第47話「俺の話、らしい」
グラン爺の家で、誰も答えなかった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
机の上には地図がある。古い紙。端を押さえる小さな石。書き込みの止まった墨。グラン爺の杖は床に触れたまま動かない。
「要石というものが、この世界には7つある。知っているか」
前の言葉が、家の中に残っていた。
ネアは何も言わなかった。ポケットの上の指も動かない。握るでも、撫でるでもない。ただ置いている。俺がそこにいるのを、確かめるみたいに。
外では市場の音がしていた。新しく来た家族の荷物が、どこかの床に下ろされる音。木箱が1つ、壁に当たる。子どもが何かを落として、すぐ拾う。誰かが笑った。
廃都の夕方は、少しずつ人の音を増やしている。
その下で、古い土の重さだけが遅れていた。
◆
「7つだ」
グラン爺が言った。
杖の先が床を軽く叩いた。こつ、と小さい。前より弱い音ではない。ただ、床の方が先に沈んだ気がした。
「世界を支える柱のようなものだと思えばいい」
ネアの呼吸が止まった。
俺は、地脈の中でその言葉を聞いていた。柱。世界を支える。石に向かって言うには、ずいぶん重い単語だった。
(やめろ。石に荷重計算をさせるな)
念話には出さなかった。
グラン爺は笑わなかった。笑う話ではないらしい。いや、たぶん最初からそうだった。俺だけが少し逃げ道を探した。
「廃都にも、ある」
短く、それだけ。
家の中の音が薄くなった。
ネアの指が、ポケットの布をほんの少し押した。そこに俺がいる。クズ魔石として拾われて、名前をつけられて、布に包まれて、あちこち持ち運ばれている石。
廃都にも、ある。
それが机の上の地図の話なのか、地下の話なのか、俺の話なのか。
誰も、分けなかった。
◆
グラン爺の手が地図の端に触れた。
紙の上には何かの印があった。俺には見えない。けれど、指先が止まる場所の重さは分かる。触れて、離れて、また触れない。そこに書けることがあるのに、書かない手つきだった。
「場所を、地図に残す者は少ない」
グラン爺の声は低かった。
「残せば、探す者が出る」
外で、子どもの足音が家の前の道を横切った。軽い足音ではなかった。廃都の段差にまだ慣れていない足音。けれど昨日よりは少し早い。石畳の割れ目を覚え始めている。
「探す者が出れば、掘る者が出る」
グラン爺の杖が動いた。
「掘る者が出れば、壊す者が出る」
それは説明というより、昔から何度も言ってきた順番を、もう一度床に置く声だった。
ネアは返事をしない。
ポケットの上の指も、それ以上は動かない。
俺も念話を使わなかった。聞けば、何かが早く進む気がした。早く進めていい話ではない気もした。
◆
「1つでも失われると、その土地は腐る」
グラン爺が言った。
腐る。
その言葉だけ、家の中で形を変えずに落ちた。
俺は地脈の振動を聞いていた。家の床の下。坂の土。神殿跡の石段。市場の井戸。雑貨屋の床板。ネアが何度も歩いた道。
水が重かった頃の井戸の底。
薬草の匂いが抜けなかったグラン爺の家。
市場の端で、誰も長く立ち止まらなかった場所。
腐る、という言葉は、初めて聞いた言葉のはずだった。けれど地面の方が先に知っていた。ずっと前から、その言葉の形で沈んでいた。
外で桶の音がした。井戸から水が汲み上げられる。縄が濡れて、木の縁を擦る。
「今日も澄んでる」
誰かの声がした。新しい家族の子どもだった。
すぐに別の声が、「こぼすなよ」と言った。タロかもしれない。声が少し得意そうだった。
家の中では、誰も笑わなかった。
井戸の音は軽い。
けれど、軽くなる前の重さを、俺は少し知っている。水を汲むたびに桶の底へ沈んでいた泥。飲む前に、誰かが匂いを確かめる間。薬草売りの婆さんが、濁った水を見て黙る時の足音。
それが全部、なくなったわけではない。
地面の下には、まだ古い重さが残っている。井戸の縁の奥。坂の石段の割れ目。市場の端の、誰も長く立たなかった場所。戻っている音の下で、戻りきらないものが静かに沈んでいた。
腐る、というのは、たぶん突然崩れることではない。
少しずつ、普通になる。
悪い方へ。
◆
「作物が育たなくなる」
グラン爺は続けた。
「水が濁る。病が増える。人の心も荒れる」
言葉は多くなかった。けれど、1つずつ床に置かれるたび、廃都のどこかが返事をした。
畑の土の湿り気。井戸の底の軽さ。子どもの足音。新しい荷物の重さ。ぐりが雑貨屋の裏で小さく跳ねる音。
戻っているものがある。
戻らなかった頃も、たぶんあった。
