夜の井戸
「するよ」
昨日、水をくれた女が答えた。
「昼みたいに桶を下ろさなくても?」
「ああ。静かになると、底で水が動くのが聞こえる。うちじゃ、井戸が寝返りを打つって言うね」
「寝るの」
「さあ。井戸に聞いておくれ」
女たちが笑い、次の桶が下りていった。
水が受ける。
深いところから返った音は、昼の声にすぐ混じった。
ネアの指が袋の上に置かれた。
「夜、聞く」
『寝ないのか』
「聞いてから寝る」
言い方に迷いがない。
十一歳の夜更かし宣言としては、あまり信用できなかった。
◆
夕方まで、ネアは宿の裏で水甕を満たした。
桶を運び、空になった甕へ水を移し、また井戸へ戻る。袋越しに伝わる歩幅は、往復するたび少しずつ短くなった。
宿の女が途中で言った。
「もういいよ。残りは明日の朝で足りる」
「できる」
「できるのと、今やるのは別だよ。旅の子は休みな」
「昼飯、食べた」
「食べたら休まなくていい決まりは、うちにはないね」
ネアは桶を置いた。
他人に止められて素直に止まるのは珍しい。
たぶん、夜まで起きている分を残したつもりだ。
宿の空き部屋は、戸の布をくぐったすぐ奥にある。
床板の端には、土のままの細い場所が残っていた。宿の女はそこへ水差しを置き、「夜に喉が渇いたら飲みな」と言った。
「井戸、近い?」
「すぐそこだよ。戸を出て、まっすぐ歩けば着く」
「夜、行っていい?」
「行くなら声をかけな。暗い中で縁につまずいたら、水音を聞くどころじゃない」
「分かった」
女の足が離れていく。
ネアは戸の布がある方へ顔を向けていたらしい。体の向きと一緒に、袋が少し傾いた。
『今から井戸の前で待つ気か』
「うん」
『まだ人がいる』
外では、桶が地面に置かれた。
誰かが明日の畑の話をし、子どもが呼ばれ、縄が木の軸を回った。
昼より声は少ない。
それでも、井戸はまだ村の中にいた。
ネアはしばらく聞いていた。
「まだ昼」
『夕方だと思う』
「声ある」
『夜の判定が厳しいな』
ネアは袋を下ろした。
土の残った床へ近い。布一枚と袋の底を挟んで、冷えがゆっくり上がってくる。床板を踏む足は軽くなり、宿の中の戸が一つ閉じた。
ネアの指が青い糸の結び目をつまんだ。
ほどけていないのを確かめてから、袋の口を少し緩める。
「聞こえたら、起こして」
『起きていられない前提になったな』
「起きてる」
『そうか』
ネアは横になった。
袋の横へ手が来る。
指先が俺に触れ、そこにあることだけ確かめるように、一度押した。
「起きてる」
『知ってる』
返事はなかった。
しばらくして、寝息が近くなった。
予定通りだった。
◆
村から声が引いていくのには、思ったより時間がかかった。
宿の奥で器が重なり、誰かが床を歩き、水差しの栓が鳴った。
外では最後の桶が運ばれ、戸が閉じる振動が土を短く渡った。
そのたびにネアの寝息は少し乱れ、また同じ長さへ戻る。
俺は起きていた。
石は寝ない。
夜番に向いているというより、夜番しか空いていない。
袋の底から土へ意識を触れさせる。
広く探るためではない。そこに触れていると、近くで重さが落ちた時に分かる。それだけだ。
井戸へ向かう足が消えると、村の地面は急に広くなった。
昼は桶の重さが何度も落ちていた。
人が立ち、縄を引き、水を持って離れていった。その跡が重なり、井戸のまわりだけ土が忙しかった。
今は、何も踏まない時間が続いている。
その下で、水が動いた。
桶が落ちた音ではない。
誰かが縄を引いた振動でもない。
深いところで、わずかな重さが寄り、ほどけた。
井戸の壁を通った返りが土へ移り、宿の床下まで遅れて届く。
昼にも聞いた音だった。
けれど昼より、廃都の井戸に近い。
村人の声がなくなったから、よく聞こえるだけかもしれない。
桶も縄もない分、水の返りだけが残るからかもしれない。
どちらでも、似ていた。
廃都で、ネアが眠ったあとの井戸にも、こんな時間があった。
誰も水を汲まない。
それでも深いところでは水が動き、朝になるとまた桶を受けた。
この村の井戸も、夜は同じような音を返している。
昼に似ていたのは、水が受けたあとの返りだった。
夜は、その前も似ている。
