第48話「言わない」
朝の仕分け場は、湿った布の匂いがした。
◆
ネアは俺を腰の布袋に入れたまま、木箱を運んでいた。
地面を通して、足音がいくつも重なって届く。ヴェラの店の裏、干し場の手前、荷ほどき用の台。木箱の底が石畳を擦る音。濡れた布から落ちる水の音。
ネアの足音は、その中でいちばん軽かった。
軽い、というより、沈まない。
同じ箱を持ったタロの足は、3歩目で少し崩れた。脛に力が入って、床板がぎしりと鳴る。向かいの女の人は、箱を置く時に息を逃がした。
ネアだけが、置く音を小さくした。
本人は何も言わない。
箱を置いて、布をほどき、濡れた端をつまむ。指が白くなる。けれど呼吸は荒くならなかった。肩の重さも、ほとんど落ちない。
(……なんでだ)
俺は布袋の中で、地脈の振動を聞いた。
昨日、グラン爺は要石の話をした。世界を支える柱。1つ失われると土地が腐る。お前に関係のある話かもしれない。
その言葉は、まだ俺の中に残っている。
それと、ネアの足音。
どちらも、同じ場所で引っかかった。
◆
ヴェラが店の奥から出てきた。
「ネア、次は右の棚だよ」
「……うん」
ネアは短く返した。濡れた布を抱え、棚の方へ向かう。
その途中で、右の棚の上から薄い木板がずれた。
音は小さかった。
ぎ、とも言わない。釘が抜けかけて、板の重さだけが先に動いた。普通なら、落ちるまで気づかない。
ネアの足が止まった。
顔を上げたかどうかは分からない。俺には見えない。ただ、足の向きが少し変わった。抱えていた布の重さが、胸の前から横へずれる。
次の瞬間、木板が落ちた。
ネアの肩には当たらなかった。代わりに、床に落ちて乾いた音を立てた。
「うわ、危な」
タロが近くで声を上げた。
「ネア、今の、見えてたのか?」
「……音」
「音したか?」
「した」
それだけ言って、ネアは布を棚に置いた。
タロはしばらく黙った。それから落ちた板を拾い、釘のあたりを覗き込んだ。
「俺、全然分かんなかった」
ネアは答えなかった。
俺も答えなかった。
地脈の中で、さっきの板の重さを拾い直す。抜けかけた釘。先に傾いた板。落ちる前の、ほんの薄いずれ。
そのずれに、ネアは反応した。
たぶん、耳だけじゃない。
◆
昼前、仕分け場の床に小さな血の匂いが落ちた。
ネアではなかった。新しく来た家族の子が、麻紐を切る小刀で指を引っかけた。泣きはしなかったが、息が詰まった音がした。
ヴェラが布を巻いた。
「今日はもう手伝わなくていい。水場で洗っておいで」
子どもはうなずいた。足音が水場へ逃げる。
その血の重さで、俺は別の指を思い出した。
ネアの左手の人差し指。
3日前、同じ台で切った。深くはない。ただ、布を巻く時の圧が長く残った。俺は布袋の中で聞いていた。ネアは「平気」とも言わず、残りの荷を運んだ。
その夜、指の熱はもう下がっていた。
次の日には、血の流れが戻っていた。
今朝、布をほどく時、傷の重さはほとんどなかった。
早すぎる。
俺は、それを地脈のせいだと思っていた。廃都が戻りかけているから。水が澄み、土が軽くなり、人の体にも少しはいいのだろう、と。
けれど、違う。
タロの擦り傷は、まだ熱を持っている。ヴェラの手荒れも、冬の割れ目のように硬く残っている。新しく来た子の指は、今巻いた布の下で、しばらく脈を打つ。
ネアだけが早い。
ネアだけが、疲れにくい。
ネアだけが、落ちる前の板に気づいた。
(……お前はずっと俺に守られていた。知らないまま)
念話にはしなかった。
言葉にした瞬間、仕分け場の音が遠くなりそうだった。
◆
午後、ネアは井戸まで水を汲みに行った。
俺は布袋の中で揺られながら、足音の下を流れる地脈を聞いていた。坂の石畳、井戸の縁、古い神殿跡の崩れた基礎。どこも、以前より少しだけ通りがよくなっている。
俺がいるから。
その言い方は、まだ、重い。
俺が何かをしているつもりはなかった。ネアが俺を拾って、持ち歩いて、眠る時も近くに置いた。俺はただ、そこにいた。
ただ、そこにいて。
ネアの近くにだけ、力を流していた。
意識していた。ネアが転ばないように。寒くないように。怪我をしても残らないように。
意識していなかった。力がどう届くのか、どれくらい染みるのか、どこまで変えてしまうのか。
井戸の前で、ネアが立ち止まった。
縄を引く前に、少しだけ布袋に触れた。指の腹が俺の表面に当たる。
「……重い?」
(いや)
返事は短くした。
ネアはそれ以上聞かなかった。縄を引き、水桶を上げる。水の重さが腕にかかる。足の裏が石畳を押す。
俺は、そこで力を強めることができた。
