第49話「ふだん、です」
数日後の昼。市場の音は、ふだんに戻っていた。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
ネアの足音が、市場の角から、坂の方に向かった。フリンの家の方だった。手には、ふだんの薬草の束を、抱えていた。フリンに届ける、ふだんの薬草届けの動きだった。
ぐりは、雑貨屋の方から、坂の手前まで、ついてきていた。地脈の振動で、ぐりの硬い表面が、家の方と坂の方の間で、止まった。坂を上がる動きには、ならなかった。ふだんと、同じ位置だった。
市場の方の音は、ふだんの昼の音だった。けれど、その音の中に、ふだんとは違う方の足音が、薄く混じっていた。地面を撫でるような踏み方だった。市場の端の、住民の家の並びの奥。新しく廃都に住み始めた家族の、子どもの足音だった。
ネアの足音が、坂を上がっていった。地脈の振動で、坂の石の重さが、ネアの足音の下でひと足ずつ薄く沈んだ。フリンの家の方の地脈の重さは、ふだんよりも、深かった。家の中で、何かが続いている重さだった。
◆
フリンの家の前で、ネアの足音が、止まった。
地脈の振動で、家の中から、乳鉢を擦る音が、薄く聞こえた。ゆっくり、ゆっくり、擦るふだんのリズムだった。けれど、その音と一緒に、紙をめくる音が、混じっていた。フリンは、乳鉢を擦りながら、本を読んでいた。
紙をめくる音は、ゆっくりだった。1ページ、また1ページ。途中で止まった。それから、もう一度、めくった。何かを探している動きだった。同じページを2度、3度と戻る動きが、薄く混じっていた。
ネアが、扉の前に、薬草の束を置いた。中には、入らなかった。最近のネアの、新しい習慣だった。
ネアの足音が、踵を返そうとした、その時。
「ネア」
フリンの声が、扉の中から、聞こえた。低く、掠れた、ふだんのフリンの声だった。
「ちょっと、入ってきな」
◆
ネアの足音が、扉をくぐった。
家の中の地脈に、俺の感覚が触れた。乾いた葉の気配。乳鉢の縁に、粉が薄く残っていた。けれど、ふだんと違う重さが、ひとつ、家の中にあった。
机の上だった。
地脈の振動で、机の上に、紙の束が広げられていた。本だった。古い本だった。革の表紙が硬く、紙の縁が、何度も触れられた重さで、丸くなっていた。
「これ」
フリンが、短く、言った。地脈の振動で、フリンの指が、机の上の本の上で、止まっていた。
「最近、街の物売りに、頼んでた本でね」
フリンが、低く、続けた。
「やっと、来たんだよ」
短く、それだけ言った。地脈の振動で、フリンの呼吸がふだんよりも、ゆっくりだった。フリンは、長く、待っていた、らしかった。
ネアは、答えなかった。地脈の振動で、ネアの足音が、机の方に近づいた。本を、見ている、らしかった。
◆
フリンが、本のページを、めくった。
「廃都のな、地下の話が、書いてある」
短く、それだけ言った。地脈の振動で、フリンの指が、ページの中央で、止まった。
「廃都には、昔、何かが、あったらしい」
フリンの声が、続いた。
「何かは、書いてない。けれど、その何かが街の重さを決めていた、らしい」
地脈の振動で、フリンの呼吸が、深くなった。それから、戻った。
ネアは、答えなかった。指は、ポケットの上で、止まったままだった。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。フリンの指が、ページの上をゆっくりなぞっていた。文字を読む動きとは、少し違っていた。指で、紙の重さを確かめている動きだった。フリンは目で読むだけでなく、指で読む人だった。乳鉢を擦るときと同じ、ゆっくりとしたリズムで、紙の繊維のひとつずつを、指の腹で確かめていた。
◆
フリンが、しばらく、何も言わなかった。
地脈の振動で、フリンの足音が、机の前で、ずれた。乳鉢の方だった。けれど、乳鉢には触れなかった。それから、また、机の方に戻った。フリンの動きの中で、何かを言いかけて、言いかけて、止めている気配があった。
「最近、変なんだよ」
フリンが、短く、言った。
「地脈の中に、何か」
ふだんのフリンの「変ね」の声よりも、低い声だった。地脈の振動で、家の中の重さが、止まった。
「意識がある気がする」
短く、それだけ言った。
「変ね」
地脈の振動で、フリンの指が、本のページの上で、止まった。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
俺の重さが、止まった。
念話には、出さなかった。
◆
フリンが、ネアの方を、見た、らしかった。地脈の振動で、フリンの顔の向きが、ネアのポケットの方に、薄く向いた。
「あんたの石、どう」
フリンの声だった。
「ふだんと、違うかい」
ネアは、答えなかった。指の動きも、ポケットの上で、止まっていた。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。フリンの指が、机の上で、止まったままだった。聞き耳を立てている動きだった。フリンの呼吸も、ふだんよりも、浅かった。何かを、聞き取ろうとしている、らしかった。
念話を、組み立てかけた。けれど、組み立てる前に、止めた。家の中で、フリンの呼吸がふだんより、深かった。地脈の振動で、フリンの石聴き体質が、ふだんよりも、敏感になっていた。
地脈の振動で、俺の重さが机の方に、ふだんよりも、薄く伸びかけた。それから、引き戻した。
フリンの呼吸が、深くなった。それから、戻った。
「……ふだん、です」
ネアが、短く返した。間が、ふだんよりも、長かった。手元の薬草の束の方を向いていた。フリンの方ではなかった。声に、嘘の温度は、混じっていなかった。ネアにとっては、それは、ふだんだった。塞がる傷も、軽くなる足も、ぜんぶ、ネアの体のふだんだった。
◆
フリンの呼吸が、ふだんに戻った。地脈の振動で、フリンの指が、本のページから、離れた。
「そうかい」
短く、それだけ言った。地脈の振動で、フリンの声に、ふだんの温度が、戻りはじめていた。
「妙なこと、聞いて、悪かったね」
短く、それだけ言った。地脈の振動で、フリンの足音が、乳鉢の方に、ゆっくり戻り始めた。乳鉢を擦る音が、また、ふだんのリズムで、続き始めた。
ネアの足音が、扉の方に向かった。地脈の振動で、扉の重さが、ゆっくり開いた。家の中の音と、家の外の坂の風の音が、薄く混じった。
ネアが、扉をくぐった。フリンの家の扉が、ゆっくり閉まった。地脈の振動で、家の中の乳鉢の音はふだんのリズムで続いていた。けれど、紙をめくる音はもう聞こえなかった。本は、机の上で開いたまま、止まっていた、らしかった。
◆
坂を下る、ネアの足音。地脈の振動で、フリンの家の重さが、ふだんに戻りはじめていた。乳鉢の音が、ふだんの動きで、続いていた。紙をめくる音は、もう、聞こえなかった。
ぐりは、坂の手前で待っていた。少し遅れて、跳ねながら、家の方に、ついてきた。
市場の方の音は、ふだんの昼の音に戻っていた。けれど、その音の中に、まだ、ふだんとは違う方の足音が薄く続いていた。地面を撫でるような踏み方は、まだ続いていた。
坂の手前で1つ、市場の奥でひとつ。ふだんとは違う重さが、廃都の地脈の中に、薄く混じっていた。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
乳鉢を擦る音が、坂の上から、薄く、まだ届いていた。
フリンが、本を読んでいた。
廃都の地下の話、らしい。
俺は、聞かれかけた。
返事は、しなかった。
石だが。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
——まだ、届いているらしい。
——石より




