井戸端の声
「起きて」
ネアが袋を持ち上げた。
『起きてる』
「ずっと?」
『石は寝具の良し悪しに左右されない』
「布、薄かった」
『ネアは左右されたらしいな』
返事の代わりに、袋の口が少し強く閉じられた。
宿は、昨日教えられた通り、戸に布が掛かっている家だった。
空き部屋には床板と薄い布があり、宿の女は「朝の水汲みを手伝うなら、銅貨を一枚まけるよ」と言った。ネアはすぐに頷いた。
安くなるうえに水も汲める。
旅の朝としては、かなり堅実だ。
『ちゃんと眠れたか』
「寝た」
『背中は?』
「ある」
『それは知ってる』
ネアは袋を肩に掛けた。
青い糸の結び目が持ち手の根元で擦れる。ネアの指はそこを一度つまみ、ほどけていないのを確かめてから離れた。
戸の布をくぐると、朝の冷えがネアの服を通って近づいた。
ネアが鼻から息を吸う。炊き始めた火の気配と、湿った土の匂いが、布越しに少しだけ流れてきた。
村の道には、もう足があった。
昨日より多い。けれど王都の朝ほど重ならない。家から出た足が井戸へ向かい、水の重さを持って同じ家へ戻る。空の桶は軽く、満ちた桶は土へ深く沈んだ。
みんな、朝の最初に井戸へ行くらしい。
ネアも空の桶を持って、その流れに入った。
◆
「旅の子、こっちへ置きな。順番は桶で分かるから」
昨日、水をくれた女の声だった。
「うん」
ネアが持ってきた桶を並べる。木の底が地面に触れ、その震えが靴から袋へ上がってきた。
井戸のそばには、いくつもの声があった。
「今日は早いね、ミナんとこ」
「畑へ行く前に水を置いとかないと、あの人また何も飲まないから」
「昨日も?」
「昨日も。麦は飲ませなくても育つと思ってるくせに、自分は水なしで平気だと思ってる」
別の女が笑った。
「麦の方が賢いよ」
「本人に言っとく」
「それはやめておくれ」
「そういえば、昨日は水の上がりが遅かったね」
「昼だけだよ。朝はいつも通りだった」
「畑へ二桶やったあと、うちの分がなかなか満ちなくてさ」
「そういう日は先に飲み水を取るんだよ。洗い物は待てるけど、人は待たせるもんじゃない」
「分かってる。だから洗濯物を今日まで持ってきたんだろ」
布の束が、地面へ置かれた。
声だけで順番が決まり、水の少ない日は使い道まで変わる。
誰かが命じるわけでもない。井戸のそばに来て、話して、足りない分を少しずつ後ろへ回しているらしい。
廃都でも、水の少ない朝はあった。
あの時は、ネアが自分の器を最後にした。誰にも言わず、誰にも言われずに。
『今日は先に飲めよ』
「飲んだ」
『昨日の話じゃない』
「今日も飲む」
袋の上から指が一度当たった。約束としては短いが、ネア相手なら十分だ。
縄が木の軸を回り、桶が下りていく。
少し遅れて、水が受けた。
深いところで落ちた重さがほどけ、井戸の壁を通り、地面へ返ってくる。
昨日と同じだった。
廃都の井戸に、少し似ている。
「次、うちの」
男の声がして、別の桶が動いた。
「縄、替えた方がいいぞ。真ん中が細くなってる」
「分かってるよ。替えの縄が来ないんだ」
「塩の荷車に頼めばよかっただろ」
「頼んださ。王都で荷が止まってるって」
「またか。商会の人がこっちまで見に来るって話もあるけど、いつになるやら」
桶が下りる。
今度はさっきより速かった。落ちる重さも、縄が軸を回す音も違う。
それでも、水が受けたあとの返りだけは変わらなかった。
深いところを通って、遅れて戻る。
似ているのは、昨日の一度だけではなかった。
「重い」
昨日の子どもが言った。
「まだ水にも着いてないよ」
「縄が重い」
「じゃあ縄だけ持って帰るかい」
「水がいい」
「だろうね」
子どもの桶も下りていった。
途中で井戸の縁に当たり、木が乾いた音を立てる。女が「まっすぐ」と言い、子どもが「してる」と言い返した。
水が受けた。
また、同じように返ってきた。
桶の大きさも、落とし方も違う。
水の音だけが似ている。
(たまたま、ではなさそうだ)
そこまで考えて、止めた。
なぜ似ているのかは分からない。
分からないまま、女たちは誰が先に畑へ行くかを話し、男は縄の傷みを確かめ、子どもは濡れた桶を両手で抱えている。
この井戸の音は、答えではなく、村の朝に混じっていた。
「旅の子、あんたの番だよ」
ネアが桶の前へ進んだ。
「やったことあるかい」
「ある」
「深いから、最初は縄を急に放さないこと。水に着いたら少し傾ける。帰りは腕だけで引かず、体ごと後ろへ」
女はよく喋った。
説明は短くないが、必要なことしか言っていない。深い井戸では、寡黙より助かる。
ネアは頷き、縄を持った。