たぶん、できる。
水桶を軽くする。腕を疲れにくくする。足元をもっと固くする。そうすれば、ネアは楽になる。
しなかった。
今まで、もう十分に染みていた。
それ以上は、別のものになる気がした。
◆
夕方、グラン爺の家の前を通った。
杖の音はなかった。扉の奥で、本を閉じる音だけがした。昨日の話の続きを、今はまだしないらしかった。
ネアも寄らなかった。
坂を下りる足音は静かだった。空の水桶は軽い。布袋の中の俺は、ネアの腰に当たって、小さく揺れた。
『ネア』
「なに」
返事はすぐ来た。
言える。
お前の怪我が早く治るのは、たぶん俺のせいだ。疲れにくいのも、危ないものに気づくのも、俺が近くにいるからだ。
お前は、知らないまま守られてきた。
言える。
ネアの足が、少しだけ止まった。
「……石?」
(なんでもない)
「そう」
それだけ言って、ネアは歩き出した。
怒らなかった。聞き返しもしなかった。布袋の上から、指で俺を軽く押しただけだった。
その押し方が、いつもの強さだった。
それで、もう言えなくなった。
◆
家に戻ると、ぐりが扉の横にいた。
硬い体を石畳に押しつけ、こちらを見ている。見ている、というより、俺の方に向いている。相変わらず、食べる気配だけは薄くある。
ネアはぐりをまたいで中に入った。
「邪魔」
ぐりは動かなかった。
扉が閉まる。家の中は、夜に入る前の静けさだった。ネアは水桶を置き、布袋から俺を出して、机の上に置いた。
指が離れる。
左手の人差し指が、俺の表面をかすめた。
傷跡は、もうほとんど分からなかった。
ネアは何も言わない。水を飲み、干してあった布を畳み、寝床の端に座る。疲れたと言わない。痛いとも言わない。
知らないから。
知らないまま、明日も同じように歩く。
いつか、誰かが言うかもしれない。俺ではない口で。俺よりも、もっと悪い形で。
それでも今は、言わなかった。
◆
夜になって、ネアは寝床に横になった。
家の中の音が減っていく。水桶の水面が落ち着き、畳んだ布の重さが棚に収まり、扉の外のぐりが石畳の上で動かなくなる。
ネアの呼吸だけが残った。
俺は机の上で、地脈の細い流れを聞いた。壁の中。床の下。寝床の藁の下。そこから、ネアの体に触れている部分へ、薄い根のようなものが伸びている。
俺の力だ。
はっきり見えるわけではない。俺には見えない。ただ、重さが分かる。冷えた指に布をかける時の重さ。転びそうな足元に石を1つ置く時の重さ。声に出す前に、先に手が伸びる時の重さ。
それが、ネアの周りにあった。
タロにはない。ヴェラにもない。新しく来た家族の子にもない。
ネアだけ。
半年前、ネアは俺を拾った。
雨のあとで、地面は冷たかった。俺はただの石で、誰にも気づかれなかった。ネアは俺を拾い、手の中に入れた。きれい、とも言わなかった。欲しい、とも言わなかった。
持って帰った。
それから、俺はネアの近くにいた。
寒い夜。空腹の朝。荷物を抱えた坂道。石喰いの気配。知らない大人の足音。小さな傷。言わない疲れ。
そのたびに、俺は少しだけ力を流したのだと思う。
少しだけ。
その少しが、半年ぶん重なった。
ネアは知らない。
知らないから、いつもの足で歩いている。自分の足で坂を下り、自分の手で荷物を持ち、自分の判断で危ない板を避ける。
もし言ったら。
ネアは、次の木箱を持つ時に、俺を触るかもしれない。坂を下る前に、布袋の重さを確かめるかもしれない。切れた指を見て、治りの早さを待つかもしれない。
それは、少し違う。
守っていたことを、なかったことにはできない。
でも、ネアの足を俺のものにしたくはなかった。
地脈の流れが、寝床の下で静かに続く。薄い根は、ネアの周りに残ったままだった。戻せない。切ることも、たぶん、できない。
ただ、強めないことはできる。
名前をつけないことはできる。
明日の朝、ネアはまた木箱を持つ。誰より軽く歩くかもしれない。落ちそうなものに先に気づくかもしれない。傷が増えても、また早く塞がるかもしれない。
それを、俺は聞く。
言わずに聞く。
ネアの呼吸が深くなった。
俺は何も言わなかった。
◆
ネアが眠るまで、家の中の音を聞いていた。
寝息。扉の外のぐりの重さ。壁の中を通る、細い地脈。
俺は、机の上で止まっていた。
守っていた。
黙っていた。
言わない話。
「……重い?」
——守っていた。
俺は、石なので顔に出ない。
たぶん、助かった。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
研究者が近い。
——石より




