第49話「ふだん、です」
ネアは朝から、倉庫の隅にある薬草籠をひとつずつ外へ出していた。
乾かした葉。割れた根。粉にする前の実。どれも軽いはずなのに、籠が床板をこする音だけは妙に大きい。廃都の朝は、そういう小さな音を拾いすぎる。
俺はいつもの場所にいた。
石台の上。
たいへん石らしい位置だ。ふつうの石がそこにある、と言われたら十人中十人が納得する。たぶん。薬草籠の横で地脈を聞き、街の奥の沈みを拾い、ネアの足音の乱れを数えている石だが、そこは見た目で勝負していきたい。
「……来た」
ネアが短く言った。
戸口のほうから、軽い靴音が近づいてきた。迷いの少ない歩き方だった。廃都の崩れた石畳は、初めての者には少し意地が悪い。穴の縁を踏ませ、欠けた段差で足首を取ろうとする。
その足音は、ためらわずに避けた。
「おはよう、ネア。まだ寝ている人はいる?」
フリンだった。
明るい声ではある。けれど、街に入ってくる時の音が、いつもより少し細かった。疲れというより、耳を使っている人の歩き方だ。足元を見ていないのに、地面のほうへ意識が落ちている。
「いない」
「よかった。薬草棚、見てもいい? あと、井戸のほうも。昨日から水の薬効が少し変わっているの」
ネアはこくりとうなずいた。
薬効が変わる。
水そのものを味わえない俺には、そこはネアの舌や鼻を経由しないと分からない。ただ、地脈は違っていた。奥で細い脈がほどけ、また結び直されている。大きな変化ではない。水路の下で、古い根が寝返りを打った程度の揺れだ。
それでも、分かる人間には分かる。
フリンは薬草籠の前に膝をつき、乾いた葉を指先で軽く弾いた。葉が鳴る。籠が鳴る。床板が鳴る。その下で、廃都がひくく返事をした。
「……やっぱり」
その声で、俺の中の石らしさが一段減った。
フリンは優秀だ。優秀なのは前から知っていた。薬の扱いも、人を見る目も、街の変化を拾う速さも。そこへ石聴きの体質まで乗ると、こちらとしてはかなり困る。
ふつうの石は、困らない。
俺はふつうの石です。
「ネア、昨日の夜、誰か地下へ入った?」
「ない」
「じゃあ、井戸に何か落とした?」
「ない」
「うん。そうよね。あなたがそういうのを放っておくわけがないもの」
ネアは籠を抱え直した。返事はない。肯定としては十分だった。
フリンは立ち上がり、井戸へ向かう前に石台の横で止まった。俺の上に手を置いたわけではない。ただ近くに立っただけだ。布も手のひらも挟まない距離。けれど、地脈の細い流れが、彼女の足元で少しだけ向きを変えた。
まずい。
声を出していないのに、声があるみたいな状態になっている。地脈の中に、こちらの輪郭が薄く残っている。昨日、ネアへ流しかけてやめた加護の余りだ。言わないと決めたものは、言わないまま沈めておくべきだった。
石に反省会を開かせないでほしい。
「……地脈の中に、意識がある気がする。変ね」
(バレかけてる)
俺は黙った。
完璧に黙った。
石としてこれ以上ない沈黙だった。地蔵でももう少し主張するかもしれない。俺はただそこにあった。角の欠けた、古い、何の変哲もない、廃都によくある石です。どうぞお通りください。
ネアの指が、籠の取っ手を握り直した。
分かっているのか、分かっていないのか。ネアは俺を見ない。見ないでくれる。こういう時のネアは助かる。説明しないし、驚かないし、うっかり「石が喋った」とも言わない。
フリンは眉間に指を当てた。
「疲れているのかしら。昨日から薬草の反応も少し強いし、井戸の水も軽いし……ここ、廃都なのよね」
「そう」
「そう、で済ませていい場所じゃない気もするけど」
ネアは籠を棚へ戻した。
済ませてほしい。
ここは廃都で、俺は石で、ネアは朝の薬草を片づけている。それ以上のことは今日は棚の奥にしまっておいてほしい。棚ならある。空きも少しある。
