朝の水
「起きた」
ネアがそう言って、袋を持ち上げた。
『知ってる』
「いつから」
『起きたと言う少し前から』
「そう」
寝起きの報告としては、これで十分らしい。
戸に掛かった布をくぐると、宿の前を桶が通り過ぎた。水の重さが左右に揺れ、歩くたび土へ落ちる。
井戸の方では、縄が木の軸を回していた。
人の足が入れ替わり、空の桶が置かれ、満ちた桶が離れていく。夜のあいだ広かった村の地面は、もう朝の重さで埋まり始めていた。
ネアは宿の壁際でしゃがんだ。
水差しから手へ水を落とす。指を伝った冷たさが、袋の口をつまんだ時に少しだけ俺へ移った。
『冷たいな』
「朝だから」
『便利な説明だ』
ネアは返事の代わりに、濡れた指で俺を押した。
冷たさがもう一度来る。
たぶん、わざとだ。
『報復が早い』
「起きてたから」
理由にはなっていない。
ネアは青い糸の結び目を確かめ、袋の口を閉じた。宿の女が奥から出てきて、空の水甕を一つ転がすように寄せる。
「おはよう。よく眠れたかい」
「うん」
「夜の井戸は聞けた?」
ネアの手が袋の上に置かれた。
「寝た」
「だろうねえ」
宿の女は笑った。
「旅の子が夜更かしに勝てるなら、村の子も苦労しないよ。井戸は逃げないから、また聞けばいい」
「聞こえた」
「寝ながらかい?」
ネアの指が俺を押す。
俺の番らしい。
『夜も音がした』
ネアの指が止まった。
『昼より、廃都の井戸に似てた』
「……そう」
それだけ言って、ネアは水甕へ手を掛けた。
宿の女には俺の声が届いていない。ネアが急に納得したように動き出したので、少し不思議そうにしていたが、すぐ別の甕を持ち上げた。
「朝の分を汲むなら、一緒に行こう。昨日みたいに全部やろうとするんじゃないよ」
「分かってる」
「その返事をする子は、だいたい分かってないんだ」
ネアは甕を抱え直した。
夜の答えは、そこで終わった。
なぜ似ていたのかは言えない。
俺にも分からない。
ネアも聞かなかった。
代わりに袋の上へ置かれた手が離れず、甕を運ぶ間も時々、指先だけが俺の位置を確かめた。
答えとしては短かったが、持っていた時間より渡す時間の方が短いのは、たぶん普通だ。
◆
井戸のまわりには、もう十人近い足が集まっていた。
昨日、水をくれた女が縄を引いている。その横で子どもが空の桶を抱え、順番を守っているつもりで少しずつ前へ出ていた。
「そこにいたら、上がった桶が当たるよ」
「当たらない」
「昨日も聞いたね、それ」
「昨日も当たらなかった」
「あたしが避けたからだよ」
子どもの足が下がった。
今日は少しだけ早い。
ネアが水甕を置くと、土へ丸い重さが落ちた。宿の女も隣へ甕を置き、列の後ろへ声をかける。
「二つだけ入れておくれ。旅の子が運んでくれるってさ」
「昨日もずいぶん運んでたじゃないか。腰は平気かい」
「平気」
「本人に聞くと、たいてい平気って言うんだよ」
昨日の宿の女と同じことを言われている。
村の大人は、ネアの「できる」をあまり信用しないらしい。
廃都では止める人が少なかった。ネアが運べば、その分だけ誰かが助かったからだ。
ここでは、運べる子にも順番が来る。
ネアは何も言わず、列の後ろで待った。
井戸へ桶が下りる。
水を受けた重さが深いところへ落ち、壁を通って土へ返った。
似ている。
けれど、夜ほど近くない。
縄を引く腕の重さが地面へ入り、誰かが桶をずらし、子どもが足を擦る。女たちは今日の畑と、割れた鍋と、朝になってから仕事を増やす家族の話をしている。
水の返りは、その全部の下へ紛れた。
夜は何もない場所を渡ってきた音が、朝には村の一部になっている。
聞こうとすれば、もっと拾えるかもしれない。
井戸の縁へ置いてもらえば、壁を通る返りも近くなる。
ネアの手が袋の口へ来た。
「置く?」
考えていたことまで届いたわけではないはずだ。
ただ、昨日から俺が井戸の音を気にしているのを覚えていたらしい。
『ここでいい』
「近い方が聞こえる」
『聞こえすぎても困る』
ネアは少し待った。
「困る?」
『たぶん』
「そう」
袋の口は開かなかった。
井戸の音を確かめるために、朝の順番を止める必要はない。
近くで聞けば何か分かるとも限らない。
夜に似ていた。
朝は紛れている。
今は、それだけで足りた。
井戸の縄が途中で止まった。
