第50話「踏み込む足音」
朝の市場は、まだ声が少なかった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
パン屋の戸板が開く音。井戸の縄がこすれる音。子どもが走って、誰かに止められる音。
どれも、廃都の朝の音だった。
その下に、別の足音が入ってきた。
街道の入口の石が、先に沈んだ。
それから靴底が来た。
歩くより先に、重さが地面を測っているみたいだった。
1人ではなかった。
3人。
並んでいるのに、足音の間がそろいすぎていた。荷を運ぶ人間の足でも、買い物に来た行商人の足でもない。止まる場所を探しているのではなく、止まる場所を決めてから歩いている足だった。
革が鳴った。
その奥で、金属が低く触れた。
(……この重さ、どこかで感じた気がする)
薄い記憶だった。
刃物の近くで聞いたような、鎖の近くで聞いたような、でも形にはならない重さ。
俺は念話にしなかった。
確かめるために、何かを伸ばすことも、しなかった。
◆
市場の音が、少しだけ細くなった。
ヴェラの店先で、粉袋が置かれた。いつもならそのまま戸口まで運ばれる重さが、店の内側で止まった。
タロの足音が、路地から出かけて、戻った。子どもたちの軽い足音も、それにつられて奥へ引いた。
ネアは歩き続けた。
薬草の束を抱えて、いつもの道を市場の端へ抜けようとしていた。足の向きは変えなかった。けれど、ポケットの上に置いた指が、ほんの少しだけ強くなった。
(いや、握るな。割れないけど)
もちろん、言わなかった。
街道の入口から来た3人は、声を出さなかった。
代わりに、靴底が石を叩いた。井戸の方へ1人。古い石壁の方へ1人。市場の中央へ1人。
住民の足音は散ったまま、遠くへは行かなかった。
戸口の内側。店の影。井戸から少し離れた場所。
廃都の朝が、薄く耳を澄ませていた。
ぐりの硬い体が、雑貨屋の横で転がりかけた。
ころ、と鳴って、すぐ止まった。
いつもならネアの足音に寄ってくる。けれど、その朝だけは、市場の石の隙間に半分だけ体を預けたままだった。
調査者の1人が、そこに気づいたらしい。
足音が、ぐりの方へ向きかけた。
ネアの指が、ポケットの上で止まった。
俺も止まった。
ぐりは動かなかった。
石を食う生き物のくせに、石のふりをしているみたいだった。
(いや、それは無理があるだろ)
内心だけで言った。
調査者の足音は、ぐりの手前で止まった。それから、興味をなくしたように井戸の方へずれた。
ぐりは、まだ動かなかった。
◆
市場の中央で、ダン爺さんの杖が鳴った。
かつん、と短い音。
それだけで、タロの足音が止まった。
ダン爺さんは、いつもの角から出てきた。足は遅い。けれど、遅いだけだった。迷いの重さは混じっていなかった。
「ネア」
低い声だった。
「こっちへ来るな」
ネアの足が止まった。
3人のうち、市場の中央にいた足音が、わずかに向きを変えた。ネアの方ではない。ダン爺さんの方だった。
ダン爺さんの杖の先が、石畳の欠けた場所に触れた。
そこは昔から欠けている場所だった。俺がここに来てからも、何度も聞いた欠け方だった。いつもの場所に、いつもの杖。
でも、杖を持つ手の重さだけが違った。
「あいつら、普通の人間じゃない」
ダン爺さんが言った。
「動き方が違う」
市場の空気が、そこで止まった。
ネアは返事をしなかった。
ポケットの上の指も動かなかった。
◆
井戸のそばにいた1人が、しゃがんだ。
水を覗く音は、俺には聞こえない。
けれど、井戸の縁の石にかかった重さは聞こえた。手のひらが触れ、少し押し、すぐ離れた。水を汲む人間の手ではなかった。
古い石壁の方にいた1人は、壁のひびに指を当てた。
石の奥が、かすかに鳴った。叩いたのではない。確かめたのでもない。もっと嫌な触れ方だった。閉じている扉の隙間に、細いものを差し込まれたみたいな感触。
市場の中央の1人は、腰の袋から細い棒のようなものを出した。
金属だった。
刃物ではない。武器でもない。けれど、持ち方が道具の持ち方ではなかった。
先端が石畳に触れた。
かすかに、地脈が鳴った。
音は小さい。
けれど、廃都の下にあるものを、上からこすられた感じがした。
フリンが本の紙を指で読む時とは違う。
グラン爺が杖で場所を確かめる時とも違う。
その棒は、聞くためではなく、答えを出させるために置かれていた。
俺の重さの奥が、少しだけ引かれた。
ネアの指が、もう一度強くなった。
俺は何も返さなかった。
返せば、そこにいると鳴る。
(何かを探している)