何も落ちていないのに、深いところで水が寄る。
壁へ触れた重さが細く広がり、少し遅れて土へ抜ける。そこまでの間が、廃都で聞いていたものに近かった。
桶を下ろす人も、縄を引く人もいない。
似せるものがない時間に、音だけが似ている。
それで何が変わるわけでもなかった。
明日の朝には、村の人がまた水を汲む。廃都では、たぶんタロたちがそれぞれの朝を始める。
夜の井戸は、その間にあるだけだった。
ネアへ声を送れば起こせる。
『聞こえた』と伝えれば、たぶんすぐ起きる。宿の女に声をかけ、俺を井戸の縁へ運ぶかもしれない。
縁へ置いてもらえば、今より近くで聞ける。
壁に触れれば、返りがどこを通るのかも少し拾えるだろう。
俺は何も送らなかった。
隣で、ネアが眠っている。
朝から水を汲み、昼は甕を満たし、夜の音を聞くつもりで眠った。
今起こしたところで、音が一つ増えるだけだ。
井戸の水がまた動いた。
昼より廃都に近い音が、理由を持たないまま土を渡ってきた。
俺はそのまま聞いていた。
夜番は、何かをする仕事ではないらしい。
◆
足音が一つ、村の土へ戻ってきた。
宿の前を過ぎ、井戸の方で止まる。
桶が地面へ置かれ、縄が軸に掛かった。
「起きてるか」
男の声だった。
少し離れた家から、別の声が返る。
「今起きた。婆さまかい」
「水が欲しいってさ。昼に飲めと言っても飲まないくせに、寝る頃になって喉が渇いたって」
「飲むならいいよ。待ちな、手伝う」
二人分の足が井戸の前に並んだ。
縄が下りていく。
夜の静けさの中では、軸が回るたび、木の古さまで土へ響いた。
「そういや、今日も来たぞ」
「誰が」
「よそ者。村の井戸はいつからある、道はどこへ続く、王都から何日かかるって。商会の使いだか、神殿の人だか知らんが」
「井戸を買う気かね」
「持って帰れるなら売ってやるさ。代わりを掘ってからな」
「あんたじゃ一生かかるよ」
男が笑った。
「じゃあ売れんな」
桶が水を受けた。
昼と同じ重さが落ちる。
けれど返ってきた音は、二人の声が止まった隙間で、剥き出しになった。
廃都の井戸と、この村の井戸。
昼は似ていた。
夜は、もっと似ている。
それ以上は、何も増えなかった。
男たちは桶を引き上げ、水を持って離れていった。
よそ者の話も一緒に遠ざかる。
井戸には、また誰もいなくなった。
ネアの手が寝返りで動き、袋の上に乗った。
起きたのかと思ったが、指から力は来ない。
触れたまま、寝息が続いている。
(聞こえたぞ)
水の音は、もう返事をしなかった。
ネアが投げた問いの答えを、ネアは聞いていない。
俺だけが聞いた。
朝になれば伝えられる。
今伝えなくても、音は消えたわけではない。次の夜もするかもしれないし、しないかもしれない。
だから答えは、袋の中に置いておくことにした。
石が何かを持ち運べるのは、少し珍しい。
◆
朝の最初の足が、井戸へ向かった。
空の桶が土へ置かれる。
縄が擦れ、木の軸がきしみ始める。宿の奥では火を起こす足が動き、近くでネアの寝息が浅くなった。
夜のあいだ剥き出しだった音へ、村の生活が戻ってくる。
一人目の桶が上がる前に、二人目の足が来た。
少し遅れて子どもの軽い足も混じり、昨日と同じ場所で桶がぶつかった。
「順番」
「分かってる」
「分かってないから前にいるんだよ」
朝の井戸端は、起きるのが早い。
ネアの指に力が入り、袋の上を探るように押した。
「起きてる?」
『ずっと』
「音」
『した』
ネアはしばらく手を置いていた。
「あとで聞く」
そう言って、もう一度だけ目を閉じたらしい。
昨日の夜までなら、ネアは問いを投げた側だった。
今は、俺が答えを持っている。
ただし聞くのはあとらしい。
朝のネアに勝てる話題は、今のところ見つかっていない。
井戸では朝の桶が水を受けていた。
その返りは村人の声に混じり、昨日と同じように、少しだけ遠くなった。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
次回「朝の水」もよろしく。夜番の報告は、相手が起きてからにする。
ネアがあまり喋らないので、朝まで保留になった。
——石より