袋が胸元へ寄せられる。俺の上から、ネアの指の力が伝わった。昨日より強く握っているのは、桶を落とさないためか、俺を落とさないためか。
たぶん両方だ。
「ゆっくり。そう、それでいい」
縄が動き始めた。
ネアの腕にかかる重さが、袋越しに少しずつ変わる。桶が遠ざかるほど縄の震えが長くなり、軸のきしみが手元へ戻るまでに間ができた。
『無理なら代わってもらえよ』
「できる」
『その返事は知ってた』
「じゃあ言わないで」
正論だった。
桶が水に着いた。
ネアの指が縄の揺れを受け、その揺れが俺にも来る。同時に、足元の土からも、深い返りが上がってきた。
廃都の朝、ネアが井戸で水を汲んでいた時と同じように。
同じ、ではない。
けれど何度聞いても、同じように似ている。
井戸の縁に俺を置いてもらえば、もっと奥まで拾えるかもしれない。
壁の石へ触れれば、この深さがどこへ続くのか、今より少し分かるかもしれない。力を広げれば、水がどこから来るのかに触れられるかもしれない。
ネアに頼めば、たぶん置いてくれる。
俺は頼まなかった。
縄の傷みを気にする声がある。
畑へ持っていく桶がある。
水を飲まない男の分まで汲む人がいる。
今ここにあるのは、俺が確かめるための井戸ではない。
ネアが縄を引いた。
「腰、落として。そうそう。旅の子にしちゃ上手いね」
「毎朝、してた」
「家で?」
ネアの手が止まりかけた。
青い糸の結び目が、袋の持ち手に触れた。
「廃都で」
井戸端の声が少しだけ薄くなった。
男が縄から手を離す。子どもの桶が地面へ置かれる。誰かが「南の」と小さく聞いた。
昨日の女が先に口を開いた。
「あそこにも、井戸があるのかい」
「ある」
「水は?」
「冷たい」
ネアはそれだけ答えた。
女は「そうかい」と言った。
それから、止まりかけた縄へ手を添えた。
「じゃあ、ここの水も運べるね。井戸が違っても、重いのは同じだ」
「うん」
二人で縄を引く。
桶が上がるにつれて、ネアの腕へかかる重さが近づいてくる。井戸の縁を越えたところで水が揺れ、少しだけこぼれた。
ネアの指に冷たさが移る。
その指が、袋の上を押した。
(まだ、残ってる)
何が、とは考えなかった。
◆
水汲みが終わっても、井戸端の声はなくならなかった。
空の桶が減ると、今度は洗う布が井戸のそばへ運ばれてきた。女たちは布を絞りながら、畑と家と人の話を続ける。
「西の畑、芽が揃ったって」
「あそこは去年、半分も出なかっただろ」
「だから今朝から亭主が三回も見に行ってる。見たって急には育たないのに」
「育つところを見逃したくないんだよ」
別の声が重なった。
「婆さまの咳は?」
「夜は出た。朝は粥を食べたよ」
「なら、あとで葉を持ってく」
「苦いって文句を言うよ」
「文句が言えるなら飲める」
旅人が来た話もされた。
昨日、塩を運んだ男。先週、道を間違えた行商人。王都へ向かう途中で水だけ飲んで戻った人。
ネアのことも、もうその中に入っていた。
「旅の子はどこまで行くんだい」
女が聞いた。
「まだ、決めてない」
『王都には行ったぞ』
「行った」
「じゃあ次は?」
ネアは答えなかった。
決めていないのは本当だ。地図はある。黒い点もある。けれど、道順を決めるには俺もネアも少し雑だった。
「急がないなら、二、三日はいるといいよ」
「井戸しかない村だけどね」
「井戸があるから村なんだろ」
「それ、昨日も言ってたよ」
「昨日も本当だったからね」
女たちはまた布を絞り始めた。
『少なくとも、今日はここだな』
「うん」
「今日はいるのかい」
ネアが袋の上へ手を置いた。
「いる」
女は、ネアが村にいるという意味で受け取ったらしい。
「なら昼から、宿の裏の水甕も頼めるかい。あそこの人、腰が悪くてね。手伝えば昼飯くらいは出るよ」
「やる」
返事が速い。
昼飯は強い。
女たちが笑い、子どもが「ぼくもやる」と言った。
「あんたはまず自分の桶を運びな」
「もう運んだ」
「それ、まだそこにあるよ」
「あとで」
「桶にあとでは通じないよ」
どこかで聞いた言い方だった。
ネアの指が袋の上を二度叩く。
『俺は何も言ってない』
「言いそうだった」
否定できない。
井戸では、また別の桶が下り始めていた。
木の軸がきしみ、縄が擦れ、村人の声がその上を行き来する。
水が受ける。
深いところから、同じように似た音が返ってきた。
「ねえ」
ネアが、誰にともなく言った。
井戸端の声が少しだけ待った。
「この井戸、夜も音する?」
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次回「夜の井戸」もよろしく。石は寝ないので、夜番には向いている。
ネアがあまり喋らないので、井戸端の皆さんが助かる。
——石より




