ戻った。
俺も、似ている理由を拾いにいかなかった。
力を伸ばせば、井戸の壁へ触れられるかもしれない。底の水がどこへ続くのか、少しくらい分かるかもしれない。
けれど今、井戸の上にあるのは新しい縄を結ぶ手だった。
俺が先に奥へ行くより、その結び目が終わる方がいい。
水の音は、村人の足元を通って一度だけ戻り、それきりになった。
◆
昼を過ぎても、よそ者は来なかった。
宿の女は空き部屋へ新しい布を敷き、水差しを置いた。ネアは昼飯の皿を受け取り、戸の近くで食べている。
井戸では新しい縄が軸に掛けられた。
最初の桶を下ろす前に、村人たちは結び目を何度も引いた。子どもも混じっていたが、引いているというよりぶら下がっている重さだった。
「これで切れない?」
「あんたが乗って切れないなら、水桶くらい平気だよ」
「もっと乗る?」
「井戸を壊す試験はしてない」
子どもの足が地面へ戻った。
新しい縄で桶が下りる。
擦れる音は前より低く、軸のきしみも少ない。水を受けたあと、引き上げる人の足が土へ深く沈んだ。
井戸の返りは、また村の仕事に混じった。
少し前まで静かだったことも、古い縄が長く置かれていたことも、使い始めるとすぐ遠くなる。
「道を見てくるかい」
宿の女がネアに聞いた。
「よそ者が来るなら、そろそろだろう。村の入口で迷ってたら、こっちだって教えてやらないと」
ネアの手が止まった。
皿の端へ触れていた指が、袋の上へ移る。
「行く?」
俺に聞いたらしい。
村道の土へ意識を伸ばせば、さっきの重い振動が残っているかもしれない。
誰が来るのか。何人なのか。俺たちを探しているのか。
知りたいことはあった。
『行かなくていい』
「いいの」
『来るなら、ここへ来る』
宿の女は、ネアが自分に答えたと思ったらしい。
「それもそうだね。迷ったまま帰るなら、その程度の用だったってことさ」
ネアは皿へ手を戻した。
井戸の方では、二つ目の桶が下り始めている。
新しい縄を試す人たちの声が続き、水は宿の客用と、夕方の畑と、婆さまの家へ分けられていった。
誰かが来るかもしれない日でも、村の水には先に行く場所がある。
午後の途中で、村道の土がまた揺れた。
今度は一度ではなかった。
重い四つの足が、間を空けて近づいてくる。その横に、人の足もある。村の入口まではまだ遠い。けれど隣村の話より、ずっと近い。
宿の女の包丁が、まな板の上で止まった。
井戸のそばでも、縄を引く声が短く途切れる。
ネアは食べ終えた皿を置き、袋の口を指で閉じた。
それから宿の女が、鍋の蓋を戻した。
「来るなら、汁を増やさないとね」
包丁の音が、また始まった。
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次回「村道の足音」もよろしく。来客より先に、汁の量が増えた。
ネアがあまり喋らないので、宿の人が先に支度してくれる。
——石より