ネアの指が、今度は俺を押さえなかった。布の上で止まったまま、少し浮いている。触れる前で止めた指だった。
俺はその動きを聞いた。
(……俺が)
そこまでだった。
言葉の先を、俺は念話にしなかった。内心でも、あまり続けたくなかった。続けると、どこかで形が決まる。
クズ魔石だった。
ネアが拾った。
名前をもらった。
水が澄んできた。
人が来た。
地面が、少しずつ軽くなっている。
全部を並べると、答えのようになる。
だから、並べなかった。
ネアも聞かなかった。
その方が、少しだけ助かった。
もしネアが「イシルなの」と言っていたら、俺はたぶん、軽い返事を探した。石だぞ、とか。そんな大役は契約外だ、とか。いつもの逃げ道を、いつもの調子で探した。
でも、ネアは言わなかった。
ポケットの上の指だけが、触れる手前で止まっている。
聞かないでいる指だった。
◆
グラン爺はしばらく黙っていた。
炉には火が入っていない。古い灰の重さだけが残っている。窓の外を風が抜け、壁の隙間が小さく鳴った。紙の端が動きかけて、石の重さで止まる。
「わしらは、そういうものを守ってきた」
低い声だった。
「守れたものもある。守れなかったものもある」
ネアは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
聞きたいことはあった。お前は俺が何なのか知っているのか。いつから知っていたのか。どうして今まで言わなかったのか。
言わなかった。
ポケットの中は暗い。俺にはそもそも明るいも暗いもない。ただ、ネアの体温と、布の圧と、地面から来る振動がある。
その全部が、いつもより少し静かだった。
使えば届く念話がある。
使わなかった。
◆
外の足音が近づいて、また遠ざかった。
新しい子どもが、坂の途中で止まったらしい。神殿跡の方を見上げているのかもしれない。足先の重さが迷っていた。けれど、登っては来なかった。
ぐりがその下で跳ねた。1回。間を置いて、もう1回。
(お前は何をしてるんだ)
返事はない。
ぐりの硬い表面の音は、坂と市場の境目で止まった。ネアがこの家に入る時と同じ場所だ。来ない。けれど、離れもしない。
廃都はそういう止まり方をするものが多い。
グラン爺の家。
ネアの指。
俺の念話。
机の上の書かれない地図。
「急いで答えを出す話ではない」
グラン爺が言った。
まるで、こちらの止まり方を聞いていたみたいだった。
ネアの呼吸が、少しだけ戻った。
「答えは、急ぐと欠ける」
グラン爺の声が、少し掠れた。
「石も、人もな」
そこで、杖の音が止まった。
家の中の古い紙が、また小さく鳴った。机の端の石が紙を押さえている。薄い紙を飛ばさないためだけの、ただの重さ。けれど、その重さがなければ、紙は風に持っていかれる。
(ただの重しでも、役には立つ)
念話には出さなかった。
言ったら、何かをごまかす言葉になる。
◆
「お前に関係のある話かもしれない」
グラン爺の声が、ネアの方へ向いた。
ネアの指が、今度は布に触れた。押さえるのではなく、置く。薄い重さだった。
「そのうち、ちゃんと話そう」
それで、グラン爺は口を閉じた。
ネアはしばらく立たなかった。椅子の脚の重さも、ポケットの布も、家の中の紙も、そのまま止まっていた。
「……うん」
短い返事だった。
それ以上はなかった。
ネアが立ち上がる。椅子が床を擦る。グラン爺の杖が1度だけ鳴る。扉が開いて、市場の夕方が家の中に入ってきた。
外の空気は少し冷えていた。俺には温度の全部は分からない。けれど、ネアの指先が布越しに冷たかった。
坂を下りる。
ぐりが待っていた場所で、ネアの足音が少しだけ止まった。ぐりが跳ねる。ネアは何も言わない。足音はまた市場の方へ戻っていく。
井戸の方で、また水の音がした。
澄んだ水の軽さ。
腐る、という言葉の重さ。
その2つが、同じ地面の下にあった。
市場では、誰かが戸を閉めた。新しい家の戸だった。まだこの街の建付けに慣れていない閉め方で、木が少しだけ鳴った。
すぐ近くで、タロが何かを言い返す。聞き取れない。ぐりが跳ねる。ネアの足音は止まらない。
廃都は、今日も夕方を終わらせようとしていた。
何も決まっていないまま、戸の音だけが増えていく。
それでも、誰かは明日も水を汲む。
◆
(俺の話、らしい)
*【第47話 了】*
要石の話。
「お前に関係のある話かもしれない」
俺は、関係者らしい。
石なのに、巻き込まれ方が重い。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
石だが。
——石より