地脈の重さが、足の下で薄くめくられた。
市場の石。井戸の縁。壁の奥。古い排水路の欠けた角。
探しているものが、人なのか、石なのか、地面の下なのかは分からなかった。
(俺を探しているのかもしれない)
念話にしないまま、そこに置いた。
ネアが1歩だけ下がった。
家へ戻るための足ではなかった。ダン爺さんの前に出ないための足だった。
ダン爺さんは、それを聞いたらしい。
杖が、ほんの少しだけ横へずれた。ネアの通り道をふさぐ位置だった。
ネアは、また止まった。
◆
市場の中央にいた足音が、やっと声を出した。
「魔石の調査だ」
短い声だった。
礼儀の形だけがあって、中身が薄かった。
「この辺りで地脈の乱れがあると聞いた。通るだけだ」
誰も返事をしなかった。
通るだけの足音ではなかった。
地面を踏むたび、下を確かめていた。井戸に触れ、壁に触れ、店の柱に近づき、離れた。
俺は、ポケットの中で地脈を聞いていた。
力を伸ばせば、もう少し分かったかもしれない。
3人の足の下に流れる地脈を押し返せば、何かをずらせたかもしれない。
けれど、やらなかった。
ここで俺が動けば、探しているものに答えることになる。
(石、我慢してるんだぞ)
誰にも言わない我慢だった。
ネアの指が、少しだけゆるんだ。
伝わったわけではないと思う。たぶん。
ダン爺さんの杖が、調査者とネアの間で鳴った。
「調査なら、外の石から見ろ」
声は低かった。
怒鳴ってはいなかった。
「中は、人が住んでる」
市場のあちこちで、息が止まった。
人が住んでる。
ただ、それだけの言葉だった。
調査者はすぐには答えなかった。
石畳に置いた金属の棒を拾い上げ、布で先を拭いた。その布のこすれる音まで、妙に乾いていた。
「すぐ終わる」
「そうか」
ダン爺さんが言った。
「じゃあ、すぐ出ていけ」
タロの息が、路地の奥で変なところに引っかかった。
笑いそうになったのか、怖かったのか、どちらでもない音だった。
ネアは笑わなかった。
俺も笑わなかった。
石だって、空気くらいは読む。
◆
3人は市場を抜けた。
抜けた、というより、測り終えた場所から線を引くように離れていった。
井戸。石壁。雑貨屋の柱。ヴェラの店先。市場の中央。
足音が離れても、触れられた場所の重さがすぐには戻らなかった。
井戸の縁の石が、薄く沈んだままだった。
壁のひびも、開いてはいないのに、そこだけ音が残っていた。
金属の棒が触れた石畳には、傷はなかった。
傷はないのに、地脈の表面だけが少し乾いていた。
ヴェラの店先で、パンの焼ける匂いの代わりに、粉袋の布が擦れる音ばかりがした。
俺に匂いは分からない。
けれど、いつもならそこで増えるはずの声が増えなかった。
買いに来た婆さんの足音が、店の前で止まった。
袋を受け取る手の重さが、いつもより遅れた。
誰も、さっきの3人の話をしなかった。
話さないことで、まだ市場に置いている感じだった。
タロが路地の奥から出てきた。
何か言いかけて、口を閉じた。足音だけで分かった。声になる前の息が、胸のあたりで止まった。
ヴェラは粉袋を持ち上げた。
袋の底が台にこすれた。いつもの朝の音に戻ろうとしている音だった。
ダン爺さんの杖は、まだ動かなかった。
「……行った」
誰かが言った。
ダン爺さんは答えなかった。
ネアも答えなかった。
◆
街道の入口の石が、最後にもう一度沈んだ。
3人の足音は遠ざかった。
金属の音も薄くなった。
それでも、地脈の中には、さっきの靴底の重さが残っていた。
前に聞いた金属の重さ。
思い出せないまま、消えない重さ。
ダン爺さんの杖が、ようやく動いた。
かつん、と鳴って、いつもの角へ戻っていく。
途中で、杖が一度だけ止まった。
井戸の方でも、壁の方でもない。
街道の入口の方だった。
ダン爺さんは、何も言わなかった。
ただ、杖の先で石畳を軽く叩いた。
そこは、3人が最初に踏んだ場所だった。
叩かれた石は、短く鳴った。
いつもの石の音だった。
でも、少し遅れて、地脈の奥から別の重さが返ってきた。
踏まれたことを、覚えている音だった。
市場も少しずつ動き出した。
戸板が開き、縄が鳴り、子どもの足音が路地の奥でほどけた。
朝は戻った。
踏まれた場所だけ、戻らなかった。
◆
(踏み込まれた)
足音の話。
通るだけ、ではなかった。
俺は石なので、踏まれるのには慣れている。
これは、ちょっと違った。
石だが。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「見知らぬ男」もよろしく。
また来るらしい。
——石より