フリンは井戸へ行き、水桶の縁に手を置いた。水は見えない。けれど、縄が軋む音と、桶が底で揺れる音で分かる。井戸の下は前より静かだ。静かなのに、空ではない。底のほうに残っていた冷たい塊が、少しだけほどけている。
「薬効が増えた、というより……通りがよくなったのね」
「通り」
「水も、草も、身体の中を通るでしょう。詰まっていたものが少し抜けたみたい。悪くはないわ。むしろ、いい変化」
ネアの足音が一拍だけ軽くなった。
それだけで十分だった。
言わない。前の夜から決めている。ネアの身体に触れた小さな守りも、街の奥でほどけた脈も、俺から説明しない。説明した瞬間、ネアはそれを背負う。ありがたがるか、気にするか、どちらにしても荷物になる。
ネアの荷物はもう多い。
石は増やさない。
「ただ」
フリンの声が井戸の底へ落ちた。
ただ、はよくない。
「通りがよくなった分、遠くの音も入りやすくなっているかもしれない。廃都の外側から、妙な揺れが混じっているわ」
外側。
街門の向こう。崩れた道。草に隠れた旧街道。そのさらに先で、地面を踏む複数の重みがあった。まだ遠い。馬車ほど重くはない。荷を背負った人間が何人か、廃都の位置を確かめるように歩いている。
フリンもそこまで確かめたわけではない。薬師の勘が、井戸の水の変化と、地脈の薄い乱れを結びかけているだけだ。
「調べに来る人が増えるかもね。ここの水、薬師には分かりやすいもの」
「……うん」
ネアは短く答えた。
廃都が少しよくなると、人が来る。
当たり前だ。水が戻り、薬草が育ち、道が通れるなら、誰かが気づく。気づかれないまま蘇る街なんて都合のいいものはない。そう分かっているのに、フリンが石台の横へ戻ってきた時、俺は余計なことを言いかけた。
ネア、外から——
違う。
声になる前の波が、地脈の奥で一度だけ持ち上がった。ネアへ向かうはずの念話が、石台の下で引っかかる。そこへ、フリンの感度がちょうど重なった。
フリンが振り向いた。
「今」
止めた。
全力で止めた。
石に全力という言葉があるかは知らない。けれど今の俺は、置物人生で一番真剣に置物をやった。地脈の波を押し戻し、沈め、ただの古い流れに混ぜる。外から来る足音も、井戸の変化も、全部まとめて廃都の深い呼吸に戻す。
フリンはしばらく黙っていた。
ネアも黙っていた。
俺はもちろん黙っていた。ここで黙らない石は石ではない。
「……気のせい、かしら」
フリンが小さく息を抜いた。
「この街、たまに返事をするみたいで怖いわね」
ネアは少しだけ首を傾けた。
「ふだん、です」
それは、たぶん廃都についての返事だった。
たぶん。
フリンは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「そう。ふだんなら、いいのかしら」
いい。いいことにしてほしい。
フリンは薬草籠をひとつ選び、ネアにいくつか扱い方を伝えてから帰っていった。帰り際にも、石台の横で一度だけ足を止めた。何かを確かめるように、床を軽く踏む。
俺は石だった。
ふだんの石だった。
フリンの足音が遠ざかり、ネアが戸口を閉める。井戸の底で水がゆっくり揺れ、街門の外ではまだ、知らない足音がこちらへ近づいていた。
ネアは何も聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
言わないことが、今日はだいぶ多い。
それでも薬草籠は棚に戻り、水桶は壁際に置かれ、朝は朝として片づいていく。廃都の日常は、たまに地脈の中に意識があるような気がしても、だいたい続く。
だいたいでいい。
ふだん、です。
(危なかった)
ネアを見守りたい人は、⭐評価かブックマークで。
——石より