「絡んだかい」
「いや、少し待ちな。斜めになってる」
引いていた手がゆるみ、軸のきしみが消える。
女たちの声も、桶が井戸の壁へ当たるのを待って短く途切れた。
その隙間に、深い水が動いた。
夜と同じ返りが、細く土へ触れる。
似ている。
そう思ったところで、子どもが桶を置いた。
「これ使う?」
「絡んだ縄に桶を足すんじゃないよ」
「でも空いてる」
「空いてるのは桶の中だよ」
声が戻り、足が動き、縄は引き直された。
水の返りがどこまで来ていたのかは、もう拾えなかった。
夜なら、最後まで聞けた。
朝は、途中から誰かの用事になる。
俺が拾わなくても、桶は下りる。
水は上がり、甕へ移され、誰かの家へ運ばれていく。
朝の井戸は、聞く場所というより使う場所だった。
◆
「隣村まで来てるってさ」
前の方で、女が言った。
「何が?」
「昨日話してた、よそから村を訊いて回ってる人たち。向こうの宿で馬を休ませたんだと」
「じゃあ、こっちにも来るのかい」
「道を間違えなければね」
「この村に来る道を選んだ時点で、もう少し間違えてるよ」
何人かが笑った。
縄を引いていた女が言う。
「来たら井戸の縄を直してもらおう。村のことを訊くなら、それくらい働いてもらわないと」
「商会の人なら金を出すさ」
「神殿の人なら祈るんじゃないかい」
「縄は祈っても直らないよ」
子どもが口を挟んだ。
「ぼく、直せる」
「あんたは順番を直しな」
前へ出ていた足が、また下がった。
よそ者の話はそこで途切れ、次の桶の話に変わった。
誰が来るのか。いつ来るのか。村人にもまだ分からないらしい。
「最初の二つは婆さまの家へね」
宿の女が言った。
「昨日の夜に水を欲しがった家かい」
「そう。朝になったら今度はいらないって言ってる」
「なら持っていけば飲むよ」
「飲まないって言ったのに?」
「戸の前に置かれた水まで追い返す元気があるなら、今日も平気さ」
笑いながら、女たちは満ちた甕の向きを変えた。
女たちは、次に水を使う家の名前を続けた。
誰が先に水を使うかは、朝のうちに決まっているらしい。
ネアはその話を聞いて、甕の持ち手を握った。
「持ってく」
「道、分かるかい」
「昨日、通った」
「じゃあ頼むよ。戸の前で声をかけてから置きな。黙って置くと、あの人は水の方を叱るから」
水にも厳しい人らしい。
ネアは袋に触れなかった。
聞いていないわけではない。
体の向きが声の方へ残り、甕を持つ手だけが少しゆるんでいた。
『気になるか』
「少し」
『待つ?』
「水、運ぶ」
先に決めるのはそちららしい。
順番が来た。
女が引き上げた桶を甕へ傾ける。水の重さが近くへ落ち、容器の底から細かな震えが広がった。
ネアは甕の縁を押さえる。
跳ねた水が指へ触れ、その冷たさが袋越しにまた移ってきた。
夜の井戸の音は、もうほとんど拾えない。
朝の水は、声と手と桶のあいだにいた。
一つ目の甕が満ちる。
ネアが持ち上げようとすると、昨日の女が反対側へ手を掛けた。
「二人で運ぶよ」
「持てる」
「知ってる。だから半分持ちな」
ネアは手を離さなかった。
女も離さない。
二人分の重さで、甕が土から上がった。
宿の女が後ろから空の甕を押し出す。
「ほら、次もあるよ。朝は待ってくれないんだから」
井戸のまわりで足が入れ替わる。
空いた場所へ次の人が立ち、縄が下り、子どもが今度こそ順番の位置に残った。
俺は袋の中にいた。
音を近くで確かめることも、誰かが来る道を探ることもしなかった。
甕を運ぶネアの歩幅に合わせ、水が揺れる。
そのたび、朝の井戸から汲まれた重さが少しずつ婆さまの家へ近づいた。
『夜の報告は、あれでよかったか』
「うん」
『短くないか』
「音した。似てた」
『俺が一晩かけた内容が二つになった』
「分かりやすい」
ネアは教えられた戸の前で甕を下ろした。
濡れた指で袋の口を開き、俺に触れる。冷たさを移してから、今度は袖で一度だけ拭いた。
「朝の水」
『それは報告に入るのか』
「入る」
石の夜番より、ずいぶん仕事が早かった。
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次回「村に来る人」もよろしく。朝の報告は、だいたい短くなる。
ネアがあまり喋らないので、要点だけは早い。
——石より




